赤三輪
今日芙蓉が咲きました。朝は白くて大きな花だったのに、夕方にはピンク色の花になっていました。きつねさんはもっと赤くなると言ってたので、日が暮れるまで見てたけど、やっぱりピンク色のままでした。
しぼんで落ちた花は紫色になってました。
練り切りみたいでかわいかったです。
いつか赤くなるまではかんさつしようかなって思ってます。
お父さんがお土産におまんじゅうを買ってきてくれました。
ピンクと白のおまんじゅうでした。
ぽつりぽつりとついていた蕾がとうとう大きく開き始めた。
数輪ぼけたのがあるようで、月光の下でもその白い顔を揺らしている。
まだわずかに熱さを孕んだ風が庭を転げまわっているが、三代は気が気ではなかった。
夫の帰りが遅い。
生垣の向こう側に何度も夫の車のライトを探すが、彼是数時間そんなことを繰り返していた。
まさか、彼に限って仕事でへまをしたなどと言うようなことはないだろうと何度も自分に言い聞かせる。
彼は技術においては三代よりもずっと優秀な退魔師だった。だから、今でもこの仕事が続けられている。
三代とその娘のために身を粉にして働いているのだ。
芙蓉が風で揺れたのが一瞬人影のように見えて、三代がハッと顔を上げた。
薄暗闇の中に白い大きな花があるだけだ。
車のライトは未だに見えない。
怖くて時計は見れなかった。ただ、薄雲がかぶさった月はもう真上よりも少し下の方まで行ってしまっている。
「遅いわね」
寂しさを紛らわすようにそう呟いた。
もしも彼が明日の朝まで帰ってこなければ、美咲にはなんと伝えればよいのだろうか。そうなれば康介はもう二度と帰っては来ないだろう。
颯太郎と眠りについた血を分けたあの可愛い娘をどう慰めるべきか。あの優しい男のことを本当に父親だと思い慕っている。
あるいは、嘘をつくのだっていいのかもしれない。それはきっと間違いではないのだから。三代はすでに美咲にいくつもの数えきれない嘘をついている。ばれない限り自分はそれを突き通すのだろう。それが正しいことではないのは分かっていた。しかし、彼女や自分自身を守るにはそうするしかないのだ。
三代は地位も権力も持たないただの母親である。
庭にさしていた薄い明りがふっと陰った。月が黒い雲に隠されてしまっている。
グラグラと揺れていた白い芙蓉の花が手折られたように一輪ぽとりと落ちた。不幸にも社の屋根に上に落ちたそれが、今度は後ろが透けるほどに薄くなった狐の上に落ちた。
三代が目を見張る。
庭にいることなど珍しい。
九本の尾がやはり手招きをしているように蠢いていた。
それをしばらくの間ぼーっと眺めていた三代だったが、ふと思い立ったように声をかけた。
「珍しいね、家の外にいるなんて」
「……」
「そんなに薄くなっても、私には見えてるよ」
「お前の娘にも見えてるぞ」
「そんなの知ってるわよ。だって、私の血を継いだ子よ。見えないはずないわ」
三代が当たり前とでもいうように言って、風で乱れた髪の毛を整えた。
夜風で冷えた縁側を撫でる。
三代の視線はもう生垣の外には注がれていない。
「あんた、私が退魔師を引退した理由知ってる?」
彼女がふと思い立ったようにそう尋ねた。体がわずかに前に傾く。まるで、芙蓉の木の下の狐に勝負でも仕掛けるようだった。
「力の減退だろ?」
きつねがため息をつくように答えたが、赤く鋭い瞳が三代を睨みつけている。
「でも俺は、嘘つきは嫌いだ」
「私のどこが嘘つきだっていうのよ。本当よ」
「娘を守るために、祓いやすい家に引っ越しておいてか? 俺のことを祓わない理由が何か特別にあるはずだろう」
「自意識過剰なきつねねぇ」
力の抜けたその言い方は美咲にそっくりだった。いや、美咲が三代に似ているのだ。
「あんた、一応祀られるようなえらーい狐なんでしょ? 神々の末席に名を連ねる」
「八百万だぞ」
「どれもこれも私にとっては一緒よ。私だっておこがましくも生き神にされそうになったのよ。だから、力が減退した」
ぼんやりとした瞳で、三代が手を握ったり閉じたりして見せる。その手にはいくつもの傷跡が刻まれていた。母親として生活していてできたものではないということだけはきつにも分かる。
黒く濡れた瞳は美咲にそっくりだったが、その目が映しているものはまったく違った。
時期に美咲もこうなってしまうのならば、あの子は死んでしまってもいいのではと思った狐を三代の黒い目がぎろりとねめつける。
重く大きくなりすぎたのか、芙蓉の蕾が一つ狐の頭に落ちた。
「若いころはよかったわ。体もよく動いたし、勘も鋭かった」
狐が落ちてしまった蕾を拾い上げる。水をたっぷり含んでずっしりと重いそれに思い切りかぶりついた。
その様子を見ながら三代は続ける。
「今より自由はなかったけれど、そんなこと気にならないくらいに時間があった」
何を考えているのか、視線は遠い。夫の姿を探しているのかもしれないし、美咲の父親を警戒しているのかもしれなかった。
雲の切れ間から月が覗く。
スポットライトのように、狐の姿が照らされた。
咲きたての酔芙蓉のように白い体を三代は黙って見つめていた。体が更に前のめりになる。立てた足によりかかるような体勢で、黒い瞳が瞬いていた。
九本の尾が、それぞれにグラグラと動いている。
「年なんかとりたくないもんだわ、まったく」
諦めのついていない声だ。時を巻き戻すすべがないことを知っているだろうに。だが、あるいは彼女ならば打開策を持っているのかもしれなかった。
「あんたのこと、見逃した理由教えてあげる」
笑う姿も美咲に似ているのが恐ろしい。
きれいに整えられた爪が白い狐をぎゅっと指さしていた。
狐の赤い瞳がそれを見返している。折れてやるつもりも、祓われるつもりも彼にはなかった。
形のいい唇が動く。
「私たちやあんたみたいな化生の者があの子の周りをうろつくのが許せないのよ」
その目はギラリと光っていた。何か自分に不利益なものでも思い出してしまったのか。声は美咲と同じであるのに、出てくる言葉は彼女の何倍も苦しそうな懺悔だった。
傷だらけの手を見つめて、今度はまた狐を見る。
「でも、化生の者を祓えるのは化生の者だけ。私たちは美咲を守るためだけにここにいるのよ」
「……何言ってんだお前」
彼女の言うことが正しければ、それは悲しいことになる。
三代は美咲の母親として彼女を守っているのではないのだ。退魔師として美咲を守っていることになる。ならば、美咲のことを一番に考えてやっているのは誰なのだろうか。
美咲が自分の父親だと教え込まれている人物は、三代のことしか崇めていない。三代の娘であるために、美咲は好意を抱かれているというだけだ。
狐が身震いする。
おそらく、美咲はこの家の中で一人ぼっちだ。
傍には言葉の通じない、あと数年で寿命を迎えるであろう犬がいるだけである。
考え込む狐が、場を繋ごうとでもいうかのように口を利く。
三代にはかなうはずがない。
「俺は……」
「そのうち分かるわよ。あと何年もしないうちにね。私の決心がついたなら、あんたは目の当たりにすることになる」
風が三代の方から吹いてきて、狐の毛をさらに逆立てた。視線は芙蓉の木へと移っている。
「芙蓉、きれいね」
狐がまた口を開く前にとでもいうかのように、三代がおそらくは意味のない言葉を口にしていく。お前は必要ないものなのだと言われているような気分だった。
黒い瞳は狐の体を映していない。
狐が更にさらに薄くなって、とうとう消えた。
何を考えていたのだろうか。
「康介さん、遅いわ。まだ帰ってこないのかしら」
気の抜けた言い方はやはり美咲にそっくりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます