第12章 消された時間
「
「ええ、それは確かよ。死体発見者のお爺さんも、あまり目がよくないのか、『死体を見た』って言うばかりで、死体がどんな状態にあったかを訊いても、全然詳しい答えは返ってこなかったそうだからね。六メートル近く離れている死体が握っていたものなんて、見えなかったでしょうね」
「私、色んなことがいっぺんに起きて、そのことをすっかり忘れてたわ」
「そのことって、眼鏡ケースのこと?」
「あれって、何? もしかして、古橋さんのダイイングメッセージ?」
「自分を殺したのは、これをくれた人物です、ってこと?」
丸柴刑事は、和食ランチの焼き魚を箸で摘む。塔子と会うのを避けたいのは、こういう話を聞かれたくないためだ。
チキンステーキを咀嚼して飲み込んだ理真が、
「だったら石黒さんが、わざわざ、あんなこと言う? 眼鏡ケースをプレゼントしたんです、なんて」
「いや、古橋さんがダイイングメッセージを残したことを知らなかったんだとしたら? 気球から突き落とされた古橋さんは、落下中に懐から眼鏡ケースを取り出してしっかりと握った。それを石黒さんは知る術もない」
「
「――あ、言ったそばから」
丸柴刑事は振動して着信を知らせる携帯電話を握ると、箸を置いて店外に出た。すぐに戻った丸柴刑事は、
「論外だって」
ここに入る前に丸柴刑事は県警に電話を掛け、私たちが推理したような気球を使った犯行が可能かどうかを問い合わせてくれるよう頼んでいた。その回答が届いたのだ。それを聞いた理真は、「ほらね」と言ってチキンステーキを平らげる作業を再開する。
「問題はさ」と私は囓っていたアジフライを一旦皿に戻して、「気球が風任せで自由に飛行するには適さないからでしょ。もっと自在に空を飛べるような乗り物なら……」
「自在に空を飛ぶって、飛行機とか?」
再び箸を持った丸柴刑事が言った。私は、
「そう、そうです。あ、でも飛行機も小回りが効きそうにないな。ヘリコプターとか?」
「ヘリコプター……」
理真が、早くも最後のひと切れとなったステーキをフォークでさしたまま呟いた。それを見た私も、アジフライに伸ばしかけた箸を止めて、
「何? 心当たりあるの?」
「あるっていうか、由宇、憶えてない? パーティーで会った、
「麻矢子さんのおじさん? ……あ!」
「そう、ヘリコプターのパイロットをやってるって言ってた」
「それだ! 理真!」
私は思わず、行儀の悪いことに、握っていた箸で理真を差してしまった。が、理真もステーキが刺さったままのフォークを私の箸からガードするように掲げて、
「由宇、確かにヘリなら、ホバリングっていうんだっけ? 空中に留まったり出来て、操作性は気球の比じゃないだろうけど、代わりにもの凄い音がするよ」
「……ああ」
確かにそうだ。町を歩いていてヘリの爆音が聞こえ、どこかな? と空を見上げると、想像していた以上の高度を飛んでいるのを見ることがたまにある。
私は箸を下ろして、
「そうだね。あの静かな廃工場付近でヘリなんて飛ばしたら、いくら近くに民家がないったって、何キロも離れた町中で聞こえるよね」
「それに、由宇ちゃん」と丸柴刑事も、「ヘリの飛行可能な最低高度って、確か法律で決められてるのよ。人が住む地域だったら、ヘリの半径何百メートル以内のもっとも高い建物から何百メートル以上、って。古橋さんの墜落高度って、解剖でも二十メートル程度からって出てるんでしょ。そんな低空をヘリが飛ぶのは無理よ」
「でもそれは、あくまで法律を遵守すれば、ですよね。殺人を犯そうって人が、そこまで気にしますか? そもそもヘリを飛ばすだけでも、どこかしらの当局の許可がいりますよね。それだって無視して……いや、ないですね。ごめん」
「うーん」と理真はフォークを持ったまま唸って、「でも、一応は当たってみようか。パーティーでも、あのおじさんはしばらくこっちにいるって言ってたし。名刺もらってたから、あとで電話してみよう」
理真は最後のチキンステーキを口に放り込んだ。
昼食を終えて覆面パトに戻ると、丸柴刑事は捜査状況を所轄の
丸柴刑事のほうは、これといって進展はないようだ。
その真鍋の工事現場にも捜索の手が入った。窓から何かが落ちている可能性があるためだ。ことに発見が急がれるのは凶器だ。もしかしたら犯人が窓から投げ捨てているかもしれないが、これも可能性は低い。数時間の渡る捜索でも、現場からは有意義な発見はなかったという。その間現場作業に支障が生じ、真鍋は大層立腹していたということだ。
白浜が勤めていた東京の出版社、
理真のほうはというと、麻矢子はだいぶ落ち着いたと、降乃刑事が安堵の声で伝えたそうだ。一気に旧友と担当編集の二人を亡くしてしまって、二十三歳の女性にとっては相当なショックだろう。しかも殺人事件だ。もっとも、麻矢子が一連の事件の犯人だというのであれば話は別だが。第一、麻矢子には古橋も白浜も殺す動機がない。これも今のところではあるが。
とはいえ、白浜死亡時の麻矢子のアリバイははっきりしている。午前九時から十時といえば、私たちと一緒に古橋殺害現場に赴き、死体確認をして、覆面パトの助手席で休んでいた時間だ。その間、降乃刑事がずっとついている。
電話を終えると丸柴刑事は、調べておいてくれた
薩摩家の前に到着した。通りの少ない道路なので路上に車を停めさせてもらい、私たちは降車する。
丸柴刑事が呼び鈴を押すと、程なく中年女性が玄関に顔を出した。丸柴刑事が警察手帳を開示しながら、お話を聞かせていただきたいのですが、と頼むと、女性は表情を曇らせはしたが、私たちを招き入れてくれた。
女性はやはり、薩摩
「……ニュースで見ました。古橋くんのことですか?」
お茶を出し終え、自分も座卓の前に腰を下ろすと、薩摩の母親は自分から尋ねてきた。
「ええ、それもありますが……」
と丸柴刑事は理真を見る。理真はお茶をひと口飲んでから、
「薩摩昇くんについて、お話を伺わせていただきたいのです」
息子の名前を理真が口にすると、母親はまぶたを閉じ、大きく息を吸った。
「昇くんは、
「はい、本人から聞いたわけではなかったのですが……」
理真の問いかけに母親は、遠くを見るような目で語り出した。
ある日、母親は昇が手首に腕時計をつけていることに気付いた。今まで、息子が腕時計をしているところなど見たことがなかった。その時計のデザインが妙に洒落たもので、決して息子のセンスではないと確信した母親は、ある日、不意打ちを掛けるように質問した。
「彼女からのプレゼント?」
昇は、「そんなものかな」などと曖昧な返答をしたが、その頬に赤みが差しているのを見て、彼女の存在を確信したという。
麻矢子は何度か薩摩の家に遊びに来ていた。ひとりだけで来ていたわけではなく、古橋、真鍋、塔子と一緒のいつものメンバーとしてだったが、五人それぞれの所作から、息子の彼女は麻矢子だと母親は感づいたという。
母親は、ある日、麻矢子に手伝ってもらい皆に飲み物を振る舞うため、台所で二人きりになったことがあった。そのときに腕時計のことを訊いてみた。
麻矢子は赤くなりながらも、あれは当時若者に人気モデルのシリアルナンバー入りの限定品で、誕生日プレゼントとして贈った。と教えてくれた。
その時計は? と理真が訊くと、部屋には残されていなかったという。付けたまま行方不明になったということなのだろう。
「麻矢子さんは、元気にしていますか?」
話が一段落つくと、薩摩の母親が訊いてきた。が、理真が答える前に、すぐに、
「……いえ、元気なわけありませんよね。昇がいなくなったことに続いて、古橋くんまで……」
と俯いてしまった。
最後に、薩摩昇の行方に心当たりはないかと尋ねると、母親は力なく首を横に振るだけだった。
薩摩家を辞した私たちは、
「どう、理真、何か事件の謎を解く参考になった?」
丸柴刑事が訊くと、理真は助手席で腕を組み、
「話を訊くと、麻矢子さんと薩摩さんは、かなりいい感じだったみたいだね」
「そうね、高校生でプレゼントが腕時計って、なかなかないんじゃない?」
「うーん……腕時計か。情報のひとつとして頭に入れておこう。丸姉、学校の放課後までまだ時間あるよね。私、麻矢子さんのおじさんに電話してみる」
理真は携帯電話を取りだし、麻矢子の叔父にもらった名刺を見ながら、電話番号をダイヤルした。
「……もしもし、私、
私も、後部座席から理真が手にしたままの名刺を覗き見ると、麻矢子の叔父は、倉田
倉田はこちらにいる間、会社の宿泊室で寝泊まりをしているという。夜になってもいいから、何か用事があれば遠慮なく訪ねてきなさい、と倉田は語ったそうだ。理真は、では、さっそく今夜にでも、と訪問する旨を告げた。
丸柴刑事は学校の放課後に合わせる時間調節のため、近くのコンビニに車を止めた。
時間だ。おやつにとコンビニで買った菓子パンとコーヒーを全員が平らげると、丸柴刑事はアクセルを踏んだ。
下校途中の星野少年を掴まえて話を聞ければ一番いいのだが、一気に下校する生徒の中から星野ひとりを見つけることは難しいだろう。部活に所属している可能性もある。私たちは放課後直前に学校に行き、教師に話をして星野を呼び出してもらうという手段を取ることにした。「星野が警察に話を訊かれた」などという噂を立てられることは絶対に避けたいため、事は慎重を要する。丸柴刑事がまったく刑事に見えないのは幸いだ。理真や私も問題ないだろう。「星野を訪ねて綺麗なお姉さんが三人も来たぞ」なんて、嬉しい噂が立ったりしてね。でも、中学二年生というのは、あまりそういったことにも敏感になってしまうものだろうか。照れるな中学生。お姉さんたちがかわいがってあげるぞ。なんてね。
そうこう考えているうちに、覆面パトは中学校の門をくぐった。
丸柴刑事が話しに行き、星野翼と応接室で会えることになった。すぐに放課後になるため、私たちは応接室に通されて、ホームルームが終わり次第来るはずの星野を待っていた。丸柴刑事の要請で教師は立ち会わないことにもしてもらう。
程なくして、応接室に二人の中学生が姿を見せた。が、
「すみません、あの、星野のやつ、ひとりで帰っちゃって……」
男子生徒が、ばつが悪そうに言った。その隣に立つ女子生徒も、ちょこんと頭を下げる。
「帰ったって、私たちがひと足遅かったのかな?」
理真が聞いたが、今度は女子生徒が首を横に振って、
「違うんです。星野くん、先生に呼ばれたんですけれど、そのときだけ生返事をして、さっさと帰っちゃったんです。それで、刑事さんたちをずっと待たせておくのも悪いと思って」
「知らせに来てくれたのね、ありがとう」
理真は二人の中学生に向かって微笑んだ。男子生徒は顔を赤くして俯いたが、女子生徒のほうは、まじまじと理真の顔を見ている。
「じゃ、じゃあ、僕たちもこれで……」
と男子生徒がドアノブに手を掛けたが、女子生徒のほうが、
「あ、あの、間違ってたらすみません。もしかして、作家の安堂理真さんじゃないですか?」
近づいて訊いてきた。理真は、「そうよ」とにこりと笑う。
「やっぱり!」女子生徒は口元を覆ってさらに顔を赤くして、「わ、私、ファンです。作品は全部読んでます。あ、でも、図書館で、ですけど。ハードカバーの本って高いから……すみません!」
女子生徒は深々と頭を下げた。理真は、「いいのよ」と微笑みを崩さないまま、
「ねえ、二人とも星野くんとは親しいの? もしよかったら、お二人から話を聞かせてもらってもいい?」
「は、はいっ!」威勢よく返事をして女子生徒は私たちの向かいのソファに腰を下ろした。なし崩し的に男子生徒のほうも、その隣に腰を据えることになった。
男子生徒は
「野川、あんた、星野とは小学校から一緒だったでしょ」
水木が野川に喋るよう促した。
「う、うん。で、星野のやつが、何か?」
「ううん、違うの」理真は首を横に振って、「ちょっと話を訊きたいって思ってね。ねえ、野川くん、有井麻矢子さん、って知ってるかな?」
「ええ、もちろん知ってますよ。作家デビューしたんですよね」
「そう。作家として以外に、それ以前の有井さんのことはどう? 知ってる?」
「はい、少しは。僕も小さい頃、登校の引率をしてもらったり、一緒に遊んでもらったりしていました」
「ああ、有井さんは、そういうふうに子供たちの面倒見がよかったそうだもんね。その子供の中に、星野くんもいた?」
「ええ、僕と星野は近所でしたから、二人とも結構頻繁に会っていましたよ」
「星野くんが、有井さんと特別親しかったとか、そういったことはなかったかな?」
「そうですね……僕らも小学校の中学年くらいになると、同級生の友達とも親しくなって、有井さんと一緒にいると囃されたりすることもあって、みんな段々と離れていっていましたけれどね。そう言われれば、星野は結構最後まで有井さんと一緒に登校していたかもしれませんね。三年生くらいまで一緒だったんじゃないかな。それに、有井さんのほうも進級すると受験とかで忙しくなっていたでしょうから、あまり子供たちに構う時間もなくなっていったんじゃないですか。勉強だけじゃなくて、彼氏とか」
「有井さんに彼氏がいたことは、野川くんも知ってたの?」
「はい。僕だけじゃなくって、星野も知ってたはずですよ。二人で楽しそうに一緒にいるところを見たりしていましたから」
「その頃の星野くんって、どんな子だった?」
「うーん……普通でしたよ。成績はよくも悪くもなく、運動も得意でも不得意でもない」
「星野くんとは、よく一緒に遊んでたの?」
「はい、遊んでたというか、今も友達ですから。まあ、遊びの種類は、もちろん小学校の頃とは変わってますけれどね」
「小学校の頃は、どんな遊びを?」
「一番楽しかったのは、何と言っても秘密基地ですね」
「秘密基地?」
理真が怪訝な表情をする。野川は笑って、
「はい、海岸沿いの岩場にある小さな洞窟を、自分たちの秘密基地にして遊んでたんです」
「ヒーローとかになりきって?」
「うーん、ちょっと違いますね。プラモデルを持ち込んで、そういうロボットの基地に見立てて遊んでいたんです。洞窟の中にちょうど窪みがあって、海水がそこに溜まるんですよ。それが湖みたいで、絶妙な自然のジオラマになって。最高にかっこよかったんです」
「ジオラマって?」
「あ、情景模型っていって、縮尺に合った建物や自然物を模型と一緒に飾ることです」
「ああ、何となく分かったわ」
「野川、あんた、まだプラモデルとか作ってるよね。全然変わってないじゃん」
隣から水木が突っ込んできた。
「何言ってんだよ水木、模型は立派な大人のホビーだぞ。もちろん、プラモデルを外に持ち出して遊ぶなんて、もうやってないよ。だいたい、その洞窟はもうなくなっちゃったし」
「なくなったって?」
再び理真が訊いた。
「ええ。その洞窟の近くで工事が始まって、出入り口も土砂で埋められちゃったんですよ」
「それって、どれくらい前のこと?」
「中学に上がる頃にはもう工事が始まってたから、二年前くらいですね。まあ、それよりも前からもうその洞窟には行かなくなってましたけれど」
「そうなの? どうして?」
「星野が、もうあそこに行くのはやめようって言い出したからです」
「星野くんが? それはいつのこと?」
「えーと……小三のときでした、確か。だから、五年前ですね」
「五年前……」
理真の表情が変わった。五年前、それは麻矢子の恋人、薩摩がいなくなった年ではないか。理真はもとのように柔和な表情に戻り、
「星野くんは、どうしてその秘密基地、洞窟に行かなくなったの?」
「親に怒られたらしいですよ。あんな危ないところに行っちゃ駄目だって。星野のやつ、あそこは僕たちだけの秘密にしようって約束してたのに、何で親にバレるようなことしたんだろうって、当時はちょっと怒りましたけれどね。まあ、確かに言われてみれば危ない場所でしたから、事故が起きる前にやめてよかったのかなって、今は思いますけれど」
「野川くん、正確には、それは五年前のいつ頃のことか憶えてる? 星野くんから、洞窟に行くのはやめようって言われたのは」
「それは……夏休みで、七月の終わりか八月に入る頃でしたね、確か」
「七月から八月……ねえ、野川くん、その秘密基地があった場所、今でも憶えてる?」
「ええ、工事で地形もだいぶ変わってしまっていますけれど、だいたいなら」
「ねえ、今からそこに案内してもらえるかな?」
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