第14章 水中からの挑戦

 有井ありい家に着いた。居間にいた降乃ふるの刑事に話を訊くと、麻矢子まやこは疲れて眠っているという。少しでも話を聞ければと思ったのだが。

「いけない、忘れてた」と自分で頭をこつんと叩いた降乃刑事に覆面パトのトランクを開けてもらい、理真りまは隅っこに転がっていたビニール袋を回収した。中には、拾ったときのそのままの姿で黒い物体、犬の糞が入っていた。

 有井家を出た私たちは所轄の日吉ひよし署に寄り、証拠品として保管されている白浜しらはまの靴を借りた。この靴にビニール袋の中の黒い物体を踏んだ跡があるか、もしくはそちらのほうに靴底の成分が付着していれば……

 理真は降乃刑事にひとつ仕事を頼んでいた。近所で犬を飼っているお宅を訪問し、散歩途中にこれを拾った電柱の下で用を足した犬がいないか調べてもらうというものだ。これは、白浜の靴に犬の糞の成分が付着していたとして、それが全く別の場所で同じ犬が排泄した糞からによるものである可能性もあるためだ。糞のほうから白浜の靴底の成分が見つかれば話は早いのだが。


「所轄の刑事に訊いたけれど、白浜の靴は靴底の素材にもこだわったブランドもので、そう出回ってる種類じゃないみたい。糞のほうから靴底の成分が検出されるほうが理想ね」


 白浜の靴を入れた袋を手に日吉署から出てきた丸柴まるしば刑事の言葉だ。

 糞と靴を持ち、私たちは一路北上し、県警の科捜研を目指す。時間が惜しいため、下道ではなく北陸自動車道を利用した。

 靴と糞は、絶対に同じ空間に同居しないよう、袋の口を完全密閉することはもちろん、糞はトランク、靴は助手席で理真が持つと、置き場も別にした。靴から糞が、糞から靴底の成分が検出されたとして、その原因が同じ場所に置いていて成分が飛んで付着したためだ、などという可能性が生まれたら元も子もないからだ。

 丸柴刑事は日吉署で、理真が申し出た星野ほしのの秘密基地の捜索依頼も城島じょうしま警部に進言してきた。警部は上を説得して必ず捜索をすると約束してくれたという。警部の理真への信頼は厚い。

 私はネットで、薩摩さつまが麻矢子から贈られた腕時計のことを調べた。


「やっぱりそうだよ、理真。あの限定品の腕時計には全部にシリアルナンバーが振られていて、時計の裏面にそのナンバーが刻んであるって」


 理真は、私に礼を述べると下唇に指を当て、再び長考に入った。私たちと二つの証拠品を乗せた覆面パトは、左手に日本海を望みながら北陸自動車道を疾走する。



 新潟県警に付随する科学捜査研究所、通称科捜研に着いた。もう夕暮れどきだ。結局、麻矢子の叔父、倉田文彦くらたふみひこのところには今日は行けそうにない。

 大小二つのビニール袋を持って私たちは科捜研の一室を目指す。懇意にしている研究員、美島絵留みしまえるの部屋を、だ。道中に理真が電話で鑑定の予約をしていたから、すぐに話は通るはずだ。


「よう、しおり、理真、由宇ゆう。お揃いで」


 理真のノックに特徴的なハスキーボイスで返事がくると、すぐに私たちは部屋に入り、部屋の主、美島絵留に迎えられる。美島が呼んだ「栞」は丸柴刑事の名だ。美島はいつもの白衣に細身の眼鏡。細身なのは眼鏡だけではない。その手脚もすらりとしている。これで上背があったらモデルも務まるところだが、美島の身長はこの中で一番低い。丸柴刑事となら頭ひとつ分の差がある。長い髪は今日はポニーテールにまとめ、形のいいおでこを出している。その美島は、理真と丸柴刑事の持つ袋に目を向けて、


「で、それが?」

「そうなの、絵留」


 丸柴刑事が自分が持っていた大きい方の袋をテーブルに置く。理真も、小さい方の袋をやはりテーブルに置いた。美島は、理真が置いた袋を見て、


「これって……もしかして」

「そう、うんこ」

「うんこか」


 あーあ、これで主要女性陣が全員「うんこ」って口に出しちゃったよ。


「電柱の隅に落ちてて、これをこの靴で踏んだ形跡があるかどうか、調べて欲しいの。あ、犬のだからね」

「よかった」


 理真が言って美島が胸をなで下ろす。当たり前だろうが!


「オーケー。いつまでに必要?」

「出来うる限り早くお願いするわ、絵留ちゃん」

「理真の頼みじゃ断れないね。特急料金はいただくよ。今度私以外のみんなの奢りで飲みに行こう」


 この特急料金は高くつきそうだ。美島の酒豪っぷりは県警内でも有名なのだ。



 科捜研を出た私たちは、これからの行動を決めた。ここまで来たなら今日は自宅に帰ろうかという案も出たが、理真が捜査の状況を聞きたいというので、遅くなるが柏崎かしわざきまで戻ることにした。有井ありい家には私から電話を入れる。麻矢子の母親秋枝あきえに遅くなるが今日は帰ると告げ、降乃刑事に代わってもらい麻矢子の様子を聞く。麻矢子はだいぶ落ち着き、夕食を降乃刑事も交え家族みんなでとったそうだ。

 降乃刑事は、犬についての聞き込み結果も教えてくれた。現場近所の犬の飼い主が、土曜日の朝、つまり麻矢子がストーカーに尾行された日の朝に、当該電柱の陰で飼い犬が散歩途中に粗相をしたことを認めた。その日はたまたま糞を持ち帰る袋を忘れたまま散歩に出てしまい、そのままにしてしまったと平身低頭していた。その犬は散歩に出る以外は完全室内飼いをしており、糞が外に漏れる事はあり得ないという。これで、美島に渡した糞と靴に因果関係があれば、あの靴の持ち主は間違いなく土曜日の夜、麻矢子に一喝され逃げ帰ったストーカーに間違いないということになる。すなわち、ストーカーの正体は担当編集者の白浜。


 丸柴刑事がハンドルを握る覆面パトで、私たちは柏崎にとんぼ返りする。

 途中の高速道路サービスエリアで夕食を済ませ、私たちは日吉署に置かれた捜査本部に入った。

 本部には平松ひらまつ刑事が戻っており、捜査から得られた情報を教えてくれた。

 まず、古橋事件に関連すると思われるもの。

 現場の工場出入り口の門前の道路には、日曜日の夕方から月曜日の朝に掛けて、数台の車が停まっていたという。これは数キロ離れた場所で道路工事作業を請け負っていた業者が停めたものということだ。現場が狭く、作業員や関係者たちの通勤用車両を停めておくスペースが取れなかったため、車の通りはないが比較的広い工場前の道路に路上駐車し、一台のバンに作業員が乗り合わせて現場に向かったためという。夜間作業を終え、作業員たちが工場前に戻ってきたのが午前六時前後。聞き込みでも、怪しい人物などの目撃証言は得られなかった。

 現場から離れた空き地に停められていた古橋の車のミニバンには、車体側面に何かで引っ掻いたような傷が一箇所付いていた。左後輪のすぐ手前、ちょうどタイヤ交換などの際にジャッキアップする位置から、車の屋根中心に向けて、斜め方向に三十センチ程度の長さの傷だという。金属製の何かで引っ掻いたような傷だが、どういう原因によるものかは不明。

 加えて車には、大量の本が積まれていた。古橋の勤めていた店舗に確認をしたところ、市内にある支店に送る予定の書籍で、本来であれば月曜日に古橋が出勤前に支店に寄って置いてくる手はずになっていたという。本が詰められた段ボール箱はミニバンの荷台を半分程度埋めるほどあり、百キロにはなるのではないかと思われる。

 次に、白浜事件関連の情報。

 ホテル泊まり込みの従業員の数名が、日曜日深夜に外で何か物音を聞いたと証言した。深夜零時前後のことらしいが、詳しい時間帯は不明。その時間はホテル業務は終了しており、従業員も就寝していたためだ。物音も、それにより眠りの浅かったものが起きて気付いたため、わざわざ時刻を確認したり、外に出てみたものもいなかった。深夜零時前後であるならば、古橋の死亡推定時刻に近いが……

 もうひとつは、朝食の用意のため早くに起床していたコックらが、隣の真鍋まなべの工事現場で機械の作動音を聞いたという。時間にして午前五時過ぎ。こんなに早く現場が動いたという記憶はなかったため、変だなとは思ったものの、朝食の準備に追われていることもあり、こちらも外に出て確認まではしなかった。


「どうですか、安堂あんどうさん。何か参考になるような情報はありましたか?」


 報告を終えた平松刑事が訊くと、理真は、「とても参考になりました」と礼を言った。同時に平松刑事の口から、明朝に船と重機を出して星野少年の秘密基地の捜索が行われるという話も聞いた。城島警部が迅速に動いてくれたのだろう。理真はそのことにも感謝した。

 もう夜もだいぶ更けたため、私と理真は丸柴刑事に送ってもらい有井家へ戻ることにした。



「ただいまー」と小声で口にしながら玄関ドアを開けると、出迎えてくれた降乃刑事が、「おかえり」と小声で返す。ゆっくりとした足音が聞こえ、降乃刑事の後ろから顔を見せたのは見知らぬ男性だった。いや、私が忘れていただけで、見知らぬということはない。一度だけ会ったことがある。理真の表情がそれを物語っていた。「これは折りがよかった」理真の顔にそう書かせたその男性は、麻矢子の叔父、航空会社に勤め、新潟空港からヘリを飛ばしてここまで来たという倉田文彦だった。


「明日の朝には新潟へ帰るもので、最後に麻矢子ちゃんの顔を見ようと思ってね」


 パーティーで会ったときと同じ、青いつなぎ姿の倉田は、居間に戻ると大きな体を縮めるようにして座卓の前にあぐらをかいた。

 麻矢子と両親はもう寝ており、倉田ももう帰るところだったという。


「倉田さん、ちょうどよかったです。伺いたいことが……」


 理真は二つの殺人事件にヘリコプターが使われた可能性は考えられるか、という疑問を倉田にぶつけた。回答は、「無理だ」のひと言。


「みんなも知っての通り、ヘリの爆音というのは凄い音がする。町中の誰にも気付かれずに上空を飛行するというのは無理だ。その古橋くんという青年は、高さ二十メートルくらいのところから転落死したんだって? 誰にも気付かれずにそんな低空を飛ぶなんて不可能だよ。

 ずっと上空にホバリングしてロープを垂らす? うーん、爆音が聞こえなくなるくらいの高度から地上二十メートルまで垂らせるロープを積むのがまず不可能なんじゃないかな。それに、ずっと同じ位置にホバリングさせておくって難しいんだよ。現実的な方法とは到底言えないね」


 やはり。理真もそう考えていたのだろう。倉田の答えを聞いても落胆したような表情は見せなかった。


「ありがとうございます。もうひとついいですか。倉田さんから見た麻矢子ちゃんって、どんな子ですか?」


 理真が質問の内容を変えてきた。倉田は、その豊かなあご髭に手をやって、


「ん? 麻矢子ちゃんかい? そうだねぇ……結構勝ち気な子なんじゃないかな」

「勝ち気、ですか? あんまりそんな印象は受けませんでしたけれど」

「はは、先輩作家さんの前だから猫被ってるんじゃないのかな? 麻矢子ちゃんは結構、恋人を束縛するタイプだと思うよ。高校生の頃に話をしたときに一度、自分は何が許せないかって、デートの待ち合わせに遅れることが何よりも我慢ならないって、捲し立てていたことがあったよ」

「……そうですか。ありがとうございます」


 理真が礼を述べると、「じゃ、俺はここらで」と倉田は大きな体を起こした。

 降乃刑事もまだだというので、私たちはお風呂を使わせてもらうことにした。普通の家庭用の風呂に大人三人は無理だって、と言い聞かせたのだが、降乃刑事が、やれまか(新潟弁で「どうしても」)三人で入る、と言ってきかないため、やむなく私たちは決して広くない浴場に成人女性三名の体を押し込んだ。

 湯船に二人以上が入ると一気にお湯がなくなってしまう恐れがあるため、湯船、洗髪、体を洗う、とローテーションすることにした。今は理真が湯船に浸かり、降乃刑事が洗髪、私が体を洗っている。


「で、理真ちゃん、由宇ちゃん、事件の謎は解けそうなの?」


 髪の毛をわしゃわしゃと洗いながら降乃刑事が尋ねてきた。そのまぶたはしっかりと閉じられている。子供か。私は探偵を見る。理真は湯面から頭だけを出して湯気に曇る天井に視線を差していた。


「祭りのときにさ……」沈黙を破って理真が口を開き、「麻矢子さん、薩摩さんが待ち合わせ場所に来ない事に対して怒らなかったのかな?」

「ああ、さっきの倉田さんの話ね」


 私が言うと、理真は頷いた。私はさらに、


「まあ、その証言は麻矢子さんの自己申告だからね。実際頭に来てたって、そんなこと言わないでしょ。まして、その直後に薩摩さんは行方不明になっちゃったんだし……」

「理真ちゃん、もしかして、麻矢子ちゃんのことを疑ってるの?」


 薄目を開いて降乃刑事が訊いた。理真はそれには返答するでなく、湯を掬い上げて顔を洗っただけだった。シャンプーが垂れてきたためか、降乃刑事は再びまぶたを閉じて、


「でも、麻矢子ちゃんには完璧なアリバイがあるよ。古橋さんが死んだ時間にはこの家で寝てた。運転免許のない麻矢子ちゃんには、現場まで行き来することだけでも相当難しいよ。白浜さんの死亡時刻に至っては、私とずっと一緒だったんだから」


 理真は、「そうよね」と口にしてから、


「古橋さんの死亡推定時刻が月曜午前零時前後。白浜さんのそれは月曜午前九時前から十時。……何だろう、何か間違ってる気がする」

「間違ってるって、理真、どちらかの死亡推定時刻が?」


 私は訊いたが、理真は首を横に振って、


「司法解剖の結果だから、それは覆らないでしょ。まして、解剖したのは他ならぬナルさんだし、間違えるなんてことは考えられない。そうじゃなくってね。私たちの考え方のほうに、何か、とんでもない齟齬が……」


 磨りガラスのドアを隔てた向こうで電話の着信音が鳴った。理真の携帯電話だ。理真は湯船に体を入れたままドアを開いて、湯船の縁にお腹を乗せ、上半身だけを脱衣所に入れる格好で電話を手に取った。何て格好してるんだ。こっちから丸見えだぞ。


「ああ、絵留ちゃん」


 電話に応答した理真の声。相手は科捜研の美島絵留か。理真の通話は続き、


「今? みんなでお風呂。……由宇とろんちゃんと三人で……違うって、変態じゃないって。今度、絵留ちゃんも一緒にどう? って今はそれはいいか。それで? ……うん……うん……」


 あられもない体勢のまま理真の通話は続く。美島の話を聞いているためか、理真の声はほとんど聞こえなくなった。


「……分かった。こんなに早く結果が出るとは思ってなかった。ありがとう絵留ちゃん。今度一緒にお風呂――あ、切られた」


 理真はドアを閉め、湯船に肩まで浸かると、


「分析結果が出たわ。持ち込んだ犬の糞に白浜さんの靴底の成分が付着してた。ちょうど歩く癖で磨り減りやすい部分で踏んだみたいで、靴底の素材が剥がれやすくなってたのが幸いしたみたい。糞に残る踏みつけた跡も、その磨り減った靴底の形状と一致した」

「じゃあ、麻矢子さんのストーカーは白浜さん?」


 私が訊くと、理真は頷いて、


「ほぼ、間違いないね」

「どういうことなの? 白浜さんがストーカーだったとして、事件にどう関わってくるの?」

「前に私たちが推理した通り、日曜日の打ち合わせで、麻矢子さんが白浜さんがストーカーなんじゃないかと感づくか、疑いを持ったとしたら? 麻矢子さんはどうする?」

「どうする、って……」


 理真は右手を湯面から出し、人差し指で下唇に触れる。私は降乃刑事と顔を見合わせた。二人ともすでに髪も体も洗い終えている。


「……由宇、論ちゃん、私、トリックを破るヒントを、もうどこかで見てる気がする」


 下唇に触れたまま、しばし黙していた理真が、おもむろに言い出した。


「え? トリックって、何の?」


 私が訊くと、理真は右手を湯船に沈め、私と降乃刑事の顔を見て、


「二人とも、ここに来てからのことを、ちょっと思い出して話してくれない? ううん、三人で聞き込みに行ってからでいいわ。何か、そこにヒントが……」


 再び顔を見合わせてから、私と降乃刑事は頷き、まず、私が、


「論ちゃんがこっちに来てくれて、麻矢子さんを連れてストーカーに遭遇した場所に行った。ここであれを拾ったのよね」

「うんこをね」


 論ちゃん、せっかくぼかして言ったんだから、いちいち名前を出さなくていいよ。気にせず私は続けて、


「で、麻矢子さんを白浜さんのホテルに送る。私たちは麻矢子さんの友人に聞き込みに行こう、となって、ホテルのすぐ隣の工事現場で真鍋まなべさんに会った」

「あそこの現場、歩きにくかったね」

「そうそう、鉄板がびっしりと敷き詰めてあってね」


 合いの手を入れてくる降乃刑事に私は答えて、


「次に、塔子とうこさんに会いに越後丘陵公園に行った」

「うん。私、気球乗りたかったな。でも、うさぎさんから風船もらったし」

「あれに並んでたの、論ちゃん以外は子供ばっかりだったよ。大きなイベントやってたんだよね。気球の体験以外にも色々と」

「そうそう、ピエロがくるくるってするやつ、凄かったね」

「ジャグリングっていうんだよ。私は、あれが好きだな、テーブルクロス引き」

「ああー、あれも凄いよね――」


 降乃刑事の声とほぼ同時に理真が湯船から立ち上がり、再びドアを開けて携帯電話を掴んだ。またしても、あられもない格好のまま理真は電話をダイヤルする。


「もしもし、ナルさん、すみません、こんな時間に……」


 電話した相手は警察医のナルさんこと鳴海なるみ医師か。理真の挨拶のあと、スピーカーから、なにやら早口の声が漏れ聞こえた。「おう、お嬢、何でぇ、今、一杯やってたとこでぇ。何の用事だ、え?」みたいなことを捲し立てていたのだろう。鳴海医師は口は悪いがいい人だ。どうして埼玉生まれのくせに江戸っ子口調なのかは謎だが。


「ナルさん、今回の白浜さんの死体についてなんですけれど……ええ、あとのほうに見つかった、ホテルの刺殺体のほうです……で、ですね、その白浜さんが実際に刺されたのは、死亡するよりもずっと前だったという可能性はありますか? 例えば、実際に刺されたのは、死亡推定時刻よりも九時間から十時間前だったとか、そういった可能性は?」


 理真、何を訊いているのか? 白浜の死亡推定時刻は確か、午前九時から十時のはずだ。それよりも九時間から十時間前となると、前日の午後十一時から午前零時。古橋ふるはしの死亡推定時刻とほぼ重なる。


「……はい……はい……そうですか。ありがとうございました」


 理真は通話を終えて湯船に戻り、


「刺されてベッドに倒れ込んで、意識が朦朧もうろうとしたまま、もしくは意識を失って、徐々に出血して死に至った可能性はあるって。白浜さんの死体は、片手が傷口に当てられていたじゃない。だから、出血のスピードが落ちて、致死量の出血に至るまで時間が掛かった可能性は考えられるって」

「もしそうだったとして、理真、どういうことになるの?」


 私が訊くと、理真は、


「白浜さんが実際に刺された時刻と、古橋さんが死亡した時刻が重なっていたとしたら?」

「いたとしたら、って……あの二人の死には密接な関係があるってこと? 時間が重なってるっていっても、古橋さんと白浜さんの死体は全然別の場所で発見されてるのよ。どちらにも死体を動かした形跡はない……」

「死体を動かした形跡はない。そう、確かに。でもね、由宇……」


 理真は下唇に指を当て、再び長考に入った。

 さすがにちょっと体が冷えてきた。理真に湯船に浸かる権利を譲渡してほしいところだが。と、降乃刑事は構わず、とばかりに理真が浸かる湯船に自分も体を沈ませた。決して広くない湯船の中、降乃刑事の手脚が絡んでくるが、理真はそれを意に介した様子もなく黙考を続ける。


「由宇! 論ちゃん!」ざばり、と音を立てて突然理真は立ち上がると、「ちょっと、これから付き合って」

「付き合って、って、どこか行くの?」


 私の声に、理真は縁を跨いで湯船から上がり、


「ホテル」


 言い残して脱衣所へと出た。私と降乃刑事は、この日何度目となるのか、顔を見合わせた。

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