桃三輪
美咲のお父さんはじえいぎょうっていうんだって。きつねさんが言っていました。
お父さんは朝早く出ていったり、ゆっくり出ていったり、いろいろだけど、そういうのをじえいぎょうっていうのかな?
前のおうちではおとうさんと一緒の時間におかあさんが出ていくこともあったけど、って聞いたら、お母さんも昔はじえいぎょうだったんだってきつねさん言ってました。
お母さんは今はしゅふって呼ばれるみたい。
でも、毎日お庭で遊んでるからしゅふっていうよりにわしさんだよね。
今日のおとうさん帰ってきたときにケガしてました。前も時々ケガしてる時あったけど、今日が一番ひどいと思います。お母さんがすごくおどろいていました。なので、美咲は泣かないようにがんばりました。
じえいぎょうってあぶない仕事なんだね。
おとうさんのケガが早く治りますように。
至福の時間である。秋の涼しい風に任せて、適当に乾かした髪の毛を吹かせる。
湿り気を持った髪の毛が冷えてくるころには髪の毛もすっかり乾くという寸法だった。
縁側から足を投げ出して、浴衣の裾がはたはたと翻っていた。
とすとす、と重さのある足音がして、隣に座る。
大きな掌が美咲の足首を掴んで引き寄せたかと思うと、乱れていた浴衣の裾を直す。
「こら、はしたない」
「誰も見てないし」
「私が見てるでしょう」
「そうねぇ」
と、三代は康介に気のない返事をやった。
縁側の上で康介のいいようにくるくると遊ばれて、頭がようやく彼の膝の上に落ち着いた。
脱力した三代がじろりと康介を見る。
男の方は面白そうに笑っていた。
膝枕などして何が楽しいのかと思ったが、彼が楽しそうならばそれでいいかと三代が一つだけ息を吐いて考えを諦める。
男の指が穏やかに女の髪の毛を撫でていた。
風が吹いて浴衣の裾がはためくのを康介が大急ぎで止める。
三代はその動きにくすくすと笑っていた。
娘はどうしているのかと三代の頭を過るが、この賢い男がその対策をしていないはずがない。大方、風呂あがりにアイスか何かとテレビの占有権でも与えて足止めをしているのだろう。テレビの前で録画していた日曜早朝のアニメ番組を真剣に観つつ上機嫌にアイスを食べている娘の姿がありありと想像できた。きっと隣には忠犬が従えていることだろう。
夜風のおかげですっかり乾いた髪の毛をおもちゃのように何度も遊んでいた指先が、今度は首元へと移動した。
わずかに自分の体温よりも温かいその手が心地よい。
勤めに出ている自分の方が疲れているだろうに、男の手つきは優しかった。肩を揉み解すように力を加えてくる。
三代がそれに任せて力を抜いた。
首を撫でていた康介が突然に美咲のことをひっくり返す。
うなじを二三回撫でるとぽつりとつぶやいた。
「日に焼けたね」
「嫌だ、本当に?」
髪の毛を掻き分けられ首元は夜風にさらされてひんやりと冷たかった。
三代が言葉にあわてて自分の首元を隠すように触る。
「そんなにひどくないよ? 元が白いから悪目立ちしてるだけ」
と言う康介のフォローは三代の耳に入っていない。
「明日からもっと厚着して作業しなきゃ」
「熱中症で倒れられても困るなぁ」
夜はもうだいぶ涼しくなったが、日中にはまた夏が帰ってくる。草木が枯れて三代が草むしりから解放されるのはもう少し先なはずだった。
そして、その前に芙蓉の落ち葉集めや剪定が待っていることだろう。あの伸び放題になっている健やかな木を少し整えてやらなければ、時期にこの庭は芙蓉に占拠されてしまうに違いない。
康介の思考を察知したように芙蓉の木がざわざわと揺れた。
心地よい温度の風が吹き込んで三代の浴衣の裾をまたはためかせる。
今度は三代が自分で裾を直していた。
木の陰に控えめな社が覗く。
「気にしなくても平気だよ。これくらいが健康的でいい」
そういうと、今度は三代の腕を取る。三代は康介の膝の上でされるがままだ。
「あれ、腕はそんなに焼けてないんだね」
「長袖着てるもの」
「熱いの我慢して?」
「もちろん」
白い肌の上を康介がなぞっていき、後を辿って三代の指も続いた。
「それに、日に焼けると傷跡が目立つでしょう?」
「ああ……」
肌の上の薄い凹凸やピンク色の肉の盛り上がりを康介が優しく摩る。
その傷のどれもが愛おしかった。
彼女の今までの功績や成果だとも思う。
「今度、海にでも行こうか。三人で」
その夢は叶うだろうか。三代がもう少しだけ外出するのに慣れて、美咲が大きくなれば難しいことではないはずだった。
三代が不思議そうな顔をして康介を見ている。
険しい顔をしていたかと思って、意識的に眦を下げれば三代が怪訝そうに首を傾げた。
「……私泳げないんだけど」
「私が教えてあげるよ」
本当に家事と庭いじり以外は苦手らしかった。
結婚の際に三代が言っていた「特別なことは何もできない」と言う言葉がなぜだか懐かしく思える。あの言葉はすっかり嘘だったと言えるだろう。
「康介さん、スパルタだからなぁ。美咲も泳げるようになるかしら?」
「私たちの子供だから、筋はいいはず。ミーちゃん、水好きなはずだし」
康介の膝の上で寝返りを打って三代が彼を見上げた。今度は三代が彼の逞しい腕を取って優しくなでている。
「あんな小さい溜め池に足しげく通うほどですもんね」
「あれ? あんまり相手してくれないから拗ねてるの?」
「違うよ」
三代が顔を庭へと向けた。
奥に見える竹林が揺れていたが、芙蓉の木は葉の一枚も動いていない。
「あんな所へ居て、変な奴に引っ張り込まれやしないかって心配なのよ」
わずかに怒ったように言う三代に康介がくすくすと肩を揺らして笑う。素直じゃないなぁ、という言葉はぐっと飲みこまれた。
今度こそ秋の風がざあっと音を立てた。
先っぽに元気のなくなった芙蓉の葉がされるがままに揺すられている。
「ミーちゃんは大丈夫だよ」
「……」
三代の目が何かを考えるように、彷徨う。肩にかかった自分の髪の毛をわずかにいじってから、不思議そうな声がした。
「どうしてそんな風に言い切るのかしら? 何か知ってるみたい」
「いやいや、別に。深い意味はないよ。颯太郎がいつも一緒だし、大丈夫かなって。それに、そんなに深い池でもないし……」
三代の視線に気圧されたのか、しどろもどろになりながらやっと答えた康介に、三代は緩い微笑みを向けているだけだった。
「そうよね、深い池じゃないわ」
春になったらまた掃除をして、美咲が入れるようにすればいい。
池に入るときには三代か康介が見守っていればいいのだ。一緒に入って遊ぶのだって康介は構わなかった。
「でも、子供は三十センチもあれば死ぬのに十分なのよね……」
ゆっくりと瞬きをする三代の髪の毛を康介が梳いていた。
黒い瞳も横顔も、その声もすべてがそっくりな親子だった。
似た人同士が心配しあっている。お互いどこかに危うさを感じているゆえかもしれなかった。
康介がますますこの親子を守らねばと思う。
自分がいればまず三代に何か起こることはないだろう。だが、自分のかわいい娘はどうなるのだろうか。何も知らない、年齢の割に字も満足に書けないような子だ。
守ってやるにしても、自分の力は小さすぎると思う。
優しく腕をさすっていた白い手があるものを引き当てて声を上げた。
「あ、血管」
「何?」
「康介さん、やっぱり男の人なのね、血管が太い」
ひじの裏あたりを指先が何度かつつく。思っていたよりも爪が短く整えられていた。これも土いじりの成果だろうか。
指先が下の方に降りてきてまた血管をつつく。痛くもなければ、苦しくもないが、なぜだかむず痒い気持ちになって康介が甚平の中に入り込んだ手を布ごとつかんだ。
「あれ? いつも男らしくなかった?」
首をかしげて言うと、風が縁側に上がり込んだ。
「さぁ? どうだったかしら。覚えてないわね」
鼻を鳴らすように笑った顔が突然康介に近づいてくる。
お互いの息がかかるほどの距離にまで縮まって、三代が目を眇めて笑った。
どちらともなく指を絡め、唇が触れ合う。
絡まった指を解いて、三代がその手を愛おしそうに撫でた。
「やっぱり、痕残っちゃったわね。痛む?」
「いや、少し攣るけど、そんなに気にならないよ」
手のひらに横一文字に残った傷跡を心配そうに撫でる。その傷はいつの春のものだったろうか。傷跡が残るような怪我をするのは久しぶりで、美咲が必要以上に怯えていたのをよく覚えていた。
自分も転んでよく膝をすりむく癖に、他人のケガと言うものはやはり酷く映るのだろう。
あの子供の泣き顔や怯えた顔に弱いのはやはり彼女が三代に似ているからだ。
「あんなにひどいケガしてるの、久しぶりに見たから驚いちゃった」
三代は怪我を嫌がるが、康介はそうは思わなかった。
背中の傷も、腹の大きな傷も、首元にある傷もどれもこれも康介にとっては誇らしいものだ。自分が一時でも三代の隣に立っていたのだという証になる。これから負う傷はすべて三代とその娘を守った証拠にもなる。
自分の存在が認めてられているような気がした。
「三代が現役の頃はよくしてたじゃない」
「そうだったかしら? 康介さんはとっても強かったから、私はそんな風には思わなかったけど」
三代は戸惑いも、焦りも、不安もすべてその黒い瞳と髪の毛に融かして隠してしまう。
故に、居ないものだった康介のことを受け入れたのだ。
三代との出会いは今でも忘れられない。
風がまた吹いて、今度は三代の髪の毛を生き物のように動かした。自分たちの後ろにある影が動いたようにも思える。
「それじゃあ、三代はうまい事私に騙されてくれてたんだね」
「やだ、私のことだましてたの?」
「さぁ、どうだったかなぁ」
康介が三代の顔のラインをゆっくりと撫でる。
その指先を追うようにして三代の手が彼の手に重なった。
視線が絡んで、もう一度二人がキスをする。
顔を離して二人がゆっくりと笑んだ。
「「そろそろ美咲が来る」」
さすが夫婦である。タイミングもテンポもぴったりであった。
母親と父親を探す足音が着実に近づいてきている。
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