第25話 喪失

 次第に凍結しつつある肉の壁に強靱な爪を引っかけ、雪兎は闇の中をがむしゃらに突き進む。


 真白く凍えた息を吐きつつ悴んだ手足に精一杯力を込め、目指す先はただ一点。


 手が届くかもしれない幼子の元へ一刻でも早く向かうべく、雪兎はただひたすら肉を抉り続ける。



「ヴィマ、僕はまだお前を諦めたくないんだ」



 何があったのかは分からない。


 そして、この事態が円満に収束してくれるという期待は最初からしていない。


 それでも、未だに乗っ取られず自意識を保ち続ける自分という先例があることをだけを希望に、雪兎は気配の根源へと到達すると、そのまま爪を振るい始めた。


 肉壁の繊維に沿って一撃、また一撃と斬撃を加え、慎重に掘り進む。


 凍った血や肉片が身体に張り付くのも厭わず、ただひたすらに。



「でなければ、僕はお前を殺さなければならない。人としてでは無く、忌むべき畜生の類として」



 ヴィマラの気配が濃くなるに従って、雪兎の心を希望と不安という相反する感情が覆い尽くしていく。


 はたして人として生きているのか、それともただ医学的に死んでないだけなのか。


 その答えはここにしか無い。



「頼む、まだお前であってくれ!」



 ありったけの願いと共に、雪兎は筋肉と脂肪の鎧を強引にはぎ取り、最後に残された神経繊維の壁を切り開く。



 だがその瞬間、雪兎の顔から生気が消えた。



「ヴィマなのか……お前が……」



 膝を抱くような姿勢でうずくまった人型の肉塊の前で、雪兎はショックの余りに小さく息を飲む。自分とは比較にならないほどの範囲を侵蝕され、人として残された部分は顔の一部のみ。


 原型など、ほぼ無いものであると言い切るには十分な無惨さであった。


 だが、雪兎はぎこちない笑みを浮かべると、ヴィマラの気配がする物に声をかける。



「迎えに来たぞヴィマ。 帰ろう、これ以上戦う必要は無い。


 僕は何があってもお前の味方なんだ。 お前が傷付く必要なんて無いんだよ」



 人としての意志が残っていることすらも分からなかったが、それでも雪兎は僅かな可能性を信じて、普段と変わらぬ態度で接し続ける。


 すると、一拍の沈黙を置いて聞き慣れた幼子の声が洞穴の中に小さく響いた。



「やっぱり優しいねお兄ちゃん。 でも駄目だよ、お兄ちゃんのお願いでも駄目なのは駄目なの」


「……何故だ、僕はただお前に生きて欲しいだけなのに」



 返事をしてくれたと内心喜ぶも束の間、紡がれた拒絶の言葉は希望を抱きかけていた雪兎を一方的に打ちのめすも、ヴィマラは構わず言葉を続ける。



「わたし、全部思い出したの。


 なんであの場所で一人だったのか。


 なんで私の身体にもう一つの命があるのか。


 そして、なんでこんな都合良くお兄ちゃんに会えたのかを」


「何だと!?」



 喜んだり、悲しんだり、驚いたりと目まぐるしく表情を変える雪兎。


 そんな正直な馬鹿の顔に穏やかな視線を向けながら、ヴィマラは胸の前に組んだ手を固く握る。



「すべてはこの星の未来の為、お兄ちゃんの進化を促す礎となる為にわたしは産まれた。


 お兄ちゃんにこの血肉を捧げ、憎しみを以て殺される事で、世界樹以上の存在へ高める為に」


「訳の分からないことを言うな!お前はこれからも僕達と一緒に生きるんだ!」


「……それは、わたしがやろうとしたことを知ってからでも言えるの?」



 拳を握って感情的に怒鳴る雪兎相手に一切怯むことなく、ヴィマラは足元の肉に手を突っ込むと、そこから何かを手繰り寄せ、抱きかかえた。


 困惑する雪兎の視線に晒されたのは、大きく細長いゲルの塊。


 それは、外気に触れたことをきっかけに粘液へと変化し、その中心にあったものを剥き出しにする。


 身に付けていた物を余さず消化され、艶やかな肌を惜しげもなく露わにした哀華の姿を。



「哀華さん!?」


「そう、私がお兄ちゃんに殺される事と共に担わされた使命は、お兄ちゃんの憎悪を得るために大切な者を奪うこと。 でも、私にはそれが出来なかった。私にとってもお姉ちゃんは大切な人だったから」



 意識を失った哀華の頬に己の頬を擦り寄せながら、ヴィマラは悲しげに笑う。


 そして哀華を引き渡そうとするかのように腕を伸ばし、雪兎もそれに応じてとっさに右腕を伸ばした。


 哀華の影から、確固たる殺意が込められた触手を差し向けられているなどとは露にも思わず、雪兎がそれをようやく察知したのは哀華の身体を受け取った瞬間。



 受けも避けも出来はしない、決定的かつ致命的な隙。



「なっ……」



 気付いた時には既に脅威は目と鼻の先で、残された道は眼球を突き破られ脳を破壊される末路のみ。


 だが、雪兎の身体に宿るもう一つの命はその結末を良しとはしなかった。


 反射的に目を閉じた雪兎から権限を奪い、勝手に動き出した左腕は飛来した触手を易々と切り落とすと、返す手でヴィマラの心臓を抉り抜き、そのまま握り潰した。



 そこに雪兎の意志が介在する猶予など無く、止める暇などなかった。


 恐る恐る目を開いた雪兎にもたらされたのは、ぬめった生々しい感触と単純な絶望のみ。



「馬鹿野郎馬鹿野郎!何故こんなバカげたことをした!」



 己の半身だけで無く、無謀な事をしたヴィマラにも問いただすように、雪兎は半狂乱になって叫んだ。鮮血を浴び、真っ赤に染まった身体を拭うことすら無く、ヴィマラの小さな身体を支えてやりながら問い続ける。 まるで世界の終末を実際に目にしたかのような凄まじい形相をして。



 そんな雪兎の狂乱ぶりなど意にも介さず、ヴィマラはただ淡々と語り続けた。



「これで良かったの、こうなる為にわたしとお兄ちゃんは出会ったんだから。


 だからねお兄ちゃん、絶対に彼を恨んじゃダメだよ。


 だってその子は、お兄ちゃんの代わりに重荷を背負ってくれたんだからね」



 栄養の循環が停止し、見る間に腐れながら溶け落ちていくヴィマラの身体。


 最早痛みを感じることさえも出来ないのか、片方の眼球が落ちても彼女は頓着すること無く、己を貫いた銀色の手を一撫ですると、残された目を雪兎の方へと向ける。



「さよなら、私が大好きだったお兄ちゃん」



 避けられない破滅が迫っている事を身をもって知っているにも関わらず、ヴィマラは屈託も無く微笑み、最後の力を振り絞って筋肉が露出した細腕を雪兎の元へと伸ばす。



 紛れもない人間の証である真紅の血を纏った小さな手。


 それは雪兎の顔に触れた瞬間、その肌に紅い線を描きながら力無く垂れ下がり二度と動かなくなった。



 永遠に、永遠に動かなくなった。



「あ……ああ……」



 絶命し、ただの物となったヴィマをきつく抱き締め、雪兎は言葉にならない嗚咽を洩らしながら力無く膝を落とす。



「ヴィマ……僕は君を……。 死なせたくなんかなかったのに!!!」



 守るどころか逆に命を奪ってしまった己の惨めさ。


 ヴィマと過ごした穏やかな思い出が雪兎の心を責め苛み、堪えきれなくなった激情が大粒の涙となって頬を伝う。


 しかし、ヴィマとの別れという辛い現実から目を背けていた訳では決して無かった。心苦しく思いながらも、ヴィマの身体が完全に溶けきり消滅する様子を最後まで責任をもって見届けると、泣き腫らした目をしっかりと開き、確固たる決意を抱いて己の左手を握り締める。



「……君が居なかったことになんてさせない。


 墓が無くとも、子を残せずとも、君が居たという痕跡だけは遺せるんだ!」



 狂気に冒されたかのように尋常では無い雰囲気を醸し出しながら雪兎は立ち上がり、顎が砕けんばかりに牙を噛み締めると、ヴィマの血にまみれた左手の爪を自らの顔面に深々と突き立てた。



「ぬおあああ!」



 肉と皮膚が裂かれる痛みに絶叫し、大量の血を零しながらも雪兎は突き立てた爪を抜こうとはしない。


 これが己が犯した罪の証だと示すかの如く、ヴィマの指が撫でてくれた部分を最後まで斬り裂き、二度と癒えない傷をしっかりと刻みつけた。



「この傷は、君がこの世で生きていたという何よりの証だ……。


 僕がこの傷を抱いて生き続ける限り、君もずっと生き続けるんだ!


 僕の中でずっと、ずっと……!」



 血と涙の痕を乱暴に拭き上げ、名残惜しむかのように雪兎は呟く。


 そして自分を落ち着かせる為に一度深呼吸をすると、哀華の粘液まみれの肢体を素早く抱え上げた。



「帰りましょう、僕たちのあるべき日常へ」



 別になんという事は無い。


 ヴィマラと出会う前のいつもの生活に戻るだけだと哀華の耳元で呟きながら、凍結を開始した肉の洞穴から離れようとする。


 しかし、何時か認識した記憶のある違和感を覚えると同時に、雪兎の全身から力が抜けていく。



「これは……奴等の時と同じ……」



 雀蜂、そして芋貝の怪物へと身を窶した男等の時と同じく、自動的に再生され始める記憶の奔流の中へ、雪兎はなす術無く放り出されていく。


 激痛の余りに瞼を閉じた雪兎の視界に流れるは、生前ヴィマラが決して語ることが無かった苛烈な迫害の記憶。



 大人とグルになって一方的にヴィマラを痛めつける身なりの良い糞ガキ共。


 何故かそいつ等の肩を持ち、決して助けてくれない教育者達。


 暴徒に襲撃され、文字通り車裂きにされる両親と親類と思しき人物。


 遺産を毟られ、家を焼かれ、路肩に放り出され、ありとあらゆる欲望に晒された絶望の日々。


 良いことなど数えるほどにしかなかった悲しき人生の記録。


 そしてそれを嘲笑う外野の連中の醜悪な態度が、雪兎の心を昂ぶらせ深い怒りを抱かせる。



「何故だ……、こんないたいけな子供に何故こんなことを……」



 今すぐにでも下手人と傍観者共を皆殺しにしてやりたい衝動に駆られ、低い唸りを漏らす雪兎。


 だが話はそれだけに終わらず、一際鮮やかに残った記憶の残骸が雪兎の心を捉える。


 それはヴィマラが記憶を失う前に行った最後のやりとり。


 雪兎もよく知っている隻眼の老人との短い会話だった。



「すまないな、お前のような子供にこんな重責を背負わせてしまって。


 だが、このまま何も残せずに死ぬよりは幾分かマシだろう」



 西日を後光のように背負い、終始尊大な口調で語り続ける老人。


 彼はヴィマラと顔を見合わせると、バツの悪そうな顔をして見苦しく弁明する。



「そんな渋い顔をしてくれるな、こんな非道な行いは儂としても不本意なことなのだよ。


 しかしな、あの忌まわしい樹を確実に葬る為にもこの蠱毒をあの坊や以外に勝たせる訳にはいかん。


 たとえ悪魔に魂を売ってでもこれだけは譲れんのだ」



 不満げに頬を膨らすヴィマラを宥めつつも、老人は己の主張を曲げること無く押し着せる。


 そしてヴィマラの前に跪き、彼女と目線の高さに合わせると、僅かに顔を伏せながら切り出した。



「お前の復讐の願いは我が財閥の力を以てして確かに叶えた。


 故にその対価として、この星と人類の未来の為に……」



 ―――死んでくれ



「!!!」



 ヴィマラに告げられた死を願う言葉。 それは一度は静まった雪兎の激情に再び火を灯す。この会話の前後で何があったかは知らないが、今の雪兎にとってそんなものはどうだって良かった。今何よりも重要だったのは、自分がヴィマラを殺すまでの絵図を描いたのが鰐淵翁本人であったこと。



 そしてその本人が今ものうのうと生きていることだった。



「決まっていたことだと?痛めつけられ、踏み躙られ、殺されることがこの子に定められた役割だっただと!?そんな馬鹿なことがあるか!この子はようやく普通に生きていけるようになったかも知れないんだぞ!!普通の子供のように、未来に希望を持って生きていけたかも知れなかったんだぞ!!!」



 彼女が死ななければ無かった理由があまりに突飛で受け入れられず、雪兎は血と汗と涙を見苦しく撒き散らしながら、あらん限りの激情を込めて絶叫した。


 生きること。 そんな最低限のことすら許されなかったヴィマラに対する哀悼と懺悔の気持ちが肉の迷宮内に木霊する。



 そして、深い悲しみの感情は著しい反転を遂げる。


 身を引き裂くほどの悲しみは怒りを通り越して憎悪に。


 身体中に満ち溢れる感情のエネルギーは総じて殺意に。


 理性の底に封じられた衝動は呪いとなって、雪兎を報復の為だけに突き動かし始めた。



「このまま虚仮にされたままでたまるか……。


 あの子の安らかな眠りの為にも思い知らせてやる」



 心の底までドス黒い感情に呑まれ、衝動のままに殺気を迸らせる雪兎。


 それに呼応するかのように左腕だけを形成していた獣血が全身に廻り、その身体を瞬く間に異形の生物へと変異させる。



 鋼鉄よりも硬い鱗に覆われた破壊の使徒。


 それは人外の咆哮を上げると周囲の肉を纏めて斬り飛ばし、高々と身を跳ね上げた。


 殺してやる、殺してやると繰り返し呪詛をまき散らしながら。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



『……!?』



 その頃、カルマは目の前で起きた出来事に驚愕していた。


 自らは何の手も下していないにも関わらず、敵の肉体が崩壊していくことに。


 何も前触れもなく巨大な肉塊の上半身が切り飛ばされ、ばら撒かれた肉片と血潮が地に還っていく。



『そうか……終わったのですね……』



 恐らく雪兎自ら決着を付けたのだろうと、カルマはヴィマラの冥福を祈る。


 自分が人外の存在だと分かっていたにも関わらず受け入れてくれた数少ない人間の一人。かけがえのない理解者だと自信をもって言えた人物の喪失に、カルマは表情を曇らせ俯いた。



『ヴィマ……』



 もう二度と会うことも無い少女に思いを馳せつつ、雪兎の帰還を辛抱強く待つ。 だが、巨大な肉塊の中を一つの熱源が猛烈な勢いで掘り進んだ挙句、派手に肉片を飛び散らせながら跳ねたを視認すると、ただでさえ曇らせていた表情をさらに悲しげに歪めた。



『面白くもないジョークです。 こんなことあってはならないというのに!』



 雪兎の物であって雪兎の物で無い生体反応。


 それを探知した瞬間、カルマは何が起こったのかを把握し雪兎に接種されたナノマシンの自爆プロセスを迷わず作動させる。



 刹那、耳を劈く爆音と共に、夜空に艶やかな炎の華が咲いた。



『腹の中から焼かれて生きていられる生物なんて存在しない。


 あの時の約束は違えずに果たしましたよ、ユーザー。


 貴方がありのまま望んだ通りに……』



 どう足掻いた所で結局こうなる運命だったのだと自嘲し大量破壊兵器たる己の存在を呪いながら、カルマは一瞬悲しげに項垂れる。


 ――が、巨大な熱源の中で未だに蠢き続ける存在を再び検知すると動揺を露わにしてコックピット内に立ち上がった。



『そんな馬鹿なことが!?』



 カルマの言葉が終わらぬうちに爆炎を引き裂いて現れたのは、裸の哀華を胸に抱いた消炭色の半竜人。


 絶えず血涙を流し続けるそれは、体内をナパーム弾以上の火力で焼き付くされたにも関わらず平然と活動を続行する。


 近づくだけで強い痛みを感じるほどに禍禍しい殺意を漲らせ、地平の彼方を睨みつづける化け物。


 それはヴィマラの血と粘液に濡れた哀華の肢体をドラグリヲのコックピットの中に放り込むと、そのまま街の中心へ脇目も振らず跳躍していった。



『ユーザー……、貴方までこんな……』



 素肌が露出した哀華の身体にスーツを着せてやりながら、一人残されたカルマは呟く。


 今まで他人に見せてきた、疑似人格システムから生成された見せかけだけのパターンでは無い本当の悲しみに、あるはずの無い心を打ちひしがれて。

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