白七輪

 そうたろうのお散歩はいつもお父さんの仕事です。お仕事から帰ってきて、夜暗くなってもそうたろうをお散歩に連れて行きます。

 美咲がお外に出れれば明るいうちに行けるし、お父さんのお仕事もへるからいいのになぁっていつも思います。

 でも、お散歩いがいは美咲がやってます。ごはんとか、トイレとか、一番遊んであげるのも美咲です。

 なのに、そうたろうは最近きつねさんに夢中なのがちょっとつまらないような気がします。だって、きつねさん見つけたら、美咲のことほっぽって行ってしまうんだもん。つまらないよね。

 そういう時はそうたろうの大好きなさつまいもスティックで釣ることにしています。




 寒いが、楽しい。

 美咲の機嫌がよくなって、わずかにステップを踏むようにして歩けばリードにつながれた犬の歩調もほんの少しだけ変わった。

 左右を囲むコンクリートの塀や、人間の顔にも見える家屋の門扉。アスファルトの上に敷かれたチョークでできた線路の上にはなぜだかちぎれたキーホルダーが転がっていた。

 美咲が一瞬立ち止まると、颯太郎がそのキーホルダーの匂いを嗅ぎ始める。持ち主は見つかるのだろうか。

 お腹を空かせた彼が、そのキーホルダーを咥えようとするので、美咲が慌ててリードを引く。


「駄目だよ、颯太郎。ごはんはおうちに帰ってからでしょ?」


 美咲の言葉を聞いて彼が首を傾げていた。最近は耳も悪くなり始めている。

 手袋をつけたままの手で彼の頭を撫でて、美咲がまた歩き出した。

 影は長く、日は短い。あと三十分もしないうちに陽は沈むだろう。そうしたら暗い夜が来る。

 美咲が頭を左右に振った。

 家に帰れば何も怖いことは起きないのだ。

 前に垂れてきたマフラーを結びなおして少しだけ歩幅を大きくした。 

 夕方の風にさらされた耳が冷たく、目をぎゅっとつむると瞼も冷えているのがよくわかる。

 美咲があたりを見回した。

 通り過ぎようとしている民家にはカーテン越しに明かりがついているのが見えた。しかし、隣の家はまだ暗い。向かい側の家の戸には不動産屋の電話番号の書いてある広告が大きく張ってあった。

 颯太郎と行くいつもの散歩コースだ。

 電柱に彼が寄って行くと、マーキングをしていた。

 あと一キロほど歩けば、美咲が許されている唯一の一人でできる外出は終わってしまう。家では母親が温かいココアを作って待っていてくれているに違いない。   

 再び美咲が颯太郎を見た。


「颯太郎、運動足りてる? 最近太ってきたんじゃない?」


 彼が嬉しそうな顔で美咲を見ていた。こんなに寒いのに、彼は舌を外に出して体温調節を行っている。

 美咲が白い息を吐きだした。


「ちょっとだけ走ろうか。誰も見てないし」


 美咲と颯太郎の足音が民家の間に響ていた。

 古いのも、新しいのも、家族が住んでいるものも、住んでいないものも、全部美咲には普通の家に見える。

 家の白い壁にできたシミが人の顔のように見えた。

 走っていくにつれて、体が温まる。頬が紅潮して、息が上がった。

 少しずつスピードを落として、また歩く。    

 曲がり角を曲がろうとすると、ちょうど西日を背負う形になった。

 長く伸びた美咲と颯太郎の影の上に、人間の手の影が十本も重なる。

 美咲が驚いて後ろを振り向く。

 だが、彼の姿はなかった。

 影は伸び続けている。

 美咲がもう一度あたりを見回してから颯太郎に話しかけた。


「恥ずかしがり屋さんだねぇ、一緒に散歩に行きたいならそう言えばいいのにねぇ」


 彼は分かっているのかいないのか、嬉しそうに一度だけしっぽを振った。

 美咲が続ける。


「それとも、あれかなぁ。きつねさんだけ、かっこいい紐持ってないのが嫌なのかなぁ? お父さんにお願いして買ってもらうのにねぇ……」


 美咲が肩越しにちらりと後ろを見やる。やはり姿はなかった。だが、影はある。

 十本の手がさようならを言うようにゆらりゆらりと左右に揺れていた。誰かを送っているようだった。


「あ、もしかして! ドッグフード食べさせたの怒ってる?」


 もう一度後ろを見る。やはりいない。

 前に視線を戻すと影も消えていた。


「何だ、詰まんない。もうどこかに行っちゃった。帰るの早いよねぇ」


 美咲が颯太郎の頭をまた撫でる。

 リードを持ち直すと、また歩き出す。

 いつの間にか足音は一つ分増えていた。影はなかった。



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