赤二輪
お母さんは最近インターネットを覚えました。お店に行かなくてもお買い物ができるってよろこんでました。
ますます引きこもりです。
お父さんはいつもお母さんに引きこもりはだめだよって言ってるけど、あんまり聞いてないみたいです。
お父さんはいつもお母さんの話ちゃんと聞いてあげてるんだから、お母さんもお父さんの話ちゃんと聞いてあげればいいのにって思いました。
そうたろうはどっちのいうこともちゃんと聞きます。
聞かないのはきつねさんの言うことだけかな?
そうたろうはきつねさんの言葉が聞こえてないみたい。
あんなに大きい声で吠えてるのにね。
その日は思いがけず早く返ることができた。家の一番近くのドーナツショップでドーナツをいくつか買って帰路に就く。康介の頭の中はもうすでに娘とその母親のことでいっぱいだ。
車内のデジタル時計は三時半を示している。何事もなければ美咲と一緒に散歩に行けると思い康介は知らず知らずのうちに鼻歌を歌っていた。
親子三人と犬が一匹いるだけの慎ましやかな暮らしではあったが、新しく家を買ったことも相まって金は入用だった。引っ越した当初よりは落ち着いてきているが、何があるか油断はできない。
今の家に引っ越してきてから、三代は退魔師業を引退しほぼ隠居生活だ。娘との交流や庭づくりに勤しむ普通の主婦になっている。康介はそれでもいいと思っていた。彼女の才能がこのまま腐っていくのは口惜しいという声もあったが、彼女が選んだことについて、彼女自身が後悔していなければよいのだ。
ただ、彼女が望まないことが降りかかることは避けたい。それ故に康介はあの口うるさい業界と三代との間に立つために、言うなればストッパーの役目を果たすために退魔師としての道を捨てなかった。
三代とのバディは解消され一杯一杯の時もあるが、部下もそれなりにいて楽しくやっている。それもこれも、家で待つ三代と美咲のおかげであった。
気が付けば気持ち強くアクセルを踏んでいる自分がいた。
家の駐車場に車を止め、急いで車から降りる。玄関前に数人の人がいたのを見たためだった。この家にはめったに客人はない。引っ越しの際、知り合いにも三代の唯一の親戚である叔母の花々苗にすら教えなかったのである。その地域に住むのに問題がない程度には近所づきあいもしているが、裏を返せば同じ人物しかその家には尋ねてこないことになる。
ましてや、家紋を背負った着物の軍団など、その家に来るはずがないのだ。
走って玄関の方へ回り、その背中を見たが、糸輪に蛇の目傘であった。見慣れた家紋ではなかったことにほっとする。。
三人の先に困り果てた顔で頭を振る三代の姿が見えた。
「お引き取りください。私はもうそのような仕事は請け負っておりませんので……本家でも、店子の方へでも行ってください」
「そこを何とかお頼み申し上げているのです。狗妖家の三代様にしか祓うことはできません」
「狗妖家の者でしたら本家へ行けばいくらでも……それに、私はもう狗妖の流派とは全く関係ありませんので……」
「頼みます。娘の命がかかっているのです」
「……私には何も関係のないことですので」
三代がそう言って頭を下げるが、三人は梃子でも動きそうになかった。
彼女が首を横に振る。
「なんにせよ、こんなところまで来られても困ります。康介の所へ行ってください。彼なら話くらいは聞いてくれると思いますし。それに、ここは専門窓口でもありません」
三代がもう一度頭を下げた。
彼らはこの小さな住処をどのようにして見つけたのだろうか。それとも、その業界では周知の事実であり、康介だけがその輪から外されていたのか。
足元が揺れている気がした。今までの安寧が崩れ去るような気がする。それとも今まで康介が体験していた穏やかな三年間が嘘だったとでもいうのだろうか。
三代が顔をしかめていた。
糸輪に蛇の目傘の三人は引き下がらない。
「お願いします」
「帰れと言っているのが分からないのですか? どうしたって、私にできることはありません。お引き取りください」
若いころを彷彿とさせる硬い声だった。首が振られる。
それでも頭を下げたまま動かない三人組に三代がもう一言浴びせかけようと口を開きかけたが、それを康介が止めた。
「三代」
「……康介さん」
「何もなかったかい?」
「ええ」
伏し目がちにするその真意は何なのだろうか。彼女が続けようとしていたその言葉を考えるのを止められなかった。
康介が頭を下げたままの三人に声をかける。
「狗妖派下総支部の支部長の貴啼康介です。名刺をお渡ししますから、日を改めて支部の方へ依頼を出してください。私がお取り次ぎいたします」
名刺を押し付けるように渡すと、康介が笑顔で深々と頭を下げる。
「ですので、どうか今日はお引き取りください」
三人が少しだけ小さな声で話し合うと、そのまままた深々と頭を下げてから三代と康介に背を向けた。
おかしな仕事を引き受けることになってしまったが、玄関の前でもめ続けるよりもずっと良かった。
三代は三人の背中が見えなくなるまでずっと見送っていた。
暮れなずみ始めた玄関の前で彼女が深くため息をつき首を横に振る。顔色は悪い。何かを悔いているのか、それとも、これから起こるであろうことを苦慮しているのか。
「何てことかしら……」
苦しそうな声に、康介が彼女の肩を撫でる。
「三年間も見つからなかっただけ奇跡みたいなものだよ。運がよかった。本当に」
「そうよね」
三代が鼻をすする。白い手が目元をしきりにこすっていた。
「逃げてばっかりいられないわ」
目線は下に落ちたまま。
今日の残りの時間を彼女は母親として過ごせるのだろうかということだけが、康介の思考の中にあった。
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