桃一輪


 寝る子は良く育ちます。そうたろうはよく寝ているので、とっても良く育ちます。お母さんもよく寝ているので、とっても育ちます。特に、かみのけが良く育ちます。新しい家に来るまでは、引きずるくらい長いかみのけでした。時々そうたろうにふまれてたのがおもしろかったです。いつかの日記にそのお話を書いたような気がします。

 お母さんはこの家に来る時にかみのけを腰の長さくらいに切ってしまいました。とってもざんねんです。切った時にお母さんも悲しそうでした。悲しいのに、どうしてかみのけを切っちゃったんだろう? そうたろうはかみのけを切ってあげるととてもうれしそうです。

 この家に来る前は花々苗おばちゃんがそうたろうのかみのけも美咲のかみのけも切っていてくれたけど、今度は誰が切ってくれるんだろう? まえがみがちょっとのびてきてじゃまです。

 自分できってみようかな。




 今日もよく頑張った。雑草の生命力との戦いに三代は大勝利したと言える。きれいに土がむき出しになり、無駄な草が一本も生えていない庭がその証拠だった。踏み石に投げ出されたサンダルが残りの西日でじりじりと焼かれていた。

 日に焼けて色の変わった麦わら帽子と、土がついて先っぽが茶色く汚れたタオルと軍手、それから暑さで伸び切っている三代。

 特にうつぶせに倒れた三代の方は彫像のように、僅かにも動かない。よくよく見れば胸のあたりが上下しているようにも思えた。

 もう夏の縁側の風物詩となったこの光景に仕事帰りの康介は笑いが止まらないようである。

 暑さで動かなくなっているのかと思われた三代が素早く康介の足をつかんだ。軍手のおかげで日焼けしていない手はじっとりと熱い。太陽の熱はまだ放散され切っていないようだった。

 その熱を移そうとでもいうのか、細い指がぐっと康介の足をつかんで離さない。


「うわぁ、びっくりした。死体か何かかと……」


「化けて出てやりましょうか? ええ?」


「怖い怖い。三代が言うと迫力があるね」


「失礼しちゃうわ、本当に」


 黒く長い髪の毛がさらりと解かれたが、湿り気を帯びているらしく、それは束になって三代の肩の上にのしかかった。

 黒い髪の毛に赤い夕陽がちらちらと反射している。


「さて、そろそろ離してくれないかな?」


「……麦茶と、アイス」


「うーん、バニラか抹茶かなぁ」


「残念。バニラはもうすっかり美咲に食べ尽くされたわよ」


 唸るように言った三代が顔を上げた。頬はまだわずかに赤い。汗で張り付く髪の毛が気持ち悪いのか、首の後ろを何度も触っていた。

 外からまだ暑い風が室内へと吹き込んでくる。

 康介の額にもジワリと汗が浮かんだ。 


「ええ? 昨日買ってきたばかりだったよね?」


「私も油断したわ。目を離したすきにやられたみたい」


「あらー……お腹壊さなきゃいいけど」


「本当にね」


 三代がごろりと仰向けになる。その頬が赤いのは夕日のせいだけではないだろう。熱い手がするりと離れていった。


「……アイスと、麦茶ね」


「もちろん、分かってるよ」

 

 冷蔵庫に残っていた抹茶アイスの最後の一個と、氷を入れた煮だしすぎの麦茶を持ってきたときには、三代は規則正しい寝息を立てていた。このだらしない姿も何度も見てきた。

 結婚する前の暗い土蔵にこもり、狂ったように資料を読み漁っていたあの姿はどこにも匂わせなかった。この家では康介だけが知っている彼女の姿である。

 彼女はあの時、何をあんなに必死になって探していたのだろうか。

 今は穏やかなガーデニング好きなただの母親になっていた。

 その姿を彼女が気に入っているかどうかは康介にはわからない。

 あるいは、彼女はあの黒く、かわいそうなものたちのいる場所へ戻りたがっているかもしれないという思いが過ることもあった。

 康介はそれを止めはしないだろう。

 彼にとって三代はこの世の全てだ。彼女が望むのならば、どんなことであれそれが正しいこととなる。故に、康介は三代が退魔師の道を退いたことに納得していた。


「三代」


 と名を呼んだが、反応はない。この若い母親は穏やかな寝息を立てているだけだった。

 夕日のおかげで乾いてきた黒髪をさらさらといじる。

 整った顔は康介の方へ向けられていた。

 ゆっくりしていてはアイスが溶けてしまう、と思いながら康介の顔が三代の顔へと近づいていった。

 夕日が地面の果てに消えていってから、康介がようやく顔を離した。

 星が出始めている。

 陽が少しずつ短くなる。

 康介もその妻も、同じことを繰り返し続けるだけだ。

 小さな足音が近づいていた。 

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