第10章 怪しい隣人

 廊下で待っていた麻矢子まやこは、白浜和夫しらはまかずおが死んでいることを理真りまに聞かされると、膝を折ってその場に崩れた。廊下には厚い絨毯が敷き詰められていたため、膝が床を打つ音もなく、聞こえるのは麻矢子のすすり泣きの声だけだった。

 降乃ふるの刑事が麻矢子に駆け寄り、しゃがみ込んで肩を抱く。支配人とフロント係は、呆然として廊下に立っている。理真は、麻矢子の様子を目に留めてから室内を見回した。真っ先に歩いて行ったのは、開け放たれた窓だ。窓は通常のスライド式のものではなく、中心に回転軸があり、左右の取っ手を握って回転させて開く、ホテルの客室でよく見るタイプの一枚ものの窓だ。窓は窓枠に対して六十度近い角度まで回転されている。

 理真は懐から出した愛用の手袋をはめてから、取っ手を握って窓を回そうとする。窓の隙間は狭まりこそすれ、それ以上開くことは出来ない。目一杯の角度まで窓は開けられていたということだ。窓の開いた幅は七十センチくらいだろう。大人ひとりが抜け出せる幅だ。理真の目も、それを確認したような色を見せている。そうだ。ドアにチェーンが掛かっていたのだから、犯人が部屋から出る手段はこの窓しかない。自殺でなければ、だが。そう思って私は改めて白浜の死体を見る。部屋備え付けの部屋着を着ており、腹部から流れ出た血が部屋着とその下のベッドを赤黒く染めているが、そのほとんどはすでに凝固している。ベッドだけでなく、床、テーブル、壁にも血が付着しており、それらも全て凝固済みだ。白浜の両手が添えられた腹部には、


「凶器はなし、ね」


 理真の声がした。彼女も窓から死体に目を移していた。凶器がないということは自殺の線は消える。何者かが白浜を刺し、凶器を持ち去ったのだ。持ち去った。どこから。ひとつしかない。私は理真に代わり窓のそばに立った。

 窓からは、周辺の民家やコンビニの明かりが見下ろせる。遠くには遙か駅前のものらしき明かりも目に出来る。この周囲には、ホテルに比肩するほどの高さの建築物はないのだ。直下を見下ろす。位置的にそこは、昨日、日曜日に理真、降乃刑事と訪れた真鍋次郎まなべじろうの工事現場のはずだ。現場にはプレハブの事務所も含め一切の照明は灯っていない。時刻は、と腕時計を見ると午後九時十分。とうに現場作業は終了し、真鍋もこんな時間まで残業することなく帰宅したのだろう。窓枠に視線を落とすと、ここにも凝固した血がこびりついている。

 救急車とパトカー、二種類のサイレンが夜の静寂を切り裂きながら近づいてきた。



 狭いビジネスホテルの部屋が現場のため、鑑識も入られる人数に制限が生じ苦労しているようだ。

 私たちは近くの空き部屋を提供してもらい、そこで待つことになった。降乃刑事だけは駆けつけた城島じょうしま警部たちに状況を話すため別室にいる。一脚しかない椅子には理真が座り、麻矢子はベッドに横になっている。私はそのベッドの縁に腰を掛けている。この部屋に入ってから、三人ともひと言も発していない。麻矢子は顔を壁に向けて肩を震わせて、理真は思案するような表情でカーペットに視線を注ぎ、時折麻矢子の背中を見やる。私はそんな二人を交互に見つめ、また、窓から暗い夜空を見上げていた。


 丸柴まるしば刑事が部屋に顔を出した。私と理真は黙礼し、麻矢子も壁に向けていた顔を回して起き上がると、小さく一礼した。

 丸柴刑事もベッドの縁に腰を掛け、理真がここまでの経緯を説明した。

 打ち合わせの予定があったのだが、古橋ふるはしの死体発見のことで麻矢子はそれをすっかり忘れていた。が、夜になっても白浜から一向に連絡が来ない。電話を掛けてみたが応答しない。四人でホテルに駆けつけ、部屋で死体となった白浜を発見した。

 理真は時折麻矢子に確認を取りながら説明を終えた、理真に訊かれる度、麻矢子は小さく頷くだけだった。


「麻矢子さんは、とりあえず家に。降乃刑事が送っていくわ」


 丸柴刑事が声を掛けると、麻矢子は、はい、と呟くように返事をし、ゆっくりとベッドから立ち上がると、丸柴刑事に肩を抱かれながら部屋を出た。

 程なく丸柴刑事は戻ってきた。


「何なのよ、理真」

「それはこっちの台詞だよ。どういうことなの、丸姉まるねえ


 麻矢子がいたときとは態度を打って変え、丸柴刑事は、どっかとベッドに腰を据えて背中側に手を突く。理真も椅子の上で脚を組む。


「まず、被害者について」と丸柴刑事は手帳を開き、「被害者は白浜和夫、東京の出版社、七重ななえ出版に勤める編集社。年齢三十三歳。有井ありい麻矢子出版記念パーティーに出席するため柏崎かしわざき市を訪れ、ここ〈ホテルグリーンパーク柏崎〉に宿泊していた。事前の予約では土曜から月曜までの三泊。明日火曜日の朝にチェックアウトする予定だった。宿泊中は部屋の清掃やシーツ交換などのルームサービスキャンセルを申し出ていた。そのため、二日前にチェックインしてから、従業員がこの610号室に立ち入ることはなかった」


 ここで丸柴刑事は、ひと息入れてから、


「次に現場状況。連絡が取れないことを不審に思った理真たちが支配人を伴って部屋を訪れると、部屋にはチェーンが掛かっていた。呼びかけても一切の返事がないため、フロント係がチェーンを切断して中に入る。そこで白浜の死体発見。部屋はベッドのある居間とユニットバスだけの……」


 丸柴刑事は部屋を見回して、


「要はここと同じ構造ね。回転式の窓が目一杯まで開けられていた。クローゼットには被害者のものと思われるスーツが掛けられており、革靴もあった。テーブルの上に置いてあった鞄の中には財布、携帯電話も入っており、現金、カード等が抜き取られた形跡はなし。

 次は死体の検視、検案(検死)により得られた情報。白浜の死因は、腹部を刃物で刺されたことによる失血死と思われ、凶器は刃渡り十センチ強のナイフか包丁と見られる。サバイバルナイフのようなものではないかと。現場に凶器の残留はなし。死体は死後十二時間以上経過しているものと思われる」

「十二時間?」


 ここで理真が口を挟んだ。


「そうなの」と丸柴刑事も手帳を下ろして、「理真も由宇ゆうちゃんも見たでしょ。傷口から流れ出た血液は凝固してるし、死斑の様子や死後硬直の状態から見てもね。詳しいことは解剖してからだけど、十二時間からもっと広がる可能性もあるわ。十五時間とか」

「待って、今が」と理真は腕時計を見てから、「午後十時だから、十二時間前っていうと午前十時。十五時間前なら、午前七時よ。そんな時間にもう白浜さんは亡くなってたっていうの?」

「死体の状態は嘘をつかないからね。ちなみに白浜は、さっきも言ったけど、連泊中の清掃やシーツ交換なんかのサービスをしてもらわないことにしてた。ちょっと宿泊費が安くなるんだって。だから、本人から申し出がなければ宿泊中に従業員が部屋に入ることはなかったの。普通にシーツ交換をしていたら、死体の発見はもっと早かったはずね」

「麻矢子さんに連絡が来なかったわけね。そんな早い時間に亡くなってたんじゃ」


 電話にも出られるはずがない。


「で、丸姉、犯人は白浜さんを刺殺したあと、窓から逃げたはずよね。そっちの調べは?」

「窓枠にも血が付着していた以外は、特にこれといって収穫はないわね。ここは六階だから、窓から逃げるにしても、そのまま飛び出すわけには当たり前だけどいかない。ロープとかを使ったはずでしょうけど、夜だから、壁面の調査なんかは明るくなってからじゃないと無理ね」

「確かにそうね。あ、でも丸姉、白浜さんの死亡時刻が午前七時以降なら、隣の工事現場はもう動いてたんじゃない?」

「ああ、そうか。ああいった現場って朝早いもんね。七時ならもう誰かしら来ていてもおかしくない。目撃証言が取れるかも」

「目撃証言っていうかさ、通報しない? 真っ先に。ホテルの六階の窓から人がロープを伝って下りてくるなんてところを目撃したら。それに、窓の直下はいきなり現場内でしょ。そんな不審者がいきなり現場に下りてきたら、捕まえるでしょ。で、警察に突き出すんじゃ」


 それもそうだ、と丸柴刑事は黙り込んだ。


「あ、理真、丸柴刑事、犯人は地面まで下りなかったんじゃ? 途中の三階とか二階の窓まで下りて、そこに入り込んで逃げた」


 私は自分の推理を口にした。聞くと理真は、


「犯人は下の階に宿泊していた人物で、窓から窓を伝って侵入、殺害、脱出したってこと?」

「数階分の距離の移動なら、現場の人も見落とした可能性は十分あるんじゃない? あ、それに、何も下の階に拘る必要はないよ。屋上からとか、同じ六階の窓同士でも、これは十分可能、いや、上り下りがない分、同じ階の部屋のほうがやりやすいね。なるべく移動距離を短く、かつ平行移動だけに済ますなら、白浜さんの部屋の両隣の部屋がベスト」

「最短の移動距離になったとて、目撃されるリスクはゼロにはならないよね。現場の人が自分を見落としてくれるっていう博打を打ったってことになるよね。僅かかもしれないけれど、見られたら即終わりの危険な賭けよ、それは」

「そうだね、うーん、無理があるか」

「だいたいそれなら、人目のある明るいうちは犯行に及ばないよ。それこそ今みたいな夜中にしなきゃ」

「そこしか犯人に空いている時間がなかった。……でも、目撃される博打を打ってまでやる犯行手段じゃないか」

「そうね、それに、この仮定の犯行を成功させるには、白浜さんの部屋も窓を開けておく必要があるんだよ。今、殺しに行きます、って内線入れて、窓を開けておいてもらうの?」

「そんなダイレクトに言う必要ないでしょ。何だろう、いい天気で風が気持ちいいですよ。とか」

「ホテルの部屋に、見ず知らずの他人からそんな怪しい内線が掛かってきて、ええ、そうですね、って素直に窓を開ける?」

「見ず知らずの他人じゃなかったら? 顔見知りの犯行だった」

「とりあえず」と丸柴刑事が入ってきて、「ホテルの宿泊客の身元は当然押さえるわ。アリバイもね」

「ちょっと待ってよ丸姉、白浜さんの死亡時刻が今朝なら、調べるべきは昨夜宿泊した人なんじゃない? 午前十時なんて、ほとんどのお客がチェックアウトを済ませてると思うけど」

「ああ! そうか。参ったな……一応フロントに訊いてくるわ」


 丸柴刑事は部屋を出た。



「理真、やっぱり駄目ね。今このホテルで連泊している客は白浜さんだけ。他の部屋は、昨日と今日ではすっかりお客が入れ替わっちゃってるわ。それに全員が午前九時までにはチェックアウトを済ませてるから、もし白浜さんの死亡時刻が九時以降であれば、宿泊客は全員白という可能性が高いわ」


 戻ってきた丸柴刑事は難しい顔をして、またベッドに同じように座り直すと、


「一応、宿帳から今朝チェックアウトした客の名前と連絡先は控えてるけど……理真、この事件って、どうなの?」

「どうって?」

「今朝の煙突の事件と関連はあるの?」


 それを聞くと理真は少しの間、黙してから、


「古橋さんと白浜さん、直接の繋がりはないよね。恐らく、土曜日のパーティーが初顔合わせのはず。そこでも、見た限りでは、軽い挨拶程度で、親しく話したりはしていなかった」

「二人の共通の知人は、有井麻矢子さん」


 丸柴刑事の言葉に、理真は再び黙する。丸柴刑事は構わずに、


「この二つの事件が同一犯の手による一連の犯行だとしたら、その中心にいるのは麻矢子さんよ。殺人事件だけじゃない。ストーカーのことも入れたら、三つの事件全てに麻矢子さんが大きく関わっているってことにならない?」

「加えて」と、ここで理真が口を開き、「五年前の薩摩さつまさん行方不明事件。薩摩さんも当時、麻矢子さんの恋人だった」

「そうね、回りで二人の男が死んで、ひとりは行方不明。自身もストーカーに狙われている。有井麻矢子って、何者なの?」

「何者ってことはないよ、丸姉、普通の女の子だよ」

「そうだよ」


 私も思わず声に出してしまった。


「……さて」と理真は、部屋の沈んだ空気を払うように立ち上がって、「由宇、今日はこのホテルに泊まろうよ。またろんちゃんが麻矢子さんを送っていって足がなくなっちゃったし」

「そうだね、明日朝から捜査に出るなら、ここに泊まったほうが早いね。この時間のチェックインなら、ちょっと値引きしてくれるかもしれないし」

「論ちゃんには私から連絡しておくわ。二人の帰りを待ってると悪いしね。私と警部も今日はここに泊まるわ。理真、由宇ちゃん、明日は朝六時に私の部屋に集合でいい?」


 私と理真は了承して、部屋を取るべくフロントに向かった。



 近くのコンビニで代えの下着類や簡単なメイク道具を調達して、私と理真は安く用意してもらったツインの部屋に戻った。

 シャワーを浴びてベッドに入り、照明を落とす。


「……ねえ、理真」

「何?」

「今度の事件だけどさ、古橋さんのときと同じで、アンドロイドなら犯行は可能だよね」

「由宇、また……」

 理真の呆れたような声が闇を隔てた隣のベッドから聞こえたが、私は構わず話し続ける。

「空を飛べるアンドロイドなら、犯行後、ロープも何も使わないで六階の窓から脱出可能。現場の人たちに目撃されても、記憶を消しちゃえばいいんだから」


 理真は何も言い返さない。私は更に、


「もし明日さ、現場の人が何も目撃していなかったら、他の部屋の宿泊客が全員白だったら、これも密室殺人になるね」

「……そうね」

「犯人は唯一現場に開放されていた窓から出て行くしかない、しかも、誰にも目撃されずに、これも形は違うけれど、古橋さんの事件と同じ空中密室殺人……」


 理真の声は返ってこない。寝息も聞こえないことから、黙ったまま何か考えているのだろうか。

 段々とまぶたが重くなっていき、恐らく先に寝息を立てたのは私のほうだった。



 翌朝、朝六時に私と理真は丸柴刑事の部屋を訪れた。

 丸柴刑事はコンビニで買ってきたカップコーヒーにお湯を注ぎ、私と理真に振る舞ってから、


「さっそくだけど、正確な死亡推定時刻が出たわ」

「さすがナルさん。徹夜だったんだろうね。お疲れ様」


 理真が夜を徹して司法解剖を行ってくれた鳴海なるみ医師を労った。


「でね、今朝チェックアウトした宿泊客は容疑者から除外してもいいかもね、白浜の死亡時刻は、午前九時から十時の間よ。その時間には全ての客がチェックアウトを済ませてる」

「部屋には戻れない。昨日言ったような、窓から窓への脱出経路は使えないってわけね」


 理真が言うと、丸柴刑事は頷いて、


「死因は刃物で腹部を刺されたことによる失血死。傷口は一箇所だけ。部屋をくまなく捜索したけど、やはり凶器は見つからなかったわ。犯人が持ち去ったんでしょうね。窓から投げ捨てた可能性があるから、これから隣の工事現場も調べるけどね」

「犯行を終えた犯人が壁伝いに窓から窓へ、他の客室に戻るという手段は使えない。丸姉、屋上は?」

「それも無理ね、ここの屋上へ続く扉は常時施錠されてるわ。鍵は支配人室にあるキーケースにマスターキーなんかと一緒に保管している。このケースにも施錠はされていて、その鍵は支配人が肌身離さず持ち歩いている。ディンプルキーだから専用の機械がないと複製を作るのも無理。屋上への出入りは考えなくてもいいでしょうね。近くにはここと同程度の高さの建築物はないから、忍者みたいに屋上伝いに飛び移ったりも不可能」

「となれば、犯人が白浜さんの部屋から脱出するには、窓から下りて地面に着地するしかない」

「そう。で、午前九時ともなれば工事現場は確実に動いているから、作業員には絶対に目撃されるでしょうね。昨日も現場が稼働していたことは、ホテルの人に聞いて確認済み。現場はいつも七時には動き出すそうよ」


 私は腕時計を見る。午前七時までまだ三十分以上ある。


「よし、朝ご飯食べて、チェックアウトして、七時十分前にロビーに集合」

 理真が立ち上がって次の行動を仕切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る