とある夏の日。

国会前火炎瓶

とある夏の日。

 ふと死んでやろうと思った。蝉の五月蠅い夏の日の事だった。


 「暑い……」

 久しぶりに出た外は、僕を鬱陶しい日差しと過剰な熱、纏わりつくような湿気で歓迎した。思えば前に外に出たのは一年以上前のことだった。あの頃は、自分が引きこもるようになるだなんて、思いもしていなかった。こんな風に自殺を考えるようになっていることも。

 首吊りがいい。そう思った。一番手軽で、ロープさえあれば実行できる。一番の問題は、そのロープが無いことだった。普段ならそこで途切れる思考が、今日は何故だか続いた。無機質に繰り返される堕落的な毎日に、ついに幕を下ろしたくなったのかもしれない。ロープが無いなら買いに行けばいい。当たり前のことだ。僕は財布を手に外へと向かった。不思議なことだ。普段は、鉄のように重く感じられた部屋の扉が、今日は妙に簡単に開いた。

 良い天気だった。絶好の自殺日和と言えるだろう。財布の中にはいつ入れられたのだか分からない千円札が三枚、居心地悪そうに佇んでいた。十分だ。これだけあれば良いロープが買えるだろう。死のうと思っているのにも関わらず、随分良い気分だった。


 少し歩いてとあるホームセンターに着いた。そいつは性格の悪い野外とは違い、クーラーの、実に機械的な冷気で僕のことを歓迎してくれた。

 さて、ロープは一体どこにあるだろう。生活雑貨か、或いはアウトドア用品か。僕を空へと導いてくれるだろうそいつを、ふらふら歩きまわって探す。ふと暇そうな男の店員を見かけて、声をかけた。

 「あの、すいません」

 「はい、何でしょう」

 さっきまで少し呆けた様な顔をしていたその人は、僕が声をかけるとすぐに柔らかな笑顔となった。その接客業の妙技に魅せられつつ、

 「ロープ、その、頑丈なロープが欲しいんですけど」

 と尋ねた。

 「ロープですか?どのような用途で?」

 店員が尋ね返す。尋ねた僕が不審だったのか、少し怪訝な顔をしていた。

 「あー……その、アウトドアでちょっと」

 僕がそう言うと、店員は少し困ったような顔をした。

 「アウトドアと言うと……テント用でしょうか?その、うちで仕入れているものですとテント用になるんですけど」

 「ああ、そうです、テント用の」

 少し食い気味に答えた。死のう死のうと言う気持ちが僕のことを急かしているような気がする。店員はさらに困った顔をした。

 「すみません。テント用のロープは、只今在庫を切らしておりまして。この時期、アウトドア用品は良く売れるんです」

 それを聞いた時、ふっと、僕の中の、死のうと言う気持ちが嘘のように消えてしまった。ロープが無いのなら、と別の方法を考えることも無かった。

 「あの、来週には入荷いたしますので、もしご連絡先をお教えいただけるなら、ご連絡しますが……」

 店員がそう続ける。僕は、いえ、大丈夫です。と出来ているかどうかも分からない愛想笑いをして、そこを後にした。


 ホームセンターを出て、僕は公園のベンチに腰掛けていた。ロープを買うはずだった野口さんの一部は、自販機の五百ミリリットルコーラに姿を変えていた。

 コーラを飲みながら、僕は消えてしまった自殺願望のことを考えていた。嵐のように現れて、嵐のように去ってしまったそいつは、一体どこへ行ったのだろう、と思った。そうして考えていくうちに、ふと死にたくなるのだから、ふと死にたくなくなってもおかしくない、というようなことを思った。説明にもならない説明だが、そいつが一番正しいだろうと言う確信があった。

 「あっ……」

 聞き覚えのある声が耳に響いた。見ると、栗毛の、癖毛の女の子が、少し戸惑ったようにして立っていた。その子は嬉しいような、困ったような顔をして、

 「久しぶりだね」

 泣きそうな声だった。


 その子は僕の隣の家に住んでいる幼馴染で、名前を透香と言った。僕と同い年だから、彼女は大学一年生のはずだ。今日は平日なのに、授業は無いのだろうか。

 「今日は午前中だけだったの」

 僕の疑惑を見透かしたように彼女は笑った。

 「久しぶりだね、会うの」

 「……そうだね」

 気まずい空気が流れていた。そんな空気を吹き飛ばすように、彼女はふっと息を吐いた。

 「ずっと、何してたの?」

 「……部屋の中に居たよ」

 彼女と同じ大学を受験して、僕だけが落ちて。その日から僕は外に出ることをやめた。

 「……そっか。辛かったんだね」

 辛かった、のだろうか。僕は考える。そりゃ、引きこもるきっかけだ、辛くないわけがない。だけども、今になってみると、そんなに辛かったはずの、あの日の悲しみだとか絶望だとか、そういうものがはっきりとは思い出せない。悲しんだことは覚えているけれど、その悲しみ自体は霧のように不明瞭で、今では掴むことが出来なかった。

 「どうなんだろうね?」

 そんな風に返すと、彼女はきょとんとした顔をして、それから可笑しそうに笑った。

 「何それ。自分の事なのに」

 「そうだね」

 「……ねえ、今日は何で外に出たの?」

 当然の疑問だ。だけども、死ぬための道具を買いに、とはとても言えない。普通に人にそんなことを言えないと言うのもそうだけども、こんな風に笑う彼女には更に。

 「まあ、色々あって」

 「……また、外に出られそう?」

 どうだろうか、僕は考える。死のうと思っていたとは言え、こんな風にあっさり外へ出てきてしまって、これでまた部屋に引きこもる生活へと帰っていくのだろうか。考えてみれば、きっと本当の絶望で、自分が恥ずかしくて外に出られなかったのはほんの一瞬だった。けれど、その間外に出なかったせいで、外への出方を忘れ、引き下がれなくなって、ずるずると堕ちていった。マイナスの動機とは言え、こうやって外に出たことで、外に出ない、という僕の中の何かが破壊されたように、今は思える。きっと明日からは、また普通に外に出られるだろう、という確信めいたものが僕の腹に生まれていた。ふと死にたくなるように、ふと死にたくなくなる。それと同じで、ふと外に出たくなくなって、いつの間にか外に出られるようになっている。また説明にならない説明を、僕は心の中で反芻した。

 「多分、もう大丈夫だよ」

 返答が無かった。見れば、彼女は少し泣いていた。泣いていたけれど笑っていた。こんな顔をさせてしまったことに、少しの罪悪感を覚えた。

 「……じゃあ、これからどうするの?また大学受験に挑戦するの?」

 涙交じりの声で彼女が尋ねる。

 「そうだなあ……」

 もう一度、大学受験に挑戦するのもいいかもしれない。けれど、そうするには少し遅すぎたようにも思える。それに、どうせ進学のレールから外れてしまったのだから、別のことをするのもいいかもしれない。就職だとか、進学するにしても大学以外でも。

 「ちょっと考えてみるよ。取り敢えずバイトでもしてさ」

 「……そう言えば、絵、描いてたよね。キミの絵好きだったなあ」

 思い出すように呟く彼女は、穏やかな顔をしていた。


 コンビニでタウンワークを貰って、家に帰るとリビングに母親が居た。僕と、僕の持っているタウンワークを見ると、顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。ガラガラの声で、

 「今日は何が食べたい?好きなもの言って」

 と繰り返すので、お肉、そんなに高くないやつでいいから、とだけ残して逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。

 しばらくの間、ペラペラと求人情報を眺めた後、机の中から鉛筆とノートを取り出して、黒鉛を真っ白な紙の上へと踊らせ始めた。明日も、いい天気のような気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある夏の日。 国会前火炎瓶 @oretoomaeto1994

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ