絶望することは犯罪なのか

◇生きる意味がない


 2017年11月頃の神奈川県の事件で、若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。

 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。


 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。

 僕はタバコの煙が嫌いである。しかし、喫煙所などで、マナーを守って吸っている人たちをどうこう思うことはない。え、歩きタバコ? ――消えてなくなってしまえと思う。

 僕はオートモービルが好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁしかし、オートモービルが嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろう。

 けれども、何でもかんでも一括りにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?


 どうでもいいことを書いてしまった。これは疲れている証拠である。

 それにしても、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?

「納得」したいからだ。

「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。


「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。


 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういった趣味をもつ人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、昨今は、ゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。

 だから、そのことにより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきているのではないか。


 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。



◇絶望とは


 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、20世紀に活躍した精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。


 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。


 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、一般に言われていることも分かっている。

「いやお前、それは『わかっている』とは言わないのだぞ」と言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、ということだ。


 ちなみに、何故間違っていると言われるのだろうか。それは、がないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


 そんな頑固な言い回しに対して、人は、

「いやお前、そんな、人生楽しいことばかりじゃないぞ。嫌な思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?」

 と言うかもしれない。


 否。明確に否定する。「それは、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ」と。

 その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。良いことも悪いこともあるのが人生? そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、みんなが大嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。


 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。仮に、今悪いことがあるとしたら、それをなくしていくために、不断の努力が必要なんだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、この作品が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。


 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは。

 無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか、そう思ってるように感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。


 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでも

 したり顔の知識人や的な奴らに反吐が出る。

 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)


 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。

 絶望とは、欲求がなくなった状態である。



◇仕事が忙しいのもある


 働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。

 それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。


 でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。

 土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。


 何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。


 何もしたくない。


 ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。


 疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。




◇それでも文字おこしするのは何故?


 何もしたくないといいながら、何故文章を書いているのか。記事を書いているのか。


 僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。


 文章を書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッドを見たり(アマゾンプライムで見れる)、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。

 なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。


 でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。


 寝る、ということすらそうだ。

 土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。


 唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。

(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)


 たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。

 今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。


 でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。



◇何もしない時間が必要


 友人との飲み会をぶっちした。ぶっちってなんだろう。さぼり、という意味。行けるけれども行かなかったという意味。

 しかし、少し落ち着いて考えてみる。飲み会に行くことで、時間が使われる。何かを行うという時間だ。それを行うことで、精神の落ち着きが取れなくなるとしたら、それは「ぶっち」なのではなくて、正当な「行けない理由」ではなかろうか。


 つまるところ、何に時間を使うかは、自由である。


 この自由は、とても素晴らしいものだけれども、時に、自由には「責任」が伴うので、その自由自体が重いものになる。

 飲み会に行けなかった……のではなく、会社の強制参加の飲み会のように、絶対に行かなければならないようなものであれば、「ああ、面倒くさいなぁ」と思いながらも、その結果生じること(例えば、体調が悪くなったり、精神的に落ち着かなかったり)の責任は、自分にはない。何せ、選択ができなかったからである。


 一方。行くも自由、行かないも自由だったときに、その責任をかぶるのは、自分一人だ。



◇お金について


 友人と遊ぶのも自由。

 恋人をつくるのも自由。

 仕事をするのも自由。


 本当にそうか?


 たぶん、そうではない。自由の幅は、過去専制君主時代に比べれば広がっていても、自然や社会の中で人が生きるのであれば、その自由は必ず制限される。


 その制限される自由の幅は、資本主義社会であれば、「お金」というツールによって広がったり狭まったりする。


 一般的、卑近には、お金は欲求を満たす手段である。よい寝床も、よい食事も、よい異性もお金がないと手に入らない。

 しかし、お金の価値は三つあるといわれるが、そのうちの一つは、「価値を保存できること」である。

 欲しいものなんて、そうそうすぐには生じない。必要なものなんて、すべて理解しているわけでもない。

 突然必要になったり、欲しくなったりする。その際に、手に入れられるかどうかの選択の幅を広げてくれるのがお金だというわけだ。


 だから、お金は、あればあったほどよい。



◇人脈について


 お金は目に見えるから分かりやすい。

 では、俗に言われる人脈というものはどうか。


 確かに、人は一人では生きていけないので、助けてくれる人は多いほうが良い。ビジネスをするにあたっても、初対面の人よりも、顔見知りの方が頼みやすかったりする。


 だから、人脈もあればあったほうだけよい。



◇有限性と将来性について


 お金も、人脈もあればあった方が良い。


 では、幸せはどうか?


 幸せもあればあった方が良い。理由はない。幸せという言葉の定義は、「あればあったほうだけ」豊かであったり、嬉しかったり、気持ち良かったりするものだからだ。そういう定義なのである。そういった概念なのである。

 だから、幸せを求めるのは自然なことである。


 問題は、その幸せという言葉の「中身」である。


 幸せがよいか、不幸がよいかという問いの立て方は無駄である。

 しかし、一方、生きることがよいか、死ぬことがよいかという問いは無駄ではない。

 生きる意味を考えるべきか、考えないほうがよいかというのも無駄ではない。


 そういったすべての上に立つのが、「幸せ」という言葉である。


 ――だから故に、幸せについて考えることは無駄である。


 もっと簡単に書けば、幸せについて考えることは無駄である。何故なら、幸せであるしかないからだ。幸せでなければ失格だ。失敗だ。間違いだ。


 だから、選択を迫られたとき、難しく考える必要はない。その選択が幸せであるか、そうでないか、それだけを考えればよい。


 ところが、有限性の中では、その選択が正しかったかどうか、その判断ができない可能性がある。

 10年先の選択としては正しかったことが、5年先で方向転換を余儀なくされたとしたら、その選択は、失敗だったことになる。



◇選択の難しさ

 

 何故選択することが難しいのか。

 判断基準は、「幸せ」であるかどうか、だけである。それなのに、何故?

 その理由は、選択が、「いま・このとき」のためだけにあるものではないからだ。


 人間が、抽象的な言語を使用するようになったこと――いいかえれば、抽象的な言語を使えるから人間だともいえるが、それゆえに、人は、「未来」を想像することができる。



◇何故人は悩むのか。


 未来があるからだ。


 未来がなければ、選択など簡単である。いま、このとき、この瞬間における幸せを選び取ればよいだけである。


 しかし、理想的な身体を手に入れるため、病気にならない健康な体を手に入れるため、食事制限したり、ダイエットしたり、筋トレしたりするのである。それ自体は、「いま・このとき」の幸せの放棄である。諦めである。



◇何故物語を書くのか


 手っ取り早く、誰か他の人の作った物語に興じればよいではないか。ゲームやアニメ、ドラマや映画、様々なエンターテイメントがある。


 自分の頭で考えるのはとても大変だ。

 それでも自ずから文章を書いたり、創作したりするのは、それは未来に、楽しい面白い物語を作れた時の、誰か他の人を楽しませられた時の、「消費」したとき以上の幸せを求めているからだ。



◇何もしない時間


 テレビも、人との会話も、勉強も、仕事も、睡眠も、全部やめてしまって、何もない時間が欲しい。


 実は、そんな時間がとても貴重なのだ。


 何もない時間。


 何も考えなくてよい時間。


 何もしなくてよい時間。


 ただ、あったかい部屋で、コーヒーと少しの甘いものをつまみ、椅子に深く腰掛け、外の流れる雲を見つめる。ゆったりとした音楽と、風のそよぐ音が耳をかすめていく。

 そんな時間がとても素敵だと思う。


 古い一軒家の縁側に座る老人のようか。


 何も生産しない時間。


 一般には無駄だといわれるような時間。



 僕は、何か、「目的」や、「目標」なるものを目指して、――いや、目指さなければならないと思っていた。いや、今も思っている。


 ただ、それは何らかの「もの」や「こと」なのではなくて、むしろ、「何もないもの」や「何もないこと」なのかもしれない。


 努力すること、頑張ることというのは、何かを手に入れるための手段である。

 僕は、それにどうしても本気になれないでいる。


 それは、本当に欲するものではない気がしているからだ。


 でも、少し考え方を変えて、「何もないもの」を求めるための努力であれば、もう少し本気になれるかもしれない。



◇何もしないのと死とは違うのか


 絶望と犯罪なんて、そもそも何ら関係しないだろうという勝手な考えのもと書いてきたため、本記事のタイトルと内容は合致していないかもしれない。そもそも、本作品では、実存ベースの生きる意味についてを取り扱うこととしており、社会的な善悪に対して何らコメントするものではないということについては、改めて書いておこう。犯罪心理学(?)的には、絶望をしている人のほうが、犯罪を犯す確率が高いのかもしれない。


 ただ、軽々に「生きる意味」なんてのを、事件と結び付けて報道して欲しくないなぁという思いから本記事は生じた。「生きる意味って何だろう?」と発する人が、誰しも他者を害そうとしているなど、ありはしないのだ。


 とはいえ、絶望……実存的空虚感が生じ、「何もしたくない」といった感覚を手放しに良しとしていいのか。

 何もしないことを良しとするなら、それは死人と同じではないか。


 違う、とここでは書いておきたい。

 何かに対して感動すること……その、ゆったりとした時間に身体をまかせるということ、それ自体は決して、死人とは違う。


 無であるが、無ではない。――四句否定、テトラレンマ。


 時にこうした思考に身を任せるのは、決して悪いことではないだろうと思う。


<了>

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