桃五輪

 今日は一日中池のかんさつをしてました。

 金魚とか、カエルさんとかの絵をかきました。あとは、そうたろうときつねさんも。

 池にはいろんな生き物が来るんだなって思いました。

 池の水を飲みに、ちょうちょとか、小さい虫とか、あとヘビとか、小人さんとか。いろんなものが来てました。

 とくに、小人さんときつねさんがしゃべってたのは面白かったです。

 金魚は元気に泳いでました。

 夕方にお母さんにきつねさんの絵を見せたら、欲しいというので上げました。

 お母さんの宝物になるといいな。  




 指先も、鼻先も、耳の先も、凍るように冷たかった。

 颯太郎が嬉しそうに頬をベロリと舐めていく。その時の美咲にとって、犬の体温は痛いほどに熱かった。

 息を吐くと白く濁って、竹の林の間に消えていった。

 飛び石を踏んで、ぴょんぴょんと上機嫌に移動する。今は飛び石の下に落ちたら鰐に食べられてしまうというゲームの真っ最中だった。

 実際には鰐どころか、父親も母親もいなかったが。

 康介は三十分ほど前に仕事に出て、三代は未だに夢の中へと沈んでいた。

 カサカサと鳴った笹の枯葉の間に見慣れないものを見つけて美咲の足が止まる。空想上の鰐がいったん仕事を辞めた。

 颯太郎が笹の枯葉を散らして遊んでいるその隣に行けば、それは欠けた茶碗だった。青い線で鯉と清流が描かれている。どこにでもあるようにも見えるが、美咲と彼の一期一会に、彼女はいたく感動していた。

 彼は屋根裏の宝箱にしまい込まれるに違いない。

 汚れた部分を指先で軽くこすってきれいにしてやる。


「颯太郎、きれいなお椀だよ。すごいね」


 頭の上までそのお椀を掲げてくるりと回って見せる。もう鰐のことはすっかり忘れられていた。

 颯太郎がはしゃぐ美咲のことを嬉しそうに見ている。首元の毛に枯れた笹の葉が絡みついていた。


「え? 颯太郎も欲しいの? でも、これは一個しかないから美咲のだよ」


 外気に触れた冷たい鼻を押し付けてくる颯太郎に美咲が無邪気に告げる。


「意地悪してるんじゃないからね」


 美咲がお椀を胸元に抱えてそう言った。くねるように体を反らすので、颯太郎が嬉しそうに飛び掛かろうとしている。

 飛び掛かってきた彼の前足を掴んでゆっくりと地面に降ろした。三代は颯太郎のことをいつも年寄り扱いしているが、美咲はそうは思わなかった。

 足腰はしっかりしているし、走れば家族のだれよりも足が速い。よく食べて、良く遊んで、良く寝る。狐のこともいつも追いかけまわしているのに、彼が年寄りだとはやはり思えなかった。狐の方がよっぽど年寄り臭い。

 そういえば、今日は狐の姿を見ていないなと思ってあたりを見回すが、近くにはいないようだった。

 竹林が風に揺られて、ザザ、ザザと内緒話をしている。隣同士体をぶつけあって遊んでいるらしかった。

 あたりを見回している美咲のことを、颯太郎が不思議そうに見上げている。冷たい鼻が手のひらに押し付けられて、美咲の意識がそちらに向いた。

 飛び石の続く先には小さな溜め池がある。

 美咲のお気に入りの場所だ。

 竹の音や、颯太郎が穴を掘っている音、虫の声、風で揺れた水が岸に当たって跳ねる音、時々颯太郎に追いかけまわされる狐の声が混じる。

 そして、小さな話し声。

 姿が見えない何かが池の周りで話し込んでいることがあるのだ。

 内容は誰かの死を知らせる悲しいことであったり、花が咲いたことや、子供が生まれたことの嬉しい話であったりする。

 未だに声の主は見たことがないが、一度だけ池の水の上で錦の着物の裾が翻ったのを見たことがあった。

 彼女のほかにも何人かいるに違いない。

 美咲が耳を澄ませるが、今日は聞こえないようだった。


「今日は何もいないんだね。詰まんない」


 美咲が本当に残念そうに呟いた。自分を慰めるように、颯太郎の頭をぐりぐりと撫でる。撫でられた方は嬉しそうに美咲にすり寄った。

 残りの飛び石を飛んで池の淵までやってくる。水の上に枯れた笹の葉が何枚も浮いていた。波はなく、皆一様に凪いでいる。ここの水はどこからやってきているのか、猛暑の続く夏の日も、水の量が減ったのを見たことがなかった。

 冷たい風がまたあたりの竹林をざわざわと鳴らす。美咲の髪の毛が頬に叩きつけられた。

 目をつむれば、瞼の粘膜まで冷え切っている。彼女が指の先を丸め込む。康介の言う通り手袋をつけてくればよかったと後悔した。

 目を開けるが、笹の葉の浮かぶ水の上は凪いだままだ。何事もなかったとでも言いたそうにしていた。笹の葉の位置すら変わっていない。

 表面が白く濁っていた。

 また風が強く吹く。美咲が足元を踏ん張った。

 白く濁った水面を笹の葉が転がるように動いていって、池のふちから上がって行ってしまった。

 冬の身を切るような風を乗り切った美咲が池の中を覗き込む。 


「……凍ってる」


 それほどまでにその日の朝は寒かった。

 笹の葉は動かないのではなく、動けないかったのだ。そして、凍った後から入水した笹の葉たちは死にきれなかったらしかった。


「凍ってるね」


 美咲が池のふちのロープをギシギシと揺らしながら颯太郎へと振り返った。

 このロープをくぐってしまえば、美咲はもっと池に近づけるのだが、康介や三代が心配するのでそんなことはしない。

 氷の下でくぐもった影が動いたのを見て美咲が「あ!」と声を上げた。


「金魚。金魚凍えてないかな? 探さなきゃ」


 ロープの周りを歩いてぐるりと金魚の姿を探した。夏に買った時よりも一回りほど大きくなったそれらはいつの間にか五匹から八匹へと増えていたが、美咲以外は気が付いていないようである。狐にも教えようかと思っていたが、美咲は何故だかそれをしていなかった。

 ロープを右手に握ってそれを伝っていく。

 康介はいつも優しく「落ちないようにね」と言うが、美咲はこんな池に落ちるはずがないだろうと憤っているのだった。

 ちょうど飛び石がある方とは反対側に三匹だけ赤い姿を確認できる。

 氷をコンコンとたたくと、散り散りに逃げていった。


「寒いねぇ」


 と、美咲が言う。

 颯太郎が舌を出して嬉しそうに笑っていた。

 飛び石の方から三代の足音が聞こえてきていた。  

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