桃二輪
池に柵ができました。お父さんとお母さんが昨日作ったみたいです。柵の中に入らないなら、池のまわりで遊んでもいいんだって。お父さんに柵っていう漢字をおしえてもらいました。美咲もちょっとだけおねえさんになった気持ちです。
今日はとても晴れていたのでもちろん池の周りで遊びました。池の中はさびしいので、夏祭りの時に金魚すくいをして金魚を泳がせてあげようかなって思います。前のおうちでは金魚が元気ですいそうから出てきちゃったけど、池ならきっと大丈夫なはずです。だって、広いし、おうちの中じゃないから。
お母さんがそうたろうをホースで水浴びさせていました。美咲もお水をかぶろうとしたけど、お母さんにかぜをひくと言われたのでやめました。美咲はかぜが嫌いです。だって怖いから。
かぜをひくとお母さんもお父さんも優しいし、二人共家にいてくれるけど、とてもしんぱいされるので、かぜはひかないことにしています。
今日もきつねさんは元気でした。池で泳いでいました。
小さないたずら心だった。
特別驚かそうとかそういった意図はなく、ただ楽しそうだからそういうことをしているだけなのだ。
バランスを取るように両腕は顔の付近まで上げられて、足音を立てないように小さい足先は指先からそっと降ろされている。
廊下のしびれるくらいの冷たさが裸足の足に直に登ってきた。
口は笑いをかみ殺すためにぎゅっと引き結ばれる。
美咲にとってこれはとても大事な儀式で、何よりも楽しい事だった。
二つの掌が、母親のゆったりとした猫背を狙っている。
美咲の目が楽しそうに眇められた。
指先が触れるのにあと一呼吸もいらないと思われたその時に、美咲の小さな手を、大きな冷たい手がぎゅっと握る。
「捕まえた!」
「うわっ!」
引っ張られた勢いのままに、美咲が三代の膝の上に倒れ込んだ。彼女の膝の上はとても暖かい。
上を見上げれば、楽しそうににやにやと笑う母親の顔があった。
「いたずらっ子めー」
「お母さん!」
美咲が何か内側からこみ上げる力や思いを持て余して、三代に抱き着く。三代はそれをしっかりと受け止めた。
「どうしたの? 甘えんぼさん。いつまでたっても大きくならないわね」
「えへへ」
三代の言葉に美咲は笑って、いまだに母親の薄い腹に甘え続けていた。まるで、その胎に戻りたいとでもいうかのように頭を押し付ける。
三代は穏やかに笑って、その頭をゆっくりと撫でつけていた。
庭ではすっかり裸に剥かれてしまった芙蓉の木がその骨組みだけをゆらゆらと揺らしている。
木の幹に隠れるようにして朱塗りの小さな社殿がたたずんでいた。
あのきつねは今日も家のどこかにいる。
あるいはどこかから親子の姿を覗っているかもしれなかった。
「お母さん」
と美咲が呼ぶ。
「寒くないの?」
「いいえ、全然。美咲がいてくれるからね」
「美咲も、お母さんがいるから寒くないよ」
「ほんとね」
縁側の板張りの床は冷たかったが、確かに母親の膝の上は暖かかった。
三代が美咲を柔らかい太ももの上に抱えなおして、ブランケットをかけてやる。
母親が娘を抱え込むようにしてまた読書に没頭し始めると、美咲は実に暇になってしまった。周りには色々な本が読み散らかされている。付箋があってある物やら、ページを開けたまま逆さにひっくり返されているもの、ページが折られていたり、何度も読まれているせいか、開き癖がついてしまってるものまで。それらすべてが経年によって黄色っぽく変色した紙で出来上がっていた。
美咲が一番手近にあったものを引き寄せて開くが、三代は何も言わない。
簡単な漢字とひらがなとカタカナの読み書きしかできない美咲にその内容が分かるはずがないのを知っているのだ。
それでも美咲は本の内容に一生懸命に目を通す。挿絵を嘗め回すように見つめ、知らない漢字であろうともその頭の中に焼き付けることに集中した。
そんな娘の姿を見て、三代が声をかける。
「美咲、その本面白い?」
「中身は難しくて美咲にはわからないや。お母さんにならわかる?」
「うーん、どうかしら?」
三代が笑いながら首を傾げた。
「お母さんにも難しくてわからないかもしれない」
「そうなんだ」
指先の冷えた手が美咲の頭を撫でていた。
「そのうち、この本が読めるようになったころ、美咲は何になってるかしらね」
「何が?」
「美咲は将来何になりたいの?」
唐突な質問だった。
美咲の視線は庭のずっと遠い所にある。池のことでも考えていたのだろう。
「……お父さんのお嫁さんかなぁ」
「まぁ、ライバルがいるわ」
この答えを聞いたなら、康介は喜ぶに違いない。それほど子煩悩な男だった。血のつながらない美咲を本当の娘のようにかわいがってくれている。
庭で芙蓉の木がゆれていた。
「お母さんの夢は?」
「ずーっと康介さんのお嫁さんでいることかな。あとは、ずーっと美咲のお母さんでいてあげるわ」
「お母さんはずーっと美咲のお母さんでしょ?」
「そうねぇ」
と頷いて、三代が美咲を力いっぱいに抱いた。
庭の外で芙蓉の木が手招くように揺れている。
庭を狐が横切って行った気がした。
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