書くことからは逃れられない

◇ご無沙汰となってすみません


 ほぼ、前回の投稿から1年がたとうとしている。


「エタる」という言葉が、投稿サイト界隈ではよく聞く。

 エターナル、永遠に、……「伝説に残る」的な良い意味ならいいが、要は永遠に更新されなくなるという意味のようだ。

 一つ言い訳を書かせて頂けば、本連載を忘れていたというわけではなかった。またその間、何も書いていなかったわけでもなかった。

 ただ、実生活において、今年の3月ぐらいから大きな変化があって時間が……いや、「時間」といってしまえば、老若男女、誰しも時間は無いのであって、言い訳にすらならない。そうではなくむしろ、「思考」を傾けられなかった、というのが原因であった。


 その間、応援コメントなるものも頂いていた。嬉しくて小躍りした。しかし、どのように感謝の意を伝えたらよいか分からない。ので、それは、連載を続けることで示そうと思う。


 しかし、1年がいとも簡単に過ぎ去って、一つ、逆に、実感度合いを高めたことがある。

 やっぱり。

 くだらなかろうが。

 他者にとって役に立たなかろうが。

 短かろうが。

 とにかく、何か書かないと、僕は落ち着かないのだということである。


 もう少しその心性を分析してみると、次のメカニズムなんじゃあないかなぁと思う。


1.人と会って話す(生活をする)

2.新しい考えや知識(事物)に触れる

3.自分の中で新しいスパーク(アイディア)が生じる

4.その場で上手く表現できない

5.文章を書こう


 3.と4.において、その場でスムーズにアウトプットができる人は、あんまり文章を必要としないのかもしれない。


 ということで、今回の記事では、タイトルの通り、どんなときに人(僕)は文章を書きたくなるのか、について徒然書いていきたい(リハビリもかねて……)。




◇インプット型とアウトプット型人間


 これは、僕の思考の師匠が言っていたことだが、人は二種類のタイプがいるのだという。

 一つはインプット型人間。内面重視型である。

 もう一つは、アウトプット型人間。表現表出型である。


 どっちが良い悪いということではない。さらに、100対0でその傾向が分かれるというものではない。人それぞれ、どっちかの傾向がある、ぐらいに考えておけばよい。


 上の小見出しの3.~4.の消化不良が起こらずに、ほぼ100%発散できる人は、きっと、家に帰って文章を書きたいなどとは思わないはずだ。

 ――と書くと、僕はすぐさま自分に対して疑問を呈する。

「え、でも、『体験したことをもっとみんなに知ってもらいたい』と、ブログとかフェイスブックを書いたりする人おるんじゃない」

 と。

 確かに、そういった人もいるだろう。SNSなどが流行しているのも、そうした共感共有のためであるといえるだろう。


 ただ、それは、自分の体験の表現であって、「思考」という表現ではないのではないか。思考の表現たるエッセイやブログというのは、対面的コミュニケーションでなのではないか。


 だから、この作品のようなエッセイや、ブログってのは、どちらかというと、インプット型人間に適している媒体だと思う。

 人との場において、全部が全部、自分の気持ちを発散できる(※)人は、わざわざ面倒くさい文章なんて書かないだろう。


※大事な注釈。その発散とは、「自分の表現を他者に分かってもらえた」という実感および主観的な意味が強い。



◇書けなくなる時とは


 逆に、文章を書けなくなる時とはどんなときだろうか。


・忙しいから(仕事・遊び(お出かけ、ゲームなど))。

・自分の表現が上手くできているから。


 大きくは、上の二つが挙げられる。

 前者は、まぁ、物理的な時間が相対的に少ない状態、といえるだろう。やらねばならぬことが明確に迫っているときに、敢えて思考をし、文章を書くことは少ないだろう。

 だが、後者は、必ずしもそうといえるのだろうか?


 それを考える前に、自分の住環境についてメモしておきたい。


 部屋が汚くなっていた。この汚いというのは、清掃(ほこりが溜まっている)面と、整理整頓(物が散らかっている)面の両者であった。

 最近気づいたこととして、部屋が汚いと、やっぱり気分がよくないのである。清掃面においては、ある程度の期間でやっていたものの、整理整頓面の影響が大きいと思った。

 なんか落ち着かない、なんかイライラする、なんかやる気が起きない、なんか朝起きられない……これらの原因は、住環境に一因があると思ったのだ。


 ので、清掃・整理整頓を実施。

 今、コーヒーを淹れて、少し落ち着いている。

 コーヒーを淹れて、といっても、豆を焙煎し、ミルで挽いて粉にして、じっくり数十秒蒸らしてから、お湯を「の」の字に注いでいく……なんてことはなくて、「タイガー」のコーヒーメーカーに、豆と水をセットしてスイッチを入れるだけで特に風情はないのであるが……。


 そういえば。ある友人がいっていた。

「部屋が汚いから精神状態がよくないのか、精神状態がよくないから部屋が汚くなるのか」

 と。

 この、コロンブスの卵(にわとり先? 卵先?)論は、この場合どっちなんだろうか……。とにかく、住環境の状態というのも、文章を書くということへの影響は少なからずありそうだ。



◇文章を書きたくなる時


 ちょっと話がズレてきたので軌道修正。


 あー、その、「上手く表現できないこと」「何か他者と違うこと」が生じることによって、何か書きたくなる、というのはその通りだと思うが、僕の場合は、それだけではない、という結論にもっていこうと思っている。


 ええと、「他者」というのは、僕は、「自分自身も含まれている」と書きたかった。つまり、別に外に出なくても、人と話したり関わったりしなくても、書きたくなる時は存在するものだよね、と。


 例えば、本や、誰かのブログや作品を読んだとき。

 ニュースを見たとき。


 そんなとき、何かこう、得体のしれないイライラ感や、焦燥感に襲われることがある。



◇時間の感じる単位について

 

 それにしても。

 一週間はあっという間である。

 昔、社会人という存在になってからしばらくして、「一週間の単位」について愕然としたことがあった。若いころは、一日、一日が単位だった気がする。社会人は、一週間程度が単位な気がした。

 今は、それがさらに加速して、1か月ぐらいが、単位として感じられている気がする。


 この「単位」とは、時間経過を認識する期間である。確かに24時間が一日で、寝て起きて食べてを繰り返すわけであるが、それらが、ひとまとまりになったような感覚がある。それが単位である。経験単位とか、感覚単位とか言い表そうか。なんだか適当な言葉が浮かばないので、単位というのは造語である。


 以前にもまして、感覚単位が実時間に対して長くなった、ということである。


 そして、このことは、「書く」という行為がなくなったとき、更に加速する。


 具体的な時間を書くと忙しい自慢のようでイヤだけれど、後から読んだときに感覚として伝わるように書くと、23時を過ぎて帰ってくることが多い。土日も、予定が埋まっていることが多い(個人で完結する用事ではなく、人と関わる予定)。


 まぁそうすると、実際は、書く時間なんて取れないのである……というと嘘であり、睡眠時間を6時間程度確保したとしても、物理的な時間は十分にあるのである。

 ある……のだけれども、この「書く」というのは、ある程度の「精神的余裕」がなければ成し遂げられない。



 とはいえ一方、僕は、ローカルな日記や、ブログなどに、毎日のように長々と文章を書いていたことがあった。それは、「精神的余裕」なんてなかったはずだが、けれども、逆にその無さゆえに、ゼロ秒思考(あんまり考えず、頭に浮かんだことをアウトプットする)によって書いていた。

「『ゼロ秒思考』って、思考してないじゃん」と感じるが、ここでいう思考とは、「頭に浮かんだこと」という意味であって、その浮かんだことを間髪入れずに「文字化」するという作業、それが「ゼロ秒思考」による文章である。


 なんでこんなことをするかというと、「得体のしれないイライラ感や焦燥感」で、とにかく落ち着かなかったからである。



 では最近は、そういった感覚がなくなったのか?

 否である。


 僕が抱える問題は、何ら解決していないと思う。

 その問題というのは、この作品タイトルそのものである。

 だから、喫緊に考え、解決しなければならないのだ。


 ところが、体の疲れだったり、精神的な疲れだったりが相まって蓄積してくると、もう書くことというか、考えることが、とてつもなく面倒になってくる。


 静かに消えてなくなりたい……というのとは少し違う気がするが、「何もない時間」を欲していると思う。全然、書いていて楽しくない。――つまり、いまは、「書かなくていい期間」なのかもしれない。


 が、冒頭に書いたように、感覚単位が恐ろしく早くなっているため、いったん、今日は何とか、たとえ何時に帰ろうが、なんでもいいから書こうと思ったのだ。




 ああ……しかし、こうやって「ゼロ秒」的に書いていて、分かった、気がする。

 なんというか、「こういうことを書いたら(言ったら)こう思われるだろうな」的な思考回路が先に進みすぎて、なんだか何も書きたく(言いたく)なくなってしまうのだろう。

 これは、対面のコミュニケーションにおいても、ついつい相手の考えていることなどが気になってしまう人は分かるのではないだろうか。


 100人いたら、90人は知っている事柄があったとしても、自分が対面した人が、その知らない10人だったとしたら、その事柄についての話はとても興味深いものかもしれない。


 コミュニケーションっていうか、人との関係って本当はそういうものなんだと思う。一回性と唯一性というのは20世紀に活躍した精神科医フランクルさんの言葉だけど、本当にそうだと思う。


 それにも関わらず、「こうやって思われたい自分」というのを、無意識に醸成して、それで上手く話せなかったり、表現できなかったりしている気がする。もっといえば、僕は「いい人」と思われたがっているのではないか?


 以前、ある人に悩みを打ち明けた……というと、表現がどうにも気に食わない。「人の生きる意味について語り合った」とでもいおうか。その話の流れで、「お前は頑固な人間だ」というのと、「人の話を聞かない」と言われた。


 頑固、という表現は、ある程度親しくなった人に、笑いながら、あるいは真顔で言われることが度々あるので、まぁ、他者からみたらそういう人間なんだろうなぁと自分でも思うようにしている――が、僕の中では、全然そんなこと思っていないのである。――という表現がまさに、頑固で、人の話を聞かない、と言われる所以だとも思っているのだが。


 そうそう、ある人には、「お前は、結局納得してないんだろ」とか「わかってないんだろ」とかも言われたことがある。結構傷つく(かっこ笑い)。


 頑固ってなんだ? 人の話を聞かないって何だ? 「わかる」ってなんだ?


 まぁ、その、なんだろ。

 僕は、やっぱり、いいひとでありたいと思う。善人でありたいと思う。みなと仲良くしたいと思う。


 これらは真に、心から思うのであるが、その良いだとか善いだとかいう、その感覚が、結局多様であると思っている。

 僕は、「真に」、普遍的に「良く」ありたいと思う。


 ただ、それは、子供じみた空想であるともわかっている。人は、一回性と唯一性の中で、折衷主義といわれようが、たゆまぬ不断の努力によって、よい生き方を模索し調整しながら生きていく必要があるのである。


 ――というような、一般論的なのが、どうしても腹立たしいのだ。

 どうしろっていうのだ?!

 そして、「どうすればいいんだよ!」というと、「それを『考える力』を養って、一人ひとり考えていかなければならないのです」とか言われるわけだが、それが輪をかけて腹立たしいのである。


 僕は、考えることは好きだが、考えることだけで実践――生活、現象がなければ意味がないと思っている。そして、一般的な真実が、必ずしも個人としての、実存としての真実でもないと思っている。


 ……ああ、いろいろ、ようやく言葉が戻ってきた。カオスな感じでまとまらない感じ。論理的に、分かりやすい構成にしようとすればするほど、つまらなく、気力が失われていくあの感じ。言葉が思考スピードを凌駕し、その奔流で身動きが取れなくなるあの感じ。

 ゼロ秒思考が戻ってきた!!


 ――しかし今日は終わる。



◆蛇足というまとめ

(書けなくなる時)

1.忙しいとき

2.上手くアウトプットできているとき

3.住環境がよくないとき

4.「いい人」になりたくなったとき(こう言ったら(書いたら)こう思われるとか気にしすぎてしまうとき)


(書きたくなる時)

1.精神的余裕があるとき(ただし、逆に精神的余裕が無さ過ぎて、イライラしているときは無性に書きたくなるときがある=ゼロ秒思考アウトプット。このときは、逆に「いい人になろう」といった感覚と失われるため、思考が濁流となってアウトプットされていく)

2.上手く表現できていないと感じるとき

3.何か「作品」に触れて心が動いたとき


(補足)

インプット型の人間は、十分に自己を表現できないことがあり、僕は、インプット型の傾向があると思う。


結論:だから、僕は、書くことからは逃れられない。

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