赤一輪

 今日はお父さんがお休みだったので、お買いものに連れて行ってもらいました。お母さんは朝からどこかに出かけてました。

 お父さんとお買い物に行くとなんでも買ってくれるから好きです。今日はアイス買ってくれました。バニラです。おいしかった。

 その後そうたろうのご飯と首輪を買いに行きました。この間そうたろうの首輪が切れちゃってびっくりしました。今までは青い首輪だったけど、赤い首輪を買ってあげました。そうたろうの目とおんなじ色です。キラキラしてきれいな首輪を買いました。

 でも、たぶんそうたろうの目の方がきれいです。最近はお母さんがそうたろうははくないしょうって言うけど、美咲はそうは思わないです。お父さんに聞いたらはくないしょうはそのうち目がみえなくなっちゃうみたいです。でも、そうしたら、美咲がそうたろうと一緒に歩いてあげます。今はお庭の外に出ちゃいけないけど、お父さんはそのうちそうたろうとお散歩できるようになるって今日言ってました。そうしたら、そうたろうのキラキラの首輪をつけてお散歩します。きっと楽しいと思います。

 帰りにお母さんの好きなドーナツを買いました。ホワイトチョコのドーナツです。お母さん喜んでくれました。




 暑い暑い。美咲はそう思った。いつも一緒に遊んであげている相棒の颯太郎は父親の康介と共に動物病院へと出かけていた。フィラリアの予防だそうだ。母の三代は今日も飽きずに草むしりをしている。

 康介から三十分に一度三代の様子を見に行くように言われた約束がある意外、美咲は暇をしている。彼女には夏休みやそれこそ宿題といった概念は存在しないのだ。

 暇だった。圧倒的に暇で暑い。

 文明の利器エアコンがあるのは居間と美咲の部屋と両親の寝室だけだ。そこに引き篭るには余りにも暇だった。だが、約束の時間まではまだまだある。

 その時美咲の頭にふと母の言葉が浮かんだ。

『頂き物のアイスが冷凍庫の中に入ってるから。食べていいからね』

 冷凍庫の中にアイスが入っているはずなのだ。バニラのアイスなら尚いい。バニラがないなら抹茶のアイスだろうか。

 美咲の目指す場所は決まった。




 台所は綺麗に片付いている。食器棚の下の段にはいつも使う三人分の食器が並んでいる。上の段には来客用の綺麗な絵付けのティーカップや食器が並んでいた。

 引越しの時に買い換えたピカピカの冷蔵庫が低い音をたてている。少し古い印象を与える木の壁には似合わなかった。

 そっと冷凍庫を開ける。まるで泥棒の気分だった。冷凍庫の中にはいくつか冷凍食品と冷凍したブルーベリー、それから数個積み重なったアイスのパックが目に入った。美咲の探していたそれだ。掘り出してみると下から二段目にバニラ味がある。カップの底には三代の字で美咲とマジックペンで書いてある。

 両手で包み込むと当たり前だが冷たい。美咲がそれをそっと頬に寄せた。

「んー、冷たい」

 頬につけていたのを首に、そして今度は反対側の頬に戻す。火照った体に心地良かった。

 コップに立てられたカトラリの中からそっとスプーンを引き抜く。康介が美咲に買ってくれたはずのアイスクリームスプーンは引っ越す前にどこかに消えてしまっていた。康介は他の荷物に混じってしまったのだと言っていたが、美咲にはそうでないという確信があった。

 美咲には他の人に見えないものが見える。

 ペタペタと足音を立てながら居間に移動してなんともなしにテレビをつける。通販番組でカニを売っているが、美咲の手にはバニラのアイスがあった。蓋を開けると外側が若干溶けていて、トロっとした部分が外側に盛り上がる。

「わぁー、美味しそう」

 美咲が一人で笑ってスプーンでアイスクリームをすくう。冷たいのと、甘いのとで口の中が幸せでいっぱいだった。

 テレビ番組はいつの間にか時代劇へと移り変わっている。

 あっという間にカップの底が見えて、名残惜しい。最後にトロっとしたアイスの溶けた液体をすくい上げて美咲は口の中に入れた。

 カップのゴミを捨てて、スプーンを流しで洗う。蛇口から出てくる水が冷たい。プールに行きたい気分だった。

 その時、台所の窓にふっと影がさした。誰かが通ったのかと思うが、人の姿はない。少し窓から身を乗り出してキョロキョロと見回す。母ではないというのだけがわかる。

 心臓がドクドクと脈打った。

 怖いと思う。こんなことは本当に久しぶりだった。

「……」

 バシャバシャと水道から出ている水をそのままにして窓から離れる。濡れた手からポタポタと水が滴った。首に流れる汗は冷たい。

「……お母さん?」

 美咲がそう呼びかける。母が台所を回って来るはずがないのだ。鍵のかかっている裏口のノブが乱暴に何度も回った。

「……っ」

 味方の颯太郎は今はいない。

 扉が壊れるほどに揺すられる。ギシギシ、と嫌な音を立てていた。絶対にこの家には入ってこない。その自信だけあった。

 そっと後ろに下がって走り出す。美咲には助けが必要だった。

 いつもより何倍も長く感じる廊下。自分が走りすぎた床から手が生えてきているような、そんな妄想までしてしまって、気が狂いそうになる。前の家ではない。この家は安全だ。

 玄関のすりガラスが見えたときまた足が止まった。

 ガラスに影が三つ映りこんでいる。背の高い、ゆらゆらと揺れる影だ。腕がない。

 走って息が上がっているはずなのに、美咲の呼吸が止まる。頭が熱く、ぼうっとした。

 廊下の先からくぐもった声がする。

「美咲ちゃーん、ここを開けて頂戴。おうちに入れてぇー」

 間抜けに伸びた、高い声だ。母の声ではないだろう。声に合わせて影がゆらりゆらりと揺れていた。腕のない影が手招きしている。

 美咲は踵を返した。

 彼女が助けを求めるべきは母だ。ほかの誰でもない。

 縁側の方に走り出す。廊下に慌てたような母の姿があった。足元にあるのはただの影だ。

「お母さん!」

「ごめんね、美咲。気がつかなくって。あんたは客間にいなさい。あそこは大丈夫だから」

「いや! 行かないで!」

「大丈夫よ。お母さんどこにもいかないわ。ずっとこの家にいるから……」

「お母さん!」

 美咲が母の体にしがみつく。母の腕がかき抱くように美咲の頭を抱いた。

 太陽の熱で暖かい腕だった。

「大丈夫よ、美咲。お母さんに任せて。あんたは何も考えなくていい。怖いことからは全部お母さんが守ってあげるから。約束よ、美咲」

「……お母さん」

「大丈夫。さあ、客間に行きなさい」

「うん」

 美咲が客間に走り出す。彼女の後ろで確かに母の足音がしていた。




 客間は静まり返っている。一週間前に颯太郎が開けた障子の穴から午後の光が直接差し込んでいた。

 美咲は母を待つ。それしか彼女はできなかった。裏口や玄関のあれがなんだったのかなど、考えてはいけない。考えれば考えるほど怖くなるに決まっているからだ。それが美咲のルールだった。それに、母が守ってくれるという確信もあった。

 壁にかけられた時計が静かに時を刻んでいる。

「美咲」

 と廊下で呼ぶ声がする。美咲が障子を開けるのをためらった。

 障子越しに母が笑った気配がした。

「もう怖いものは何もないわ。大丈夫よ、美咲。冷凍庫のアイスは食べちゃったかしら? おやつにしましょう?」

「アイスさっき食べちゃった……」

「じゃあ、ケーキにしようかしら」

 三代がそっと障子を開ける。美咲は母の優しい目を見上げていることしかできなかった。

「知ってた? 美咲。うちにはケーキが二つしかないのよ?」

「二つ? お父さんとお母さんの分?」

「美咲と、お母さんの分よ」

「あれ? お父さんの分は?」

「お父さんの分はないから、ケーキのことはお母さんと美咲の秘密よ? いい?」

「わかった!」

 美咲が笑う。三代も穏やかに笑った。

 



 その日の夕方だ。美咲がそっと自分の部屋を覗き込む。何か、予感があったのだ。今日の昼間の出来事のせいかもしれなかった。颯太郎も美咲を見習って部屋を覗く。

 案の定、白い姿がそこにいた。

 颯太郎が一声吠える。

「きつねさん、美咲のお部屋は入っちゃいけないんだよ!」

「よぉ、美咲ちゃん」

「きつねさん、いけないんだよ! 美咲の部屋は入っちゃいけないの。お母さんに怒られるよ!」

「アイツは何もしてこないよ」

「アイツじゃなくて、お母さん!」

 机とベッドしかない美咲の殺風景な部屋の真ん中に、真っ白な狐が座っている。颯太郎と同じ真っ赤な瞳をしているが、彼よりも大きさはふた回り小さい。

 彼が見えるようになったのはこの家に引っ越してきてからだ。本人が言うにはどうやら庭にある社に住んでいるらしいが、美咲は社にいる姿を一度も見たことがなかった。

「今日お母さん怒ってるから、きつねさんのこと見つけたらボーリョク振るっちゃうよ、絶対そうだもん」

「そりゃ怖いな」

 狐はつり上がった目を細めて笑うだけだ。

「なんでオカアサンはなんで怒ってるんだ?」

「な、なんでって……」

 美咲が渋る。狐がまた笑った。

「ははーん、また何か出たな……」

「な、何もなかったよ! なんでそういうこと言うの!」

「勘だよ、勘」

「そんなの当てにならないじゃん!」

「なるんだよ」

 狐がそう言って颯太郎の方をちらりと見る。どうやら、この狐は犬が苦手なようだった。颯太郎の方は無邪気に狐をロックオンしている。遊ぶ気満々らしい。

「……そろそろ行こうかな」

 狐の顔が若干引きつっているように見えるのは美咲の見間違いではないだろう。

「もう行っちゃうの?」

「俺の勘がもう帰ったほうがいいって言ってる」

 そう言うと途端に白い狐の輪郭が曖昧になる。空気に溶けるように消えていった。その直後、美咲の背後から父が話しかけた。

「みーちゃん、どうしたの? ゴキでもいた?」

「ううん。何でもない」

 どうやら、狐の勘というのは結構信頼のあるものらしかった。


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