第8話 事件だ!

【視点:リン・ダン】




 眠い。ひたすらに、眠い。


 気を抜けば今にも視界をシャットアウトしそうになる瞼をこすりつけ、わたしは本日何度目になるか、既に数える気すら失せた大きなあくびを吐いた。

 霞みがかったように思考が鈍っており、前でチョークと教科書を手に話しているデーン先生の声も遠くから叫んでいるみたいに朧気にしか伝わってこない。


 あぁ、眠い。今すぐ机に突っ伏してそのまんま眠ってしまいたい。


 体育の時間まであと数分。もう少しの辛抱なのだが、これがかなりきつい。時間の神様に呪われでもしたのか、一分が一時間に引き伸ばされたかのように感じる。


 というか、何でこんなに眠いんだ?確かに、今朝はちょっとしたいざこざがあったけど、気疲れはしても疲れるほどの騒動ではないだろう。それに毎日森の中を駆け回っているから体力には自信がある。なのにどうしてここまで体がだるい?あのバンパイア、わたしに何かしたのか?


 どうにも授業に集中できず、ぼんやりとする頭で今朝のことを思い出すが、考えれば考えるほど訳が分からないことだらけで、疑問ばかりが積み重なっていく。


 あぁ、頭痛くなってきた……。


 そもそもあのバンパイアはどこから?先日騒動があった神郷町から流れてきたのか?だけど、神郷町にいた奴らが一匹残らず殺したって聞いたぞ?それにあの小石のことも気になる。どうしてあの時いきなり爆発なんかしたんだ?いや、砕け散っただけだから爆発とは言わない?いやいやいや、そんなことよりも家にあるやつがあんな感じに一気に爆ぜたらどうなる?家ごと吹っ飛ぶんじゃないのか?


 そこまでに思い至ると同時に、顔面から血の気がサーっと引いていく。眠気なんてまとめて空の彼方にポイッだ。


 やっべぇ。どうやったら爆発すんのかは知らないけど、もしわたしが今日帰るまでに今朝みたいなことになってたらわたしにフラグが立っちまう!「死亡フラグ」ってやつが!!

 メトリオにボコられた挙句、家を追い出されるくらいならまだしも、タニーナにバレたら確実に殺される!!


 ……うん。帰ったら捨てよう。即捨てよう。というか今すぐ帰らせてくれ。今この瞬間にも家がドッカ―ンって言ってたらと思うと気が気じゃねぇ。わたしの親指の第一関節くらいの大きさで大の男、しかも弱っているとはいえバンパイアを吹き飛ばすほどの威力を持つものが何十個と一気に大爆発を起こせばどんな事態になるか想像もつかない。

 一つだけ、運が良いことと言えば、例のバンパイア騒動で派遣されてたWCDの兵士たちがこの三田市の病院に多数入院しているらしく、その病院の院長を務めているタニーナはここ一週間くらい仕事に追われ、ほとんど家に帰ってきていないということだ。だからもし家が吹っ飛んでももしかしたらわたしが姿をくらますまでの時間くらいはあるかもしれない。まっ、タニーナがいないおかげで家事をする人間がいないから家の中は半ごみ屋敷状態であるのは余談だ。メトリオとローズが家事なんてするわけないし、わたしはそもそも食う、風呂、寝るとき以外ではほとんど家にいないし。


 その時になってようやく授業終了と休み時間の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、わたしは思考の渦から一時的に解放された。

 次の授業である体育に向け、着替えを始めようとみんな一斉にわらわらと席を立ちあがる。わたしもそれに倣って、重い腰を上げ、のろのろと着替え始めた。あ、体がだるいのを理由にして家に帰るってのも一つの手かもしれないな。いや、でも大好きな体育を逃す気には流石になれない…でもだからと言ってタニーナにぶっ殺されるのも…。くぅ~、どうしよう。


 わたしが一人、悶々と悩んでいると、突如、隣でスカートのホックを外していたエバンネが、悲鳴のような驚愕の声を張り上た。


「!ダ、ダンさん、そのあざどうしたの!?」

「ん?」


 その視線の先を辿っていくと、そこにはわたしの素肌が露わになった肩にくっきりと浮かび上がる、黒と紫と緑を混ぜ合わせたような、気持ちの悪い色をしたまだら模様があった。今朝、小石の爆発による爆風に吹き飛ばされた時に出来たものだ。


 うわ、あらためて見てみると、やっぱ結構痛々しいな。ってか、今朝よりも色、濃くなってないか?


「あー、打った」

「何で?」

「…………」


 さて、どう説明したものか……。本当のこと話したら絶対こいつ、先生に言うよな……。


 ありのまま「バンパイアに襲われた」と言えばただ事では済まされないことは分かっている。神郷町の一件以来、大人たちは結構そういうものに対してカリカリしてるからな。タニーナですら、普段は私が何をしようともあまり口を挟まないくせに、つい最近「あまり森に近づくな」って忠告してきたくらいだし。まぁ、その忠告無視して近づくどころか森に入った結果、今朝方の事件が起こったわけだが。


 はははは……あー、笑えねー。今度からはもう少し素直に言うこと聞くことにしよう。


「ベッドから落ちた」

「そ、そうなんだ……」

「うん」


 まぁ、これが一番無難だな。ぶっちゃけ、ベッドから落ちただけでこんな人の手形みたいな痣が出来るのかどうか疑問甚だしいが、エバンネは今朝の事件を知らないから何とかこれでごまかせるだろう。いや、誤魔化されてくれ、頼むから。

 だがわたしの懇願は、結局は杞憂に終わった。


「痛くない?大丈夫?」


 本気で心配そうな澄んだスカイブルーの瞳が上目遣いで少しでも偽りがないか見定めてやろうとばかりにわたしの顔を覗き込んでくる。そんなエバンネにしどろもどろになりながらも私は首肯した。


「あー…、まぁ、痛い…けど、そこまで」

「そっか。保健室に行って手当てしてもらわなくてもいいの?」

「んー……いい」


 何だろう。こいつと話すの、めちゃくちゃ面倒。なんというか、すごく歯痒い感じ。

 数日前、図書館で出くわした時もこんな感じだった。

 会話なんて、いつもならもっと適当にあしらってすぐ終わらせるのに、どうしてかエバンネと話すとどうもそうはいかなくなる。

 何がそうさせるのか、どうしてそうなってしまうのか全く分からない。それが余計に私を苛つかせる。


 そもそも、わたしは人と関わることがそれほど好きじゃない。寧ろ面倒くさいとすら思っている。

 というのも、わたしが今よりもずっと小さい頃から、その言葉の意味も理解できないことも関係なく、わたしがダン家の養子、曰く捨て子であることをしつこく教え込まれてきた。わたしがタニーナのことを「おばさん」と言わずに、誤って「お母さん」と呼んでしまった時など、即座に「あたしはお前の本当の母親じゃない」と否定されたことがあるくらいの入念さだ。加えて、いつからできたのか、どうして生まれたのかは知らないけれど、物心ついたころからわたしには妙な噂が付いて回った。内容は千姿万態といったところで、一つできればたちどころに火が付いたように様々に形を変えながら広がっていく。


「あいつは実はバンパイアらしい。今は何らかの能力を使って人間に化けているんだとか。それで、夜な夜な街をうろついては人の血を貪っているそうだとか」

「親に捨てられたのは奇妙な力を持っているせいだって話だ。薄気味悪いって話で捨てられたそうだ」


 などなど。この程度の話はまだかわいいもんで、もっとひどいのは親がいないのはわたしが喰い殺したからだとか、いずれはわたしが終焉の日ターミネーションズ・デイの二の舞を引き起こすだとか、根も葉もないことをまことしやかに囁かれている。そのせいでローズには馬鹿にされるし、それに追い風を吹かすが如く、メトリオはローズばっか可愛がる分、わたしを鬱陶しがる。わたしが生まれた日付が分からないとかどうとかで私の誕生日は無視するくせに、ローズの誕生日にはちゃっかり本人がねだるものを買って与えているのがいい例だろう。まぁ、あのおっさんに今更デレデレされてもキモイの一言しか出てこないけどな。

 あの家で私をまともな人間扱いするのはせいぜいタニーナくらいのものだ。なかなかにご想像力豊かな市民の皆さんがわたしのことをあーだこーだ言うくせに私が今こうして恙無く生きていられるのもタニーナが病院できちんと検査したその結果、わたしがただの女の子であると証明してくれたからだ。町一番の病院の院長をしているだけあってこの三田市における影響力も発言力もそれなりに持っている。だから新しく妙な噂が生まれても、大ごとになる前にその話が事実無根であることを証明して事の鎮静化を図り、いつもわたしを庇ってくれているのもそれなりに知っている。

 だけど、そのタニーナでさえ、どこか私に距離を置いている気がする。

 医者をしているだけあってか、それなりに出来た人だし、メトリオなんかよりもずっとしっかりしている。メトリオには散々甘やかされているのに、まだローズあいつのわがままがギリギリ許容範囲にとどまっているのはおばさんがきっちり二人の手綱を握りこんでいるからだ。

 話は少々脱線してしまったが、そんなわけで家でもわたしは浮いた存在で、メトリオとローズには邪魔者扱いされている。以前まではどうすればメトリオの機嫌を損ねずに済むか、どうすればローズはわたしをのことを姉妹として見てくれるかとか悩んだ時期もあったような気がするけど、結局はどうせどれだけ頑張っても、足掻くだけ無駄なことに気が付いてからは今のような関係が続いている。おばさんも、特に私たちの不仲については何も言ってこない。だからもう、無理をして笑うことも気を引こうと話しかけることもやめた。形だけとはいえ、家族にすらそうなのだから、自然と、他の人間にすら冷めた態度しか取らないようになっていった。わたしのそんな愛想の欠片の無さに激昂する人も中にはいたが、別に好かれたいわけでも何でもないから特に気に留めることもなくなっていった。

 そして今に至る。


 むうぅぅぅ……。こいつの天性の才能ってやつなのか?今朝、気怠い体を引きずって教室に入った時、エバンネは同クラスの何人かに囲まれて会話に励んでいた。だがその態度はあからさまに挙動不審で、おどおどしていることがまるわかりだった。けれどなぜか誰も彼女の態度を気に留めない。隠そうとしているが、人見知りのくせに必死になって、早くクラスに馴染もうという姿勢が他人の保護欲をくすぐっているのだろうか?


「ほら、次の体育に間に合わなくなるだろ。早く着替えるぞ」


 喉まで出かかった正体不明の蟠りを飲み下し、わたしはそれだけ言って着替えを再開した。


「え……う、うん……」


 釈然としない面持ちだが、わたしの指摘に次の授業まであと五分を切っていることに気が付いたエバンネは、軽い悲鳴を上げ、慌てて着替えを再開した。

 その後もしばらく、ちらちらとこちらに流し目を寄越してきて鬱陶しかったが、わたしはあえてその視線を無視して一人、先に教室を出た。

 屋内にこもっていたせいか、穏やかな初夏の日差しが今はやけに目に染みる。


「ふあ~ぁ……」


 眠い……。立っているのも正直つらいかもしれないな。

 針のように鋭い日光の眩しさとしつこくまとわりついてくる眠気に目を細めながら運動場に出たその時、「危ない!」という叫び声とともに黒い物体が空から降ってきた。その声に反応し、ぼんやりとする頭をもたげたちょうどその時、頭の中で「ドゴッ!!」という鈍い音がしたかと思うと、全身に衝撃が走ると同時にもうろうとしていた意識と共に視界がブラックアウトした。




* * * * *




【視点:カリナ・エバンネ】




「……何事……?」


 今カリナの目の前には人垣ができていて、おかげさまで次の授業である体育が行われる運動場に出るべく、運動靴に履き替えようにも靴箱にまでたどり着けず、立ち往生している。

 こういう時、小柄な体が恨めしくなる。周囲のみんなの体の隙間からのぞき込んだり、つま先立ちで上から眺めたりと四苦八苦しながら状況を把握しようと試みても、この騒ぎの現況からの距離が遠くてなかなかうまくいかない。


「はい、みんな、退いてー!」


 少し焦ったような声音で群がる生徒たちを押しのけながら、誰かを背負ったデーン先生が人の輪の中心から姿を現した。その背におぶわれた者の正体に気付いた時、カリナは思わず驚愕の悲鳴を上げかけ、そして喉をひきつらせた為にそれは群衆のざわめきに掻き消される。


「なっ……!?」


(ダンさん!?)


 大人の大きな背中におぶさり、ぐったりとして瞼を固く閉ざしたまま動かない、カリナと同じくらいに小柄で、カリナ以上に華奢な体を見て、カリナは目をみはった。何があったのか、どうしてそうなったのか、それを聞きたくて、デーン先生に駆け寄りたいという気持ちでいっぱいいっぱいだったけど、みんなもカリナと同じような心境らしく、獲物に群がるオオカミの群れのような彼らの勢いに押されてしまって、思いとは裏腹にどんどんカリナとデーン先生との距離は遠のいていく。そうこうしているうちに、やがてその姿は保健室へと向かうべく、廊下の角を曲がって見えなくなった。


「な、何があったの?」


 先生の後を追うことを諦めて、近くにいたクラスメイトの一人に問いかけると、当人は「さぁ?」と小首を傾げるばかりで、何の情報も得られなかった。


「何でも、六年が思いっきりぶん投げたボールに頭をぶつけたらしいぜ?」


 図ったようなタイミングで発せられた言葉に、反射的に声のした方向へと振り向くと、隣に立っていたミルクチョコレートのような茶色い髪色をしたスラリと背の高い少年が、別のやけに明るい金髪が目立つ少年に話しているのを耳にする。


「えっ、マジ?あのリンがか?」

「マジマジ。驚いたよなぁ。あいつがボールで頭打って気絶だなんて」

「妙なこともあったもんだなー」

「だな。でもさ、あいつ、なんか今日様子変じゃなかったか?なっ、カリナ?」


といきなりこっそり聞き耳を立てていたカリナに茶髪少年が話を振る。


「ふえっ!う、うん……」


 驚いて肩を揺らすも、確かに今朝からの彼女の挙動に違和感を感じてはいたので、ぎこちなく首を縦に振ると、少年はニッと悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。


「何か知らんけど、やけに疲れた感じだったよな、あいつ。怪我してたし。肩のあざ、あれベッドから落ちたんだって?」

「き、聞こえてたの……?」

「うん。だって、俺の席、リンの前じゃん。顔くらい覚えててよ」

「ご、ごめん。そんな余裕、今までなかったから」

「うわー。リンに先越されるとか、ないわー」

「ドンマイ。でも、たぶんそれみんなが思ってることだと思うぞ」

「??」


 わりと結構本気で肩を落としているっぽい茶髪少年とそれを慰めるようにして肩を叩く金髪少年に、カリナは疑問符で埋め尽くされた瞳を瞬かせた。


「にしても、ほんっとーにベッドから落ちたのか、あいつ?俺が見た限り、人の手の形にも見えなくもなかったけどな……」

「知るかよ。どっかの不良に喧嘩でも売って返り討ちにあったんじゃねーの?」


 何それ。ダンさんってそんなバイオレンスな私生活を送ってるの?

 思わず口から出そうになった台詞をいつもの癖でぐっと飲みこむ。


「あー、ありそー。あいつ、普段何考えてるのかわかんないもんな」

「体力お化けのくせにあんなに疲れてんのは相当苦戦したみたいだな」

「それでも、あいつなら寝ながらでもボールくらいなら普通に避けそうだと思ってたけど、リンも一応は人間だったんだな」


 どんな運動神経よ!

 ツッコみたい!でもこの人たちまだどんな人かよくわかんないし……でもダンさんのこといっぱい知ってそうだし。それに友達もやっぱり欲しいし……。


「まー、しょせんは噂だったってことだな」

「噂?」


 よし、やっと声が出た。他は後でまた聞こう。茶髪少年とは席も近いしね。


「あ、カリナは知らねーか。あいつの噂」

「うん。どんな話なの?」

「うーん、色々あるよな」

「な。怒ると目が赤くなるとか、実はバンパイアの子供だとか、色々あるよな」

「な、何それ……」


 物騒にもほどがある。というか、バンパイアって……。

 カリナの背筋に、冷や汗が伝い、さっと頬から血の気が引いていったのが分かった。だけど、互いの会話に夢中になっている彼らは気が付かない。


「あ、あと、実は異能者で、親に怖がられて捨てられたとかいうのもあるよな。実際、養子って話も事実みてぇだしな」

「あ、俺も聞いた。この前、ローズがラナちゃんに話してるとこ聞いたよ」

「えぇ!?そうなの?」


 ローズって誰?という疑問はさておき、思わぬ事実に頓狂な声が喉から飛び出た。


「うん。だから、今朝からいきなり思いっきりでかい声であいさつしたり、話しかけたりしてるカリナのこと、勇気あるよなーって思ってた」

「俺も、リンがあんなにまともに話してるとこ、初めて見た。お前スゲーな」

と二人して冗談のようにして笑っている。というかダンさん、普段どんだけ孤立してんの……。


「えぇ!?で、でも、それって全部噂だよね……?」

「うん。養子の話以外は」

「まっ、どれもリンならあり得そうな話だけどな」


(ちょっ……それは、ダンさんに失礼じゃない?)


 むっとして言い返そうと思ったけど、悲しいことに、私の臆病な口からは結局何も出てこなかった。

 この役立たず!


(でも、確かに、リンちゃんが誰かと話してるとこ、見たことないな)


 まだカリナが学校に来てから一日しか経ってないから、偶然かと思ってた。


(……寂しく、ないのかな……)


 カリナは、独りぼっちは嫌だ。兄弟もいないし、パパもいない。故郷を離れた今は、親戚も友達もいない。だから、本当は心臓がバクバクして苦しいし、怖いけど、無理やりにでも笑っているように頑張っているつもりだ。今は心の底から笑えなくても、いつか、そうなれるような友達が欲しいから。

 いつの間にか黙りこくったカリナを気に留めることもなく、楽しげに会話を弾ませる二人の話は、いつしか隣町のあのバンパイア騒動に移っていた。何でも、バンパイアと戦って怪我をした兵士さんたちがこの町の病院で怪我を治しているらしい。

 その時になってようやく、デーン先生が戻ってきた。もちろん、そのそばにダンさんの姿は見えない。


「はーい、皆さん、リンさんは軽い脳震盪のため一時気を失っていますが、すぐに回復するだろうとのことなので、授業を再開しますよ」


 よかった……大怪我とかじゃないんだね。ていうか、脳震盪って何?先生、六歳児にも分かるように説明をお願いします。

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