第15章 勇気ある戦い

 翌朝。理真りま、私、降乃ふるの刑事は、麻矢子まやこを伴って朝早くに有井ありい家を出た。

 麻矢子の顔色は優れなかったが、事件に関して重要な話がある、と告げると、黙ってついてきた。

 十数分覆面パトを走らせ、目的地に着いた。その間、車中では誰ひとり口を開くものはいなかった。降乃刑事はハンドルを握り、助手席では理真が正面を見据えて視線を動かさない。後部座席の麻矢子は窓の外にずっと顔を向けていたが、その沈んだ目に景色が映っていたかは疑問だ。私も三人の様子を見たまま、黙って車に揺られていた。



 道路の隅に車を停め、全員が降車した。理真を先頭に私たちは、背の高い塀に開けられた出入り口を抜けて中に入る。通常であれば警備員が立っているのだが、まだ就業前のためだろう、私たちは誰にも止められることなく中に入ることが出来た。この出入り口もその日の作業が終われば施錠がされるはずだが、鍵が開いていることは確認済みだった。私たちよりも前に、ここを解錠して中に入った人物がいたことを見ていたから。その作業着姿の人物は、ちょうどプレハブ事務所のドアに手を掛けたところだった。

 現場内に敷き詰められた鉄板を踏む、私たちの足音が耳に入ったのだろう。作業着の人物、真鍋次郎なまべじろうは振り向いた。


安堂あんどうさん、江嶋えじまさん、刑事さんに……有井さんまで」

「真鍋さん、ちょっと、お話いいですか」


 真鍋以外、まだ作業員はひとりも出てきていない。冷え込んだ朝の空気が張り詰めている工事現場に、理真の声が響いた。

 私たちは事務所に通された。長机を挟み、理真と真鍋は対面する形で座る。私は理真の後ろに、降乃刑事は出入り口側の真鍋の横に、麻矢子は少しだけ距離を取って理真の隣に座った。


「真鍋さん、月曜日の早朝に起きたことを話してくれませんか」


 理真が言うと、真鍋は、びくり、と体を震わせた。一瞬だけ顔を上げたが、その視線は理真の目までは届かず、喉元辺りにまで達したところで再び机の上に落ちた。


「月曜日の早朝って……も、もうお話ししたじゃないですか。誰も怪しい人物は目撃していませんって……」


 真鍋が答えると、理真は、


「それでは、訊き方を変えましょう。真鍋さん、あなた、古橋さんの転落死体を移動させましたね」


 真鍋が椅子が鳴るほど体を揺らし、麻矢子は「えっ?」と小さな叫びを発して両手で口を覆った。真鍋が全く答えないためか、理真は、


「真鍋さん、では、私の口から、あなたの月曜日早朝の行動を言いましょうか。真鍋さん、あなたは月曜日の早い時間、午前五時前、ひとりでここに出勤してきました。工期が押しているため、実作業は出来なくとも、溜まっている書類仕事を片付けるためです。現場が始業する前の準備などもあったのでしょう。出入り口の鍵を開けて現場に入った真鍋さん、あなたは、そこでとんでもないものを発見してしまいます。古橋さんの転落死体です」


 真鍋が、はっ、と息を飲んだ。


「ふ、古橋くんの死体?」麻矢子が震える声で口を挟み、「どうして? 古橋くんは、あの工場の煙突の下で……」


 理真は顔を横に向け、一度麻矢子の目を見て、


「古橋さんの死体は確かに煙突の下で発見されました。ですが、実際に転落したのは煙突からではありません。隣のホテルグリーンパーク柏崎かしわざきの610号室の窓から転落死したんです」

「その部屋って……白浜しらはまさんの……?」


 麻矢子は再び口元を手で覆う。


「そうです。そして、古橋さんは白浜さんを刺殺した犯人でもあります。時系列はこうです。日曜日の夜、古橋さんは白浜さんの部屋を訪れ、白浜さんをナイフで刺します。そのとき、抵抗した白浜さんと揉み合いになったのか、人を刺したことに動揺したのか、それにより我を忘れての衝動的な行動という線も考えられます。とにかく、古橋さんは白浜さんを刺したあと、部屋の窓から転落、死亡してしまったのです。

 部屋に残された白浜さんは、ですが、まだ息がありました。ベッドに倒れ込み、腹部の傷口を押さえ出血を止めようとしながら即死してはいなかったのです。とはいえ、傷口の痛みと出血のショックも重なったのでしょう。白浜さんはベッドに倒れたまま、指一本動かせなかった。大声を出したり、電話で助けを求めることも出来ない状態でした。途中で意識を失ったかもしれません。白浜さんが絶命したのは、夜も明けて月曜日の午前九時になってからでした。

 一方、時間を少し戻し、月曜日の午前五時前、先ほども言いましたが、真鍋さんは現場に来て古橋さんの死体を発見します。ホテル610号室の窓から転落したら、すぐ隣のここ、工事現場に落下します。本来ならば警察に通報するのが市民の義務ですが、真鍋さん、あなたはそれを怠った。ばかりか、古橋さんの死体を現場から持ち出した」

「どうしてそんなことを?」


 麻矢子の声は、理真と真鍋、両者に向けて言い放たれたようだった。真鍋は俯いて体を震わせたまま。答えたのは理真だった。


「これ以上、工事を止められない。そう思ったんですね?」


 真鍋の頭が揺れた。それは首肯だったのか、ただ単に体の震えだったのか。分からなかった。


「で、でも、理真ちゃん」と今度は降乃刑事が、「古橋さんの死体に動かされた形跡はなかったって……」

「そう。検死による死斑の状態などから、『死体に動かされた形跡はない』これは確かでしょう。でもそれは、『死体が死んだ状態のまま動かされていない』ということであって、死体が『移動していない』とイコールではない」

「ど、どういうこと……?」

「古橋さんは、窓からこの工事現場に転落しました。でも、地面に直接落下したわけじゃない。古橋さんと地面との間は、あるもので隔てられていました」

「あ! 鉄板!」


 私は小さく叫んだ。降乃刑事も、あっ、と声を上げ、真鍋はことさら大きく体を震わせた。


「そう。古橋さんはこの現場内に敷き詰められた敷鉄板の上に落下したのです。


 真鍋さん、朝早く現場に出勤したあなたは、現場内に古橋さんの死体を発見します。死体が倒れていた場所は、隣接するホテルとの境ぎりぎり。ホテルを見上げて、死体直上の六階一室の窓が開いているのを見て、真鍋さん、あなたは状況を察した。原因は分からないが、古橋さんはあの窓から転落したに違いないと。

 あなたにも多少の法医学知識はあったでしょう。不可能犯罪などの殺人事件を題材にした小説やドラマ、映画はあらゆる場所で目にしていたでしょうから。古橋さんの死体を現場から動かしてしまいたい。でも、死体を動かせば、検死で間違いなく看破されてしまう。そこであなたは、死体の落ちた敷鉄板ごと、地面ごと死体を動かしてしまうことにしたのです。古橋さんの死体が載った鉄板の四箇所の角に何か吊り具を付け、現場にあるクレーン付トラックで吊り上げて荷台に載せた。

 ですが、死体を現場から離れた場所に捨ててそれで終わり、とはいきません。現在の法医学なら、古橋さんの死因まで完璧に暴いてしまうかもしれない。それはすなわち、ホテル六階に相当する高所から転落して死に至った、という死因まで暴かれるかもしれない。たとえば、何の変哲もない空き地に死体を放置したら、間違いなくおかしいと勘ぐられてしまう。死体はホテル六階程度の高さからの墜落による死、とみられるというのに、付近にそんな高層な建物がない。明らかにおかしい。この齟齬を埋めるにはどうすればいいか。同じ高さの何かをみつけ、その下に死体を転がしておけばいい。ホテルの六階高さは約二十メートル。この付近にそれと同高度で、しかも死体を置いても怪しまれないものといえば、ひとつしかなかった。廃工場の煙突。ここから数キロしか離れていない。現場の就業前に死体を置いて戻ってくることも十分可能な距離です。

 真鍋さん、あなたは慎重にクレーンで鉄板ごと死体を吊り上げます。鉄板は常に水平に保つ必要があります。傾いて死体が転がり落ちたら終わりだからです。あなたは首尾よく死体ごと鉄板をトラックに積み込みました。あとは煙突まで行き、死体をその真下に置いてくるだけ。ちなみに、朝食当番のホテル従業員が、午前五時過ぎにこの現場で機械が動いたような音を耳にしています。それは真鍋さん、あなたがクレーン付トラックを動かしている音だった。付け加えて、それより前に就寝していた従業員がホテルの外で何かの物音を聞いています。それは恐らく、古橋さんが窓から転落したときの音だったのでしょう」


 理真はここでひと息入れた。真鍋は相変わらず小刻みに体を震わせ、麻矢子は絶句したまま、小さくなった真鍋の体を見つめている。


「真鍋さん、ここまでで、何か言うことや反論はありませんか?」


 理真が声を掛けるが、真鍋は何も反応を示さない。「では」と理真は先を話し始める。


「トラックを走らせて廃工場まで来た真鍋さんでしたが、煙突の真下までトラックを入れることは出来ませんでした。車両が唯一出入りできる門は、常時施錠がされているためです。やむなくあなたは、煙突にもっとも近い道路上にトラックを停めます。道路と工場敷地を隔てるフェンスから煙突の真下までは約6メートル。真鍋さん、あなたはそこからフェンスを越えて古橋さんの死体を置くことにしました。現場で吊り上げたのと同じ要領で荷台から死体の載った敷鉄板を吊り上げます。そして、クレーンを旋回させて煙突の真下まで鉄板を運びます。私は昨夜遅くに隣のホテルに入れてもらい、窓からここで使われているクレーン付トラックの機種を確認しました。その機種の性能ぎりぎりでしたね。真鍋さん、あの道路から煙突の真下に鉄板を吊り下ろすには。

 具体的に言いましょうか。トラックを停めた道路の幅が4.5メートル。ああいったクレーン付トラックは、〈アウトリガー〉と呼ばれる車体側面に突き出す脚を出さないと最大の能力は発揮出来ないそうですね。そのアウトリガーを張り出すと、車体の幅は約4メートルになります。なるべく煙突との距離を縮めたいため、煙突側のアウトリガー位置をフェンスぎりぎりになるようトラックを道路上に設置します。これで車体中心から煙突の下までの距離は、アウトリガーを張った車体の半分、2メートル、プラス、フェンスから煙突までの距離、6メートル、イコール、8メートル、となりました。

 次に、このクレーンが吊る物体の荷重はどれくらいになるでしょう。敷鉄板の寸法は正確には、1.524メートル掛ける6.096メートルで、鉄板の厚みは22ミリです。これも確認しました。寸法が半端なのは、フィートをメートルに換算しているためです。ああいった敷鉄板は、フィート単位で作られているそうですね。5フィート掛ける20フィートの寸法をメートルに直すとこういった半端な数字になります。真鍋さんには釈迦に説法でしょうが、我慢して聞いて下さい。この規格の敷鉄板の重量は約1.6トンだそうですね。念のため計算してみましょう。1.524メートル掛ける6.096メートル掛ける、二十二ミリは0.022メートル、イコール、0.204立方メートルという体積になりました。ここに鉄の比重である、7.85を掛けます。すると、1.601トン、約1.6トンで間違いありません。

 ここに古橋さんの体重が加わります。身につけている服などを入れても、70キロ程度でしょう。トンに換算すると、0.07トン、他に、吊り上げるために使う吊り具や鎖などの重量を大雑把に30キロとしましょう。これは0.03トン。全て合計すると、1.7トンになります。この現場で使われているクレーン付トラックのクレーン性能をネットで調べました。1.7トンの荷重を吊り上げられる最大作業半径は、6メートル。トラックの中心から6メートル離れた位置が、古橋さんの死体を載せた敷鉄板を下ろせる最長の距離ということになります。先ほど私はぎりぎりフェンスに寄せたトラックの中心から煙突の真下までの距離は8メートルと言いました。煙突の真下から2メートル道路側に寄った位置、そこにあなたは敷鉄板を持って来ました。

 そこからの作業は輪を掛けて慎重に行います。敷鉄板を一旦工場敷地内の地面に降ろし、煙突側の二箇所の角の吊り具を外します。そうしておいて少しだけ、ほんの少しだけクレーンを上げる。すると、敷鉄板は煙突と反対側の辺だけが持ち上がり、地面に対してスロープを作る形となります。その状態を維持して、真鍋さん、あなたは古橋さんの死体をゆっくりと、鉄板を滑らせるように地面に移させた。死体は転落死した瞬間と同じ状態を保ったままのため、死斑の変化もありません。死体を完全に地面の上に滑らせ、これで死体の移動は終わりました。敷鉄板の上を移動させた分、死体は煙突側に寄ることになります。結果、煙突の真下から約1メートル程度離れた位置に古橋さんの死体は置かれることになりました。死体が発見された状態が完成します。この状況なら、まず、煙突に上ったうえでの転落死と判断されるに違いないでしょう。

 ですが真鍋さん、あなたはそこで死体にもうひとつの処置を施さなければなりませんでした。古橋さんの死体が、白浜さんを刺した凶器をしっかりと握ったままだったためです。事故や自殺に見せかけるためには、ナイフを握った状態の死体というのは絶対にまずい。

 何よりナイフの刀身には、べっとりと何者かの血が付着しています。あなたは古橋さんの右手からナイフを抜き取りました。ですが、すでに死後硬直により、古橋さんの右手はナイフを握った形のまま固定されてしまっていたのです。これでは絶対に怪しまれる。何かこの手に握らせる適当なものはないか。あなたは古橋さんの懐を漁り手頃なものを見つけました。細身の眼鏡ケース。ナイフの柄よりは若干太いですが、細くてぶかぶかになるよりはましです。あなたは眼鏡ケースを古橋さんの右手にねじ込みました。これで死体の移動とその修飾は完了します」


 理真はまたひと息つき、口を閉じた。理真が喋っている間、真鍋は一度も顔を上げなかった。そして、これからも顔を上げる気は、何かを話す気はない、とでも言うように、小刻みに体を震わせる動作も止まっていなかった。理真が口を開く、


「真鍋さん、あなたは古橋さんの懐を漁っている最中に、眼鏡ケースの他にもうひとつ見つけたものがありましたよね。キーケースです。そこで気が付いた。古橋さんが自宅からあのホテルまで行くのに、車を使わなかったはずがない。いくら死体を移動させても、古橋さんの車がホテルの近くから発見されたら元も子もない。あなたはキーケースを持って急いで現場に戻ります。

 古橋さんの車はホテルの近くに停められていたのでしょう。ホテルの駐車場を使ったのかも知れません。あなたは車に乗り込み、現場まで持って来ます。そのまま車に乗って工場の近くに置いておけばよいのですが、そんなことをしたら、今度は現場まで帰ってくる足がなくなります。数キロの距離とはいえ、徒歩となると相当な時間が掛かります。その頃には現場の就業時間となり、他の作業員たちが顔を出すかもしれない。そのときに自分がいないというのはまずい。

 取るべき手段はただひとつ。車も死体と同じようにクレーン付トラックで運ぶしかない。あなたは車を現場内に入れ、敷鉄板と同じようにクレーンで吊ってトラックに積み込み、再びトラックを工場まで走らせました。車を放置する場所は、工場出入り口の門の前が妥当でしょう。道幅があり、車を置いておくには格好な場所です。ですが、そこにはすでに他の車が数台停められていました。数キロ離れた夜間工事現場の職員たちが停めた車です。広かったはずの道は駐車された車で狭められ、トラックが通る程度の幅しか残されていなかったのでしょう。ですが、この際です。古橋さんの車を置くことで完全に道がふさがれたとしても、気にする必要はないと考え、ここで荷台から車を下ろそうとした。しかし、ここで問題が発生しました。トラックの幅ぎりぎりしかない道では、古橋さんの車を下ろすことは不可能だったのです。そうですよね」


 真鍋は、ここで初めて、こくり、とはっきりとそれと分かる形で頷いた。理真の話が佳境に入ったことで、次第に落ち着きを取り戻してきたように見えた。理真も頷いて、話を再開する。


「問題となったのは、古橋さんの車の重量でした。古橋さんの車はミニバンで、調べてみたら車体重量は約2.2トンありました。ここに加えて、古橋さんの車はそのとき、支店に搬送するための本が詰まった段ボール箱を積んでいた。その重量、約百キロ。トン換算で0.1トン。車両重量と会わせて2.3トン。クレーン能力で見ると、この荷重を吊るための作業半径は最大で4.5メートルです。トラックの中心から4.5メートルというと、トラックの左右どちらかにしか車を吊り下ろすことは出来ないということです。

 どういうことかというと、クレーンはトラック運転席と荷台の間に位置しています。荷台よりは当然、運転席のほうが寸法は短い。運転席の寸法は約2.5メートル。クレーン位置から2.5メートル前方に離れれば運転席をクリア出来ます。4.5メートルまでにはまだ2メートルも余裕があります。いけるでしょうか? 駄目です。吊り下ろす車自体の寸法があるからです。古橋さんのミニバンの全長は約5メートル。その中心を吊り上げるため、クレーンの先端は運転席の前からさらに、5メートルの半分、2.5メートル離れた位置に到達する必要があるのです。運転席2.5メートル、プラス、車の全長の半分、2.5メートル、イコール、5メートル。4.5メートルには0.5メートル、50センチ足りません。運転席の屋根に50センチ分、車が引っかかってしまい下ろせないのです。

 車を90度回転させたらどうでしょう。車は全長に比べて全幅のほうが当然ずっと短いですから、運転席をかわしてトラックの前に車を吊り下ろすことは可能に思えます。ですが、これも無理です。なぜかというと、そうすると今度は道幅に車が収まらなくなってしまうのです。門前の道は工事職員の車両で狭められ、トラック一台が通るだけの4メートル程度の道幅しか残されていませんでした。全長5メートルの車を下ろすことは不可能です。これは死体を下ろしたフェンス沿いの道路にも同じ事が言えます。あの道も幅は4.5メートル。5メートルの車を直角に下ろすことは出来ません。

 あなたはトラックの横に車を下ろすことの出来る広い場所を探さなければならなかった。それが、現場から少し離れた空き地だったというわけです。付け加えると、真鍋さん、あなたは車を積み込むか下ろすときに、吊り具の鎖で車体側面に傷を付けてしまいましたね。当然鎖が直接車体に触れないよう、タオルか何かで鎖を巻いてはいたのでしょうが、焦っていたのでしょうか。ともかく、車を下ろしたあなたは、キーケースをもとのように古橋さんの懐に戻すと、急いで現場に帰ります。

 これが、月曜の早朝にあなたが行った死体移動工作の全てだと思うのですが、どうでしょうか。私の推理に何か間違っているところはあったでしょうか」


 真鍋は、今度はゆっくりと顔を上げた。そして、


「証拠は……何か証拠はあるんでしょうか。今、安堂さんがおっしゃったことが、実際に行われたという証拠は……」


 か細い声を漏らした。理真も、真鍋の虚ろな目を真っ直ぐに見つめて、


「まず、この現場に敷かれた全ての敷鉄板を調べます。古橋さんの死体にほとんど出血はありませんでしたが、ゼロではありません。血液の成分というものは、洗ったとしても容易に取れるものではありません。古橋さんが落下した鉄板は間違いなくホテルの610号室直下のものでしょうが、もしかしたら、それを踏まえて鉄板の位置を置き替えている可能性がありますから。さらに念を押すなら、現場から敷鉄板自体を入れ替えている可能性もあります。『鉄板が曲がった』とか何か理由を付けて。この現場で敷鉄板をレンタルしている業者も全て当たりますよ。それから古橋さんの車のタイヤに付いた土の成分も調べます。この現場内の土と一致するかどうか。一般車両がこの現場内に入るなんていうことは通常ないはずですから。古橋さんの車の運転席からあなたの指紋が検出されるかもしれませんが、これは二人が友人同士のため、運転させてもらったことがあるという話が成り立つでしょう。そして、凶器です。古橋さんが握っていた凶器。忙しいあなたは、まだ処分していない可能性が高いです。凶器は鉄製のナイフと見られています。現場内に、鉄くずを処分する産廃ボックスがありましたよね」


 真鍋は大きく息を吐くと、再び顔を伏せた。

 そのあとすぐ、警察の調べで、現場の産廃ボックスから鉄製の工具箱に入れられたサバイバルナイフが発見された。ナイフはさっと洗われていたが、柄のモールドに洗い流しきれなかった血液が残っていた。血液は白浜のもので、柄からは古橋の指紋も検出された。ボックスの中身は、その日の夕方に回収され、翌日にはプレスされ鉄塊となり、スクラップ場に積まれてしまうところだったという。


「真鍋くん……真鍋くん、どうして……」


 麻矢子は嗚咽混じりの声を、項垂れて頭頂部を私たちに見せている真鍋に掛けた。真鍋はその姿勢を崩さないまま、


「……言っただろ。これ以上現場を止めるわけにはいかないんだ。この現場はただでさえもう大赤字が出てる。もう、これ以上工期を伸ばして経費を掛けるわけには……」

「そ、そんなことで……そんなことで、古橋くんの死体を……」

「予算の管理責任を問われて、多分、僕はこの現場が終わったら、会社から何かしらの処分を受ける。それを少しでも小さなものに留めるためには、仕方なかったんだよ」

「仕方ないって……真鍋くん、そんなことで……古橋くんは友達でしょ……どうして……」

「有井さん、僕ね、本当は古橋のことがあんまり好きじゃなかったんだ……」


 麻矢子の目から涙がこぼれ落ちた。

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