第9話 少女とバンパイア その①

【視点:リン・ダン】




 ふと目を覚ますと、そこには無機質な灰色の天井が広がっていた。外から指す月明かりが薄暗闇に包まれた部屋には無駄に明るく感じられて、逆に不気味さを演出している。嗅ぎ慣れた消毒液のアルコール臭、雲みたいにふかふかで、手入れこそ行き届いてはいるが、どこか温かさに欠けた羽毛布団。そしてなぜか額の上に吊るされた、中身を入れたばかりと思われる冷たい氷嚢。

 見慣れた光景に、周囲を探るまでもなく、ここがどこだかすぐに分かった。


「おばさんの病院か……」


 何で?

 疑問に思うがまま小首を傾げてみると、前触れもなくズキリと鈍い頭痛が走った。


(あー、外に出た後、すぐに何かとぶつかった気がする……)


 氷嚢を押し退け、ジンジンと熱を持つ箇所に手を当ててみると、そこはものの見事にはれ上がっており、そこそこ大きなたんこぶが出来上がっていることが察せられた。

 とその時、ガラリ、と控えめなしぐさで扉が開かれ、逆光を背に見慣れた人影が姿を現す。


「起きたかい」


 部屋の照明を点けながら、しゃがれたソプラノとアルトの中間くらいのトーンでいつものように不愛想な、一欠けらの安堵も覚えない声音で養母が呟いた。


「……何で病院?」

「どこまで覚えてるんだい?」


 わたしの質問には答えず、あくまでも淡々とした事務的な物言いでおばさんが問う。わたしを見下ろすその視線はどこか冷めていて、おかげさまで目覚めたばかりの混乱する頭は冷水を浴びせられたかのごとく、スゥと冷えていった。


「んー……なんか空から降ってくるとこまで……かな?」

「なら記憶の混濁はなさそうだね。調子はどうだい?」

「普通」

「なら明日には退院だ。……で、一つ聞きたいことがあるんだけど……」


 そこまで言って、初めておばさんは何か言いにくそうに顔をしかめた。


「?」


 鋭い糸目が不機嫌そうに細められ、わたしの中にある何かを探り出そうとでもいうかのようにじっと見据えられる。


「あんた、その肩の痣、どうしたんだい?」

「ギクッ……!?」


 やっべぇ!ばれた!


「な、何で知ってんだよ……」


 内心の動揺と不安を押し隠し、声が掠れそうになるのをどうにか堪える。


「あんたを診察した時に見つけたに決まっているさ。で、どうやったらそんな人の手形みたいな痣が出来たんだい?」

「い、いや…その…ベッドから落ちて……」

「あの高低差でそんな痣ができるもんか。あんた、まさかミトラの森で変なトラブルに遭ってないだろうね?」


 ひぃっ!?もしかして、毎朝家抜け出してミトラの森に行ってることバレてる!?


「ん、んなわけないだろ?別にわたしがどこに痣作ろうが、おばさんには関係ないだろ」

「今回ばかりはそうわ行かないね。神郷町のバンパイア騒動の件くらいはあんたもしているだろう?こんななんもないような田舎でも、最近は何かと物騒になってきている。だからこの前忠告したんだ。なのにあんたって子は……。その痣の状態を見れば、それをあんたの体にこさえた輩は相当な握力を持っていたはずだ。骨にひびが入っていてもおかしくないくらいさね。それに、念のためにあんたの体を調べさせてもらったけど、かすり傷だらけじゃないか?それにかなりの衝撃で背中を打った後もある。今朝、ミトラの森で一体何があったんだ?」


 お、おおう…じ、実に見事な観察眼をお持ちであらせられる……。ぐあああああああ!!どーしよう!?これ以上下手に誤魔化しても誤魔化せる自信が全く見つからねぇ!つーかもうこれ一から百まで全部バレてるよな?


「…………」

「どーなんだい?」

「いやー……ナンデモナイケド?」

「棒読みでごまかせるとでも?」

「……何でもないよ」

「…………」


 あくまでも頑なに口を割ろうとしないわたしに、おばさんも黙り込んだ。だけど、相変わらず視線は鋭いままで、口を開かずとも目が「お前の考えていることなんてお見通しだ」と言っているような気がして、睨み返してやることができなかった。

 よし、ここは我慢のしどころだ。何が何でも言うもんか。わたしはまだ死にたくない。


「…………」

「…………」


 先に折れたのはおばさんのほうだった。

 背中をつと冷や汗が伝ったと同時に深いため息を吐き、おばさんは「今晩はここでじっとしていなさい」とだけ告げ、部屋を出て行った。

 ……た、助かった……。いや、もうほんと、危なかった。タニーナの諦めが早くてよかった。

 安堵の息をつきながら、わたしはそろりと上半身を起こし、窓から見える満月を見上げた。儚げな青白い月光が煌々と部屋の中を照らしている。いつもよりも大きく見えるそれは何かを暗示しているようにも見え、ふとわたしの脳裏に、あの死にかけのバンパイアの姿がよぎった。

 それにしても、あのバンパイアは今も生きているんだろうか。


(ちょっと気になる)


 思い出したら、途端にじっとしていられなくなった。小石の件もあるし、頭は確かにまだ痛いけど、我慢できないほどじゃない。むしろ気になることが多すぎておちおち寝てられそうにもない。


(でも、また言いつけを守らなかったことがばれたら、今度こそただじゃすまないかもな……)


 いや、でもあのバンパイアがもし復活していて、この町で暴れたりでもしたら大変だ。もしあの場からいなくなっていたり、怪我が治りかけているようだったらタニーナに洗いざらい白状して、今この病院にいるWCDに何とかしてもらおう。


 そうと決まれば、後は実行あるのみだ。わたしはベッドからそっと降りると、病室の窓を開けた。吹き込んでくる風がカーテンをなびかせ、気持ち悪いほど清潔感の漂う病院の空気に染め上げられたわたしの肺を清めてくれているような気がした。幸いここは二階だ。毎日のように岩棚や木を上り下りしているわたしにしてみれば、降りられないほどの高さではないし、下にはふかふかの芝生以外になんの障害物もない。


「よっと」


 窓の縁を蹴り、着地と同時に足を苦の字に曲げて衝撃を上手いこと吸収する。苦も無く猫を思わせるほどの軽やかさで地上に降り立ったわたしはぐるりと辺りを見回し、ここが病院の裏庭であることを確認した。人の気配がする。病院の敷地内を囲っている背の高い柵の隙間から外を覗けば、さらに柵の周囲に沿うようにして見慣れない同じ服を着た男たちが直立不動の格好で立っていた。


(新しい警備員でも雇ったのか?)


 ちらちらと彼らに気づかれないように細心の注意の払いつつ、わたしはするりと柵の下に体を潜り込ませ、難なく敷地内からの脱出に成功した。

 さて、と。とりあえず、まずは家に帰るとしますか。




* * * * *




【視点:???】




 うつらうつらとした当てのない浮遊感の最中から、ふいに意識が鮮明になってきた。ひどく緩慢な動作で瞼を持ち上げれば、そこには煌々と闇夜を明るく照らし出す煌びやかな黄金の宝石が浮かび上がっている。自らが放つその神々しいまでの月明かりはまるで絹糸で織られたベールのように、俺を包み込んでいた。

 ……綺麗な満月だ。まったく、皮肉なほどにな。

 まるで世界が俺の死を歓迎しているような錯覚を覚え、思わず嘲笑が漏れた。


(まぁ、今更どうでもいいか……)


 死を望んでいるわけでもないが、生に対する執着があるわけでもない。運命に流されるがまま、それに従うのみだ。もはや指先一つ動かない。動かそうという気力すら湧かなかった。




 シュウゥゥゥゥゥ……



 澄み切った水の中に墨汁が溶け込んでいくかのように、空中に黒い靄が消えていく。少しずつ、少しずつ、俺の体が、その存在が希薄なっていくのがなんとなく分かる。そこに、痛みや苦しみは微塵も感じなかった。むしろ、どこか心の片隅で例えようのない微かな安堵すら覚えたほどだ。




 ガサッ!




「?」

「あ……」


 突如すぐ近くの草むらが揺れ動き、唯一まだ己の意思で動かすことのできる目だけでそちらを見やると、一人の人間の少女が呆然と立ち尽くしていた。どうやら俺の姿を見て驚いたようだ。それもそうだろう。今まさにバンパイアの死の瀬戸際に遭遇したのだから。少女は黒真珠のような瞳をまん丸くさせ、地面に根っこを生やしたかのようにその場で固まったまま動けずにいるようだった。

 なぜこんなところにいる?家族はどうした?

 近づいてくる少女の気配にも気づけないほど、俺の五感は鈍っていたが、それでも周囲の状況を理解できる程度には機能していた。

 川のせせらぎ、草木が擦れ合う音、みずみずしい風の匂い。

 ここは森の中だ。それも、そうそう人が立ち入ることもないような深い。ましてやこのような幼い少女が一人で来るようなところじゃない。一体、何者だろうか。


(あぁ、俺を殺しに来たのか)


 少女の右手に握られていた鋭利な輝きを放つ果物ナイフを発見して合点がいった。やれやれ、どこに行こうが俺たちのような存在はお尋ね者というわけか。しかし、どうやって俺がここにいると知って……?WCDに雇われでもしたのか?いや、そもそも俺はいつの間に岸にまで上がってきたんだ?くっそ。だめだ、記憶がどれもあいまいで何も思い出せない。


「……死んじゃうのか……?」


 ふいに、少女が戸惑いと恐怖を滲ませた声で問いかけてきた。

 あぁ、そうだな。俺は、今から死ぬんだ。むしろあの男との戦闘から幾日経ったのか把握することは出来ないが、VVAを二度も喰らい、弱っているにも拘らず、何日も食事ができていない状態でここまで生き延びたのだからよく持った方だろう。

 まだ何とか思考する余力は残っていても、流石に答える余力はなかった。答える義理もない。だが無垢な少女の問いかけに、俺は肯定するようにして微かに口角を上げた。


「あ……」


 俺の笑みをどうとらえたのか、少女は思い詰めたような掠れた声で鳴いた。

 そういえば、あいつは今、無事に自由の身を手にしているのだろうか?『喧嘩屋』との戦闘寸前まで行動を共にしていたあの少女がふと思い出される。




 シュウゥゥゥゥゥ……




 だんだんと霧が濃くなってきた。視界も徐々に霧がかったように霞んでゆき、やがては何も見えなくなっていく。何も見えない。何も聞こえない。

 ……寒い……。


「っ……!?」


 その時、暖かな何かが唇に触れた。同時に、とろりと微量ながらも生温い液体が喉の奥へと舌を伝っていった。

 これは……!?




* * * * *




【視点:リン・ダン】




 ……何やってんだろう、わたし。

 まるで他人のものでも見ているかのような目で、わたしは男に血を飲ませるため、自ら傷つけた自身の左腕の傷口から滴り、男の口内に吸い込まれていく赤い雫を見つめていた。

 咄嗟だった。

 黒い霧となって消えゆこうとしていく男に向かって、死ぬのかと問いかけたわたしに応えるかのように、男は寂しげな、弱弱しい小さな笑みを浮かべた。その姿に何を思ったのか、気が付けば、万が一男がまだ生きていて、私一人でもどうにかできる程度に弱っていた場合、これで止めを刺してやろうと、家から持参してきた果物ナイフで自分の腕を切り付け、男に血を差し出していた。

 それから数分の間は男の体の上に覆いかぶさるようにした格好のままだったと思う。


(何やってんだ、わたし。相手はバンパイアだぞ?これはを縦らrたら終わりじゃねぇか)


 未だに手を引こうとしない自分に向かって、理性的なもう一人の自分が怒鳴りつけた。だけど、それでも体は言うことを聞かず、そのままの姿勢を保っている。怖いのか、緊張しているのか、ただただ呼吸ばかりが浅く、短くなっていく。どうすればいいのか、どうしたらいいのか、もう頭の中がごちゃごちゃしていて、何をどうしたらいいのかさえ分からないくらいに混乱していた。

 そうやって一人、無言の押し問答を続けていると、突如ガッと死にかけの者のものとは到底思えないほどの凄まじい力で勢いよく男の唇に当てていた左腕を掴まれた。


「痛っ……!」


 その気になれば小枝を折るようにしてわたしの腕を折ることも可能だろう。それほどの握力に、痛みに顔をしかめながらわたしは咄嗟に噛みつかれることを覚悟した。が、いつまでたってもその時がやってくることはなかった。男はただ、わたしの腕から滴るその甘美な水を慈しむように下で舐め取っていった。その挙動に、今からでもわたしの腕を食いちぎってやろうとでもいうような凶暴さは微塵もない。

 それからしばらく、男は恍惚とした表情でわたしの腕から血を貪る。

 満足するまで私の血を呑みつくし、わたしの腕を開放するのは掴んで来た時と同様に突然だった。男は眠るように目を閉じ、長く、深い満悦の息を吐く。


(嚙まれなかった……)


 いや、噛まれたくはなかったけどさ。寧ろなにもされなくてよかったけどさ!

 さっきの私の悲壮なまでの覚悟は何だったのか。拍子抜けした私はまるで放置プレイでもされたような心地で、静かな寝息を立て始めた男の傍らにへたり込んだ。ヤベ、腰抜けてる。

 その時になって初めて、わたしは自分自身の体が震えていることに気が付いた。力が入らなくなった手から持参してきた果物ナイフが滑り落ちる。地面に敷き詰められた石ころの上にそれが転がった時に立つ、無機質な金属音がやけに目立った。キーンと無音の闇夜に反駁する音が、余計にわたしの中にある孤独感を押し上げた。

 自分がどうして震えているのか理解できないことがひどくもどかしい。なぜこの足は主の命令通りに立ち上がろうとはしてくれないのか、どうしてこのバンパイアを助けるようなまねをしたのか。何も分からない。自分のことなのに自分の行動が全く把握できない自分自身に苛立ちばかりが募っていく。

 もしかして、これは夢なのか?

 最早ショート寸前の頭が考えることを放棄したのか、ふと、願望にも似た考えが頭の中に浮かび上がる。

 このまま目を閉じてしまえば、気が付けばいつもの自分の部屋のベットか病院のベットの上でごろ寝してる、なんてことにはならないだろうか。夢だと思えば、何となくこの非日常な状況にも納得がいく。

 物は試しとばかりに思い切って目を閉じてみる。


(あ、これやっぱ現実だわ)


 いつもは霧で前が見えなくとも、暗くて足元が覚束なくても怖いとは微塵も感じないはずなのに、今はどうしてか、木の葉が風になびく音にすらビクリと大げさに反応し、木陰から何か得体のしれないものが飛び出して来やしないかと怯え、バクバクと心臓が嫌な音を立て始める。生まれて初めて、独りぼっちでいることが恐ろしくなった。


「ん……」


 男の呻き声に、ふと我に返る。

 目を開けると同時に、男と視線が交錯する。ルビーのように真っ赤に透き通った綺麗な瞳だと思った。意識を保つことすら億劫そうだったけど、男は表情に疑問符を浮かべてその目をこちらに向けていた。

 なんか、恥ずかしくなってきた。


「……あー……えと、血、足りてる?」


 何聞いてんだ、ボケ。

 思わず口からついて出たセリフに、猛烈に自分で自分をド突き回したい心地に襲われる。男も男で「は?何言ってんだ、この頓珍漢」とでもいうように口をぽかんと薄く開け、先ほどまで眠そうだった半眼の切れ長の瞳を軽く見開いている。


「あ、いや、今のなしで」


 慌てて先の言葉の訂正に移るも、時すでに遅し。あぁ、神よ。過去に戻れる異能ちからが存在するというのならば、今この一瞬だけでもいい。是非とも我に授けたまえー。


「…………」

「…………」

「……なぜ、助ける?」


 掠れた声で、弱弱しく問われる。


「……何でだろうな」


 それが分かったらわたしもここまで困ってません。


「……なんか、勝手に体が動いてた」


 もとより、ここに来た目的はバンパイアを助けるためではなく、まだこの場にいるのかどうか確認するためだった。まだここで寝ているようなら、自分の手で始末しようとすら考えていたのだ。元来の目的とは正反対の行動をとっているのだから、何か、別の意思が働いているとしか思えない。


「……そうか……」


 再び舞い降りてきた沈黙に、わたしは再度口を開く。


「ねぇ、どうして、さっき笑ったんだ?」

「さぁ……何でだろうな」


 男に応えに、苦笑が漏れた。


「お互い、分かんないことだらけだな」


 わたしにつられて男も薄く笑った。


「そうだな。うっ……」

「!?大丈夫か?」

「くっ……。なぜそう気に掛ける?俺が何者か分かっていないのか?」

「知ってる。バンパイアだろ?もしかして、まだ血、飲み足りないのか?さっきみたいに、わたしの飲むか?」

「自分が何言ってるのかわかっているのか?」


 疑念と困惑が混じり合った鋭い視線がわたしを射抜く。分かっている。自分がやっていることは人として間違っていることなのかもしれないことくらい。こいつが人間わたしたちの敵だってことも分かっている。


「うん。……だけど、なんか、お前のこと、嫌な奴じゃあなさそうだなって思ったから」

「だから、この俺バンパイアを助けると?」


 男の台詞に、コクリと頷く。

 あぁ、そうか。

 ようやく、自分の心にストン。と答えが落ちてきた。正しいとか人間として、とかそんなの関係なく、わたしはこいつを助けたいんだ。出会ったばかりでかわした言葉も少ないが、何となくこの男を見殺しには出来ないんだ。そう思った。


「……ふっ」

「!?わ、笑うな!!」


 ば、馬鹿にしてんのか!?誰のおかげで命拾いしたと思ってんだよ!警察WCD呼ぶぞ、こら!


「笑いたくもなる。捨てる神あれば拾う神あり…か」

「??」


 何を意味しているのか分からず、首を傾げる。


「いや、気にするな。独り言だ」

「ふーん」


 男は上半身を起こすとすぐそばにあった巨岩に背中を預けた。


「お前が俺を川から引き上げたのか?」

「うん……今朝のこと、覚えてないのか?」

「あぁ。記憶が安定しだしたのはお前の血を呑んでからだ。ここ数日のことはほとんど覚えていない」

「ふーん……」

「何かあったか?」


 今朝のことを思い出し、わたしは先程森のどこかに投げ捨てた小石たちのことを思い出し、僅かばかりの郷愁に襲われる。それが表面に出ていたのか男が問いかけてくるが、わたしは首を横に振って何でもないという意を示した。


「なぁ、お前はあの神郷町の生き残りなのか?」

「だったらどうす…ッ……ぐっ……がはっ!」

「!」


 突如男はせき込み、苦しそうに背を丸めて喘いだ。風邪による咳とはわけが違うさまに、混乱しながら男の背中を撫でた。


「だ、大丈夫か!?」


 答えられるような状態じゃなくとも、そう問いかけることしかできない。どうすればいいか分からず、視線を泳がせていると、男の足元に転がっている石が血染めになっていることに気が付いた。


「あ……う……」


 先程以上に頭がひどく混乱している。唇からは意味をなさない単語しか出てこなかった。


(ど、どうしよう……)


 どうすればいい?

 男はひどく苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。額からは大量の脂汗が噴出し、わたしはそれを拭ってやることくらいしか出来なかった。


「……血が、足りない……」


 蚊の鳴くような弱弱しい声音だったけど、わたしはそれを聞き逃さなかった。こくりと頷くと、即座に地面に転がったままのナイフを拾い上げ、もう一度自分の腕を切り付ける。


「うっ……」


 思わず目から涙がこぼれた。全身を貫く激痛に、恐怖を覚える。


(飲ませ、なきゃ……)


 いつの間にか、さっきまでほんの少しだけ残されていた罪悪感はもはやかけらも残されていなかった。男に血を飲ませるという行為に対する躊躇も、当然のようになかった。

 過呼吸のように血を滴らせながら空気を求め、大きく開かれた男の口に傷口をあてがうと、わたしの腕に縋るようにして男は一心に血をすすり始めた。わたしの腕を握りつぶしてしまわないように注意しつつも喉を盛大に慣らしながら赤錆色の水を飲み下すその表情は、まるで灼熱の砂漠のど真ん中のオアシスで喉を潤す旅人のそれだった。


「……牙、立てないんだな」

「…………」


 血を啜るごとに容体が落ち着いてゆく男にそう問いかけるも、返事はなかった。別に答えを求めていたわけでもなかったし、独り言のつもりでもあったから、それには気にせず次の問いを投げかける。


「わたしが通報するとか、考えないのか?」

「…するならもうとっくにしているだろう?」

「まぁな」


 男はゆっくりとした動きでわたしの腕から口を話すと、熱い吐息を吐いた。血を飲んで楽になったのか、もう一度岩に体を投げ出した男の表情は柔らかく、口元には微かな笑みすら浮かび上がっていた。

 もう大丈夫だろう。男の様子からそう思い至ったわたしは、そろそろ病院に戻るべく立ち上がろうとしたけれど、またその場にへたり込んでしまった。震えはもう止まっている。先ほどまで感じていた心細さも、不思議と感じなくなっていた。むしろ胸のあたりがほんのり暖かく感じ、水の中をさまよっているのかと思うほど息苦しかった呼吸も楽になっていた。それだというのに、動けない。体がひどく重い。頭もぼんやりとする。


「何…で……?」


 男が舌打ちをする音が何故か遠くのほうで聞こえてきた気がした。


「やっぱ飲みすぎたか……」


 眠い。吐き気もしてきた。このまま地面の上で寝ころんだら楽になれるだろうか?

 あれ?なんだか……目の前が白く……。




* * * * *




【視点:?????】




「ったく……」


 二度もバンパイアに吸血され、貧血を起こしてそのまま意識を失った少女の体を固い地面に打ち付けてしまわないように手を添えつつゆっくりと地面に寝かせてやる。その小さな体は糸の切れた操り人形のように、ピクリとも動かない。

 まったく、子供というのはてんで行動が読めねぇ。俺を何だと思っている?


「さて、どうしたもんか……」


 この娘の血を飲んだおかげか、体が軽くなったように感じる。五感も鮮明になってきた。思い切って足に力を入れてみれば、思っていたよりも安易に立ち上がることが出来た。


「!?傷が……」


 もう癒えているだと!?さっきまで治る気配すらなかったはずなのに!?

 俺は信じられない思いで軽く目を見開き、傷を負っていたはずの腹部に当てていた手を見つめた。血が全く付着していないことが、何よりの証拠だ。

 バンパイアといえど、さすがの俺もここまでの回復力は持ってはいない。だとしたら……


(この娘の力か……?)


 俺は身動き一つしない少女の傍らに片膝をつき、食い入るようにして少し苦しげなその寝顔を見つめた。

 一見すればこの娘はいたってごく普通の人間の子供。先ほど味わった血の味も、飢えたバンパイアにとっては極上なものには違いなかったが、それでもいつも飲んでいる人間のものとは何ら変わりなかった。まぁ、そりゃ血の味にはそれぞれ個体差はあるが、それはほんの些細なものだ。気にするほどのものではないはずだ。


(新手の新生種か?)


 終焉の日のせいで秩序も安定もないご時世だ。いつどのような災害が起ころうが、どのような生物が現れようが分かったもんじゃない。この何でもありな世界が既に崩壊していないのは、WCDと源晶石による加護が大きい。

 くそっ、体は軽いが、頭は重い。おそらくWCDはいまだにこの俺を探していることだろう。ここから神郷町まで遠く離れているとも考えにくい。おそらく奴らのことだ。この俺を探している可能性も十分に考えられる。『喧嘩屋』が無事に生きていたならば手配書だって既に出ているかもしてない。今は現状の把握とこの娘をどうするかが最優先すべき問題だ。WCDが近くに潜んでいるかもしれないこの状況で下手に出歩くのはまずいだとすれば、この子供を使うのが最善の策だろう。幸い、この娘は俺に対して敵意は抱いていないようだし、ここ近辺の地理情報についても明るいだろう。これを使わない手はない。

 俺は片腕で娘の体を抱き上げると、相も変わらず俺たちに無関心な様子で輝き続けている満月を静かに見上げた。

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