第10話 鮮血の魔王


 ――やばい、やばいやばいやばい、旅客機の失速よりやばい。巨大隕石の衝突の次くらいにやばい。


 頭の奥で警鐘が鳴り響く。心臓が嫌な軋み方をする。


 一目で理解できていた。理解させられていた。目の前のソレが本物であると。<魔王>であると。あまりにも違いすぎる。気配の濃さも存在の重さも。俺が知る<勇者>と比べて隔絶しすぎている。


 気を抜くのがいけないのはわかっていた。けれど、我を忘れたのは数秒程度だ。そのわずかな間隙に最大級の脅威が飛び込んでくるとは……いや、そうじゃない。この<魔王>は明らかに合流のタイミングを狙ってやってきたのだ。おぞましい悪意を携えて。


 示し合わせたかのように、俺たちの視線は動いた。<魔王>からリーダーに。戦うのか、逃げるのかと――問うために。


 だが、<魔王>は傲慢にして理外の怪物。こちらの判断を待ってなどくれなかった。


「その娘はなかなか綺麗ね。でも処女じゃないならいらないわ」


 指を鳴らした音が、不気味なほどに大きく場に響く。


 その言葉から対象はこの場に二人。レナさんとミサさん。 


「――レナッ!? どうした、早く避けろ!」


 叫んだのはユージさんだった。


 レナさんの足下に何かが現出していた。

 無数の針を内部に蓄えた顎。


「え……あ……? か、体、が……!?」


 動くことが、逃れることができる時間があった。けれどレナさんは直立した姿勢のまま動けない。恐怖に竦んだのか、他に理由があるのか、今にも閉じそうな顎の狭い攻撃範囲から脱出することができない。


「――くっ!」


 レナさんが動けないことを悟ったユージさんの反応は早かった。


 レナさんを助けるために動いた。そこまでは良かった。しかし、結果論で語るのなら選択を誤った。ユージさんはレナさんを飲み込もうとしている顎を破壊しようとしてしまったのだ。


 巨大な魔物を屠ってきたユージさんの光の牙は、<魔王>が創り出した顎を破壊するどころか弾き飛ばすことすらできなかった。顎も内部の針も見た目は金属製。


 リーダーの力なら破壊など容易いように思えたのに、微塵も揺るがなかった。 


 結果、リーダーの目の前で。


「あ――……」


 顎が閉じた。無情にもレナさんを飲み込んでしまった。


「――ぃ、ぎいいいぃぃぃぃぃぃっ……!?」


 噛み合う金属音。そして、悲鳴。それは他でもない、レナさんのもの。閉じた顎に、人型の柩に囚われたのは首から下だけだったから。けれどそれは何の救いにも慰めにもなっていなかった。


「ふふ、うふふふふ、いい声音、声量も素晴らしいわ。悲鳴には合格点をあげましょう!」

「レナ――ッ!!」


 悲鳴を掻き消す怒号。ユージさんが叫びながら柩に手を掛けていた。無論、こじ開けるため、破壊して柩に囚われているレナさんを助け出すためだあろう。けど、レナさんを抱いた柩はビクともしない。


「くそっ、くそォッ!」


 やがて赤色が――レナさんの血が、柩の底から溢れ出てくる。乾いた大地を濡らしていく。


「鉄の……処女」


 震えた声はシュンさんのものだった。


 聞いたことがある。急所を避けた位置に針が配置された箱。中世の拷問器具。


「どうしたの、ジャポネーゼ? ――血よ? 恋人の血。最高のご馳走でしょう? このままでは大地に飲み干されてしまうわよ? せめて啜ってあげたらどうなの?」

「て、てンめえええええええええっ!!」


 ユージさんが振り返り、敵へ躍りかかった。


 あの柩を創り出した<魔王>を殺せば、おそらくレナさんは解放される。今ならまだ助かるだろう。だからその判断は正しかった――相手が、遙か格上でなければ。


「ふふっ、あはははははっ! あなた、まさか、まさかまさかまさか、一人で勝てるとでも思ったの? なんて身の程知らず! ――落第ね、もちろん追試はないわよ?」


<魔王>が嗤う。そのときすでに、ユージさんは虚空から出現した二つの巨大な歯車に挟まれてしまっていた。


「――っ……く、そ……がっ、あああああっ!?」


 ユージさんの体が前後から圧搾される。逆回転を始めた歯車に挽き潰されていく。


 グチュッ、ブチッ……と、吐き出され続けているレナさんの悲鳴に、嫌な音が混じった。それはユージさんが上下に千切られた音だった。回転を続ける歯車がユージさんだった肉塊を吐き出し、消えていく。


 最強の戦力があっさりと、トマトを握り潰すよりも容易く潰されてしまった。恋人の悲惨な絶命に引きずられてか、レナさんの声も消えていた。


「……な、何故だッ! 何故こんなことをするッ!?」

「あふっ、何故? 何故? 何故ですって? あまりにも馬鹿馬鹿しい問いね!」


 初めて聞くシュンさんの荒らげた声に返ってきたのは、愚者への哄笑だった。


「要らないって言ったじゃない。そうよ、要らないのよ、わたしは勇者なんて要らない。わたしを討てる存在なんて求めてないのよ!」

「なん、だと……」


「害になりそうな虫は潰すのが当然なのに、育てるですって? 反吐がでるほどに愚かしいわ! わたしはそんなこと望んでいないの! 自分を殺せるかもしれない相手と戦いたいだなんて考えてるのはクリュテイアだけ! あの狂人だけよ!」

「は、はは……そういう、ことか……『私は歓迎する』……『私を殺しに』……ははは……挨拶が常に一人称だったわけだ……」


 シュンさんの言葉はそれが最後だった。降ってきた巨大なギロチンに体を両断されたからだ。左右に分かたれた体が倒れ、ビチャッ、ドチャッ……と地面に臓物をぶちまける。


「ぐっ……」


 目を覆いたくなる惨状に、我知らず呻き声が漏れる。リーダーと副リーダーが、意志決定を担ってきたパーティーの中核がやられた。残ったのは戦力外の一年と、二年生が一人、三年生が二人。戦力的にはもう半壊どころの状態じゃない。


 ――どうする、抜くか? けど、それでどうなる?


 この状況じゃ、俺と<魔王>以外の生存率がゼロになるだけだ。生き残るためであってもそれは許容できない。ならどうしたらいい、どう動くのが最善だ。


「……う、ぷ……エエェェェッ……」


 ミサさんが地面に蹲り、吐瀉物を撒き散らす。


「汚いわね、あなたの血は吸おうと思ったけどもう要らないわね」

「ひぎっ!?」


 ミサさんの頭に鳥かごのような物体が絡みついた。籠の頭頂にある取っ手のようなモノが勢いよく回り始めたかと思うと――ミサさんが激しく呻き出した。


 籠が、縮んで――?


 取っ手が回るほどに籠が小さくなりミサさんの頭部へ食い込んでいく。ものの数秒で、頭皮が裂け血が流れ出した。なおも縮まる籠はベキベキと頭蓋骨までも砕いてしまい、歪になった頭部から中身を漏れ出させてしまう。力なく痙攣し、失禁した体からはもう生の鼓動が感じ取れなかった。


「……――ぁ……」


<魔王>に殺意はない。俺たちのことなんて、害虫程度にしか思っていないのだ。否、害虫程度には見えているのか。


 強いパーティーほど全滅率が高い。それはおそらく<魔王>の仕業で、正確な話が伝わっていないのは<魔王>に出遭ったパーティーは例外なく全滅しているからだ。


 このまま棒立ちになっていても踏み潰されるだけ。もはや考えている猶予はない。


「――に、逃げろ! 全員逃げろッ! アレは俺が足止めするッ!」


 叫びながら<ムラマサ>の鞘を握りしめる。


 もはや、これしかない。そうだ、これ以外にない。

 どのみち<魔王>からは逃げられない。切り抜けるにはここで<魔王>を殺すしかない。ならば――<ムラマサ>を抜く以外の選択肢はない。


 けど、この位置関係じゃダメだ。仲間が傍にいては都合が悪い。


「ざ、ざけんなやっ! んな役目ッ、新入りに任せられるかいなっ!」

「タダノブさん!?」


「わいがやる! おまえらはさっさと逃げぇっ!」

「仲間のために捨て石になるというの? いいわね、その勇ましさ! すばらしいわ、英雄と呼んであげましょう!」

「いけ――ッ」


 前へ出て攻撃を仕掛けるタダノブさんの絶叫に従えたのは、二年生のアヤトさんだけだった。そして、従えたことがアヤトさんの生を閉ざす結果になった。


 タダノブさんの攻撃が届く前に<魔王>は姿を消していて。


「なっ!? おぼぉぇぇええええ――っ!?」


 くぐもった悲鳴に振り返れば、地面から生えた槍で股から喉まで串刺しにされたアヤトさんと、その傍らに佇む魔王の姿。


「ふふふっ、なあんてね? お遊戯に付き合うとでも思ったの? ――逃げる羽虫から処分するに決まっているじゃないの」

「く、くっそがああああぁぁぁぁぁっ!」


 雷が迸る。けれどタダノブさんの攻撃は届かない。雷を創り出し支配していても、たぶん物理現象の域を出ていない。核の爆発すら凌ぐ<魔王>にはまるで通用しなかった。


「ほらほらどうしたのよ、それだけ? あなた、そんなことしかできないの? このままだとお仲間が危ないわよ? 英雄なんでしょう? 護るんでしょう?」


 嗤う<魔王>は反撃しない。タダノブさんの攻撃を無視して、俺たち一年生に歩み寄ってくる。


「くっ……」


 やばい……けど、このまま、タダノブさんを絶望させるために近づいてきてくれるのなら――。


「は、はは、あかんか……すまんなぁ、ふがいないセンパイで……」


 タダノブさんの攻撃が止む。諦めたのか、俺たちを巻き込んでしまう位置にまで<魔王>が近づいてしまったからか。ある意味でどちらでもなかった。


「――なあ、さっきから笑い方がキモすぎやで、オ・バ・ハ・ン?」

「ちょ……!?」


 間合いを計るために<魔王>に向けていた視線を思わずタダノブさんに向けてしまうくらいに唐突な発言だった。そして、<魔王>の足を止めてしまうくらいに威力があった。


「――今のそれ、わたしに向けて言ったのかしら?」

「当ったり前やろ、他に誰がおんねん。まったく信じられへんわ、エリザベートっちゅーたらミス<魔王>ランキング四位やで?」


 クリュテイアは別格として、次点を争う数人の枠に入っていたはずだ。日本は昔から<魔王>を容姿で順位付けしたり創作物の題材にしてみたりと割と命知らずなことをやらかしている。


「さぞ別嬪なんやろ思てたのに、実物はめっさ若作りしたブッサイクなオバハンやん、ほんまガッガリやわ。写真どんだけ修正しとんねん、こんなんズリネタにつこうたかと思うとサブイボ出るぶぴっ――」

「これだから教養のない野蛮で品のない東洋の猿は嫌なのよ」


 タダノブさんは降ってきた金属の塊に潰されてしまった。


 けれど、物理的に害せないならばと、精神に打撃を与えた。存在の痕跡を確かに残した。その捨て身は尊敬に値する。称賛に値する。


 だから倣おう。泥を啜ろうが糞を喰らおうが、機会を作ってこの<魔王>を叩き斬る――。


「ふふふっ、それで? 残ったあなたたちは新人なのね? 私に服従すれば見逃してあげなくもないわよ?」


 嘘をつけ。これまでの所業を見て誰が信じるそんなこと。だが、近づくチャ……。


「あああっ! 助けて、助けてくださいっ、な、なんでもっ、なんでもしますからぁっ!」


 計算を走らせている間に先を越されてしまった。正気のまま<魔王>を斬る算段をしている俺と、<魔王>の存在に心を押し潰され絶望しているケイスケでは応答速度が違って当然だったのかもしれない。


「いい心がけね、そうね、なら這いつくばって靴を舐めなさい?」

「舐めますっ、舐めますぅっ――っ、あうっ!?」


 激しく首肯しながら<魔王>の元へ駆け出すケイスケだが、ほんの数歩で足をもつれさせた。


「うあっ、うあああっ!」


 起き上がることがもどかしいのか、起き上がることさえ思い浮かばない心理状態なのか――ケイスケは手をついたまま、四つん這いのまま前進した。そうして辿り着いた<魔王>の御前。ケイスケは躊躇いなく<魔王>の足に顔を寄せた。


「ぎぃっ!? がううぅぅぅッ!?」


 けれどその口は<魔王>に触れる前に悲鳴を吐いていた。<魔王>がその手に生み出した鞭をケイスケの背中に叩きつけたから。


「ふふふっ、冗談に、決まってる、でしょう? 不様で、優雅さの、欠片もない、猿なんか、お呼びじゃ、ないのよ!」


 鉤がちりばめられた九尾のような鞭が何度も振るわれる。それは打撃に留まる威力ではなかった。ハイテク素材の防護服が引き裂かれ、千切れ飛ぶ。仕置きとはほど遠い威力に皮膚が弾け、背中の肉が刮げ取られ、悲鳴と血が飛び散る。赤に染まった背中に鞭はなおも叩きつけられ、周囲に撒き散らされるのが骨になったところでケイスケの声は途絶えた。


「ああもう、臭い臭いっ、雄の血は臭すぎるわ……!」

「ひ、ひいぃぃやああああああぁぁぁぁっ!? うわあああーっ! あーっ!」


 尻餅をついたリュウが壊れたように首を振る。


「品のない悲鳴ね。しかもお漏らしなんて――ただでさえ臭いのに」

「ぐへぁっ!?」


 足下からせり上がった器具によってリュウが拘束された。正座状態で、顔を上に向けさせられて、口を開けさせられて。


「ふふっ、ねえ、お漏らししたら喉が渇いたでしょう? お水をあげる、好きなだけお飲みなさいな?」


 中空に発生した巨大な水球から槍が伸び、開かされているリュウの口へと飛び込んだ。


「ごぼぼっぼぼっ……!?」


 穏やかに見える水流だがその勢いは凄まじく、リュウは大量の水を飲むことを強制された。水風船が膨らむかのようにリュウの腹が膨れていく。逆流した水が口の端から溢れ出しても膨張は止まらない。


「あらあらあらっ、どうしたの? まだ飲めるでしょう? 遠慮なんてしなくていいのよ? もっとお飲みなさいな、ふふっ、ふふふふっ!」


 そして――分厚い風船が割れるような音が響いた。ついに胃が破裂したのだ。リュウはビクンッと大きく痙攣し、白目を剥いて、それきり動かなくなった。


 それはリュウが<魔王>の興味を引かなくなることを。


「何もしなかったのは賢かったからかしら? それとも、愚鈍なだけなのかしら? ――いえ、叫んでいたわね。最初に囮になろうとしたのはあなただったわ」


 そして、<魔王>の害意が移り変わることを意味していた。

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