第9章 アンドロイド0指令
私と
二人で精読したが、一昨日の飲み会で
「同じだね」
捜査資料を閉じて理真が言った。
「何が?」
私が聞き返すと、
「麻矢子さんが電話をした直後に、薩摩さんは行方不明になって、古橋(ふるはし)さんは亡くなっている」
そういえば、古橋の携帯電話にも昨日の夜に麻矢子からの着信があったと会議で言っていた。
「偶然じゃない? それとも何? 麻矢子さんは電話で声を聞かせた相手を自在に操る能力があるとでもいうの?」
「そんなオカルト……」
やれやれ、といったふうに返した理真だったが、突然言葉を止めた。
「なになに? どうした?」
「
「え? 何が?」
「そっか、由宇はまだ全部読んでなかったのか。麻矢子さんの小説、『ケフェウスより愛を込めて』にね、それとよく似た場面が出てくるの」
「え? どういうこと?」
「主人公がね、声で人間の行動を操るの。ううん、主人公が、じゃなくて正確には、主人公の身代わりのアンドロイドが」
「……どういうこと?」
理真は、『ケフェウスより愛を込めて』の私が未読部分のストーリーを話してくれた。
地球人に興味を持った、ケフェウス星人の〈アルデ〉と〈ラミン〉により円盤の中に招待された主人公の『わたし』は二人の異星人に、地球人の生活や文化についての質問を受ける。最初は驚き、戸惑っていた『わたし』だったが、二人と会う回数を重ねていくうちに、このまま円盤に乗り二人と一緒に宇宙の旅に出たいと言い出す。その頃『わたし』は、付き合っていた恋人に振られ、仕事もうまくいかずに失意の底にあった。それを理由に『わたし』は、このまま地球にいてもいいことなど何もないと、円盤に乗って生まれた星を去りたいと告げたのだ。それを聞いた〈アルデ〉と〈ラミン〉は困惑する。
「では、地球での生活が満足行くものになれば、このままの暮らしを続けるんだな」と、異星人の二人は『わたし』の生活に介入を始める。その超科学力で、『わたし』にそっくりな
いよいよケフェウス星人の二人が地球を離れる日が明日に迫った日、『わたし』は二人にひとつのお願いをする。それは、アンドロイドを一日だけ貸して欲しいというものだった。〈アルデ〉は反対するが、〈ラミン〉のほうは「一日だけなら」と〈アルデ〉を説き伏せ、アンドロイドを貸し出すことを了承させる。このとき、地球に来たときには全くのコピーのようだった〈アルデ〉と〈ラミン〉の二人に、ある相違が生じていた。
翌日、〈ラミン〉はアンドロイドを回収し、円盤は空の彼方へと消え去る。『わたし』は見送りには来なかった。実はこのとき、『わたし』とアンドロイドが入れ替わっていたのだ。地球にアンドロイドを残し、『わたし』はケフェウス星人の円盤に潜り込むことに成功する。これにはアンドロイドを回収した〈ラミン〉の協力が不可欠だ。異星人の二人に生じていた相違、それは、〈ラミン〉のほうが地球人の感情を理解することに努めた結果、『わたし』に恋愛感情を抱くようになっていたということだった。
〈アルデ〉の目を盗み、〈ラミン〉と『わたし』は円盤内で時折逢瀬に耽った。食料や水は当然〈ラミン〉がこっそりと用意する。〈アルデ〉に二人のことを秘密にしていたのは、個という概念を消失したケフェウス星人に二人の関係を理解させることは不可能と〈ラミン〉が判断したためだ。事実、地球で同じようなものを見聞きしていたのも関わらず、〈アルデ〉のほうは地球人を調査対象としか見ておらず、人間の感情というものに一切の興味も理解も示していなかった。もし『わたし』が円盤に乗っていることが〈アルデ〉に知られたら、〈冷たい方程式〉を盾に〈アルデ〉は『わたし』を宇宙空間に放逐しようとするだろう。ただでさえ、ケフェウス星人に比べてエネルギー変換効率の悪い地球人は、二人よりも余計に食料と水を必要とするのだ。
一方、地球に残されたアンドロイドは、そつなく『わたし』としての生活を続けていた。見た目にはそれは、『わたし』と全く見分けがつかない。仕事も恋愛もこなし、友人ともうまく付き合い、上司との飲み会では下手な冗談に笑いもする。だが、それらは全てプログラムがやらせているに過ぎない。『わたし』型のアンドロイドには〈心〉がない。だが何の問題もなかった。〈心〉を見ることが出来る人間など存在しないからだ。かつての『わたし』が恋人に〈心から〉の愛情の言葉を紡ぎ、友人と観る映画に 〈心から〉涙し、上司が漏らす家庭での苦労話に〈心から〉同情していたそれらの行動と、アンドロイドがプログラムに沿って〈心のないまま〉行う全く同じ言動を、人間は区別することが出来なかった。
だが、さすがに〈物理的〉な違いを完全に覆い隠すことは出来ない。ある日、デートで岬を歩いていたときのこと、崖の縁に生えている花を摘もうとして恋人が足を滑らせてしまったのだ。その行動のきっかけとなったのは、アンドロイドが〈心ないまま〉発した、「あの花きれいだね」というひと言だった。 アンドロイドは地面を蹴って空中に投げ出された恋人に飛びつくと、そのまま体内の重力制御システムを起動させて宙を歩くように崖の上まで帰還を果たす。目を丸くする恋人。アンドロイドは恋人の耳元に口を寄せると、「今のことは忘れて」と囁く。その言葉はアンドロイドが発生させたシナプス信号を載せて恋人の耳から脳に届き、記憶中枢に働きかけて、花を摘もうとしてからの一連の記憶を消去する。何事もなかったかのように手を取って歩き出す二人。二人はもう崖の縁に生えている美しい花には目もくれなかった。
そこからアンドロイドは、箍(たが)が外れたように、脳に働きかけるシナプス信号音声を頻繁に使うようになる。それは記憶の操作に留まらず、脳の信号を操って簡単な動作なら人間の行動を操ることさえ出来るようになる。
「ねえ、それ、本当に恋愛小説なの?」
「ここからだって。現に、宇宙船に乗ったくだりとか、十分恋愛要素入ってるじゃん」
ここで『ジュリエット賞』受賞作の論評をしていても仕方がない。
「でも、偶然でしょ。それとも何? 麻矢子さんが電話で古橋さんを操って、死ぬように仕向けたとでも言うの? 五年前の薩摩さんも?」
「そんなことあるわけないでしょ。だいたい、そんなことが出来るってことは、麻矢子さんは人間じゃないってことだからね」
「アンドロイド……人造人間。でもさ、その本の通り、本当にアンドロイドがいたとして、人間と同じような受け答えをするのであればさ、それを見分けることは不可能だよね」
「〈哲学的ゾンビ〉ってやつね。今度試してみる? 麻矢子さんを高いところに連れて行って突き落とすの」
「何言って……理真、アンドロイドなら殺せるよね、古橋さんを」
「由宇……それは、アンドロイドが古橋さんを抱えて空を飛んで、空中で放り落とすってことね」
「そうだよ。で、アンドロイドの犯行と分からせなくするために、わざと煙突の近くを犯行場所に選んだ。被害者はあくまで煙突の上から飛び降り自殺をしたんだと警察に錯覚させるため」
「でも、普通の自殺とは違い、足から落とさなかった。しかも梯子が上れない状態で、落下位置の真上の足場が欠けて不安定だった、ということにも気が付かなかったと」
「そうそう」
「由宇のほうこそ、何言ってるの」
「うん、分かってる」
分かってる。そんなことがあるわけがない。
「とりあえず、今日は麻矢子さんのところに帰ろうか。
「そうだね」
理真は礼を述べて捜査資料を返却し、捜査課の部屋を出たが、
「そういえば由宇、今朝は論ちゃんに送ってもらったから、私たち足がないんだ」
「あ、そうだったね。どうする。迎えに来てもらう?」
「そうね……」
「あ、安堂さん、江嶋さん」
思案していたところに声を掛けられた。見ると、平松刑事が歩いてきていた。理真と私は顔を見合わせた。
「すみませんね、送ってもらっちゃって」
「いえいえ、安堂さんたちには便宜を図るよう、城島警部に言われていますから」
私と理真は、聞き込みから帰ってきた平松刑事の覆面パトで送ってもらうことにした。断られるかな? と思ったが、すんなりと了承してくれた。この平松刑事、年は二十代半ばくらいか。
「どうです? 何でしたら夕食でもご馳走しますよ」
ほらきた。若い男性刑事は、理真に対すると概ねこのような行動に出る。若くて美人の素人探偵に便宜を図るともなれば、こうなるのも無理はない。今朝現場で初めて会ったときと比較して、平松刑事の態度がかなり軟化しているのが分かる。しかし、初対面のその日にディナーのお誘いを受けるというのはなかなかない。
「ありがとうございます、平松さん。残念ですけれど夕食は遠慮させていただきますが、代わりにというか、ちょっと寄ってほしいところが」
「ええ、ええ、構いませんよ。はは……で、寄るところとは? コンビニですか?」
「いえ、現場に……」
平松刑事の覆面パトは人通りのない暗い道を抜けて、古橋の死体が発見された廃工場出入り口門の前に辿り着いた。
「本当に真っ暗ですね。まだ八時を回ったばかりですけれど、これなら深夜も似たような状況なんでしょうね」
理真は助手席を降りて門の前に立った。周囲を照らす光源は覆面パトのヘッドライトのみだ。
「そうですね。会議でも言っていましたが、この辺りは近くに民家もないですし」
平松刑事も車を降りる。私も理真の隣に行き門に手を掛けたが、
「あれ? 閉まってる」
「ええ、その門は常時閉めているそうなんです」と後ろから平松刑事が、「工場敷地内は昼にご覧になった通り、瓦礫が散乱していて、子供が入り込んで遊んで怪我でもされたら大変だというので。今朝は死体発見の報を受けて、警察車両が乗り込めるように管理者に連絡を取って鍵を預かってきたんですよ。で、誰もいなくなったら必ず施錠してくれと口ずっぱく言われまして」
「車両が乗り込めるような出入り口はここだけなんですか?」
「ええ、そうです。反対側にも裏口がありますが、そこは完全に人しか通れない狭い出入り口です。まあ、敷地を囲うフェンスも高さが三メートルくらいのものなので、人間が乗り越えようと思えば何てことはないんでしょうけれどね」
「平松さん、すみませんけれど、ライトを消してもらえますか?」
理真の要請を受けて、平松刑事はヘッドライトを消灯した。
「うわ」
思わず声が出た。辺りはほぼ真の闇。一、二メートル先にいる理真の顔はおろか、輪郭も見えない。
「この暗さの中、ここまで来てフェンスか門を乗り越えて、さらに煙突まで行くには、携帯電話のライトじゃ心許ないんじゃない?」
暗闇から理真の声がした。
「うーん、確かにそうかも」
私の声も理真には暗闇から聞こえているに違いない。
「あ、携帯には、通常よりも強力な光を出す〈フラッシュライト〉っていうアプリがあるよ。それを使ったんじゃない?」
私は言ったが、平松刑事の声が、これも闇の向こうから、
「私たちもそれを考えて古橋の携帯を調べたんですけれど、古橋は携帯にフラッシュライトは入れていませんでしたね」
「そうですか。平松さん、次に、遺体の発見場所に行ってもらえますか?」
更なる理真の要請で、工場のフェンス伝いに車は一度角を曲がり、犬の散歩中に老人が遺体を発見した道路に来た。
「さっきの門の前に比べて、こっちは随分と道幅が狭いですね」
「ええ、門の前は工場に出入りする大型車両なんかが通行しやすいように、ある程度道幅を取っていたんでしょうね。ここらの道はあそこ以外はだいたいこんなものですよ」
ヘッドライトに照らされた道は、私の歩幅で計ってみると四メートル半。車でのすれ違いは不可能ではないだろうが、かなり難しいだろう。
理真はフェンスに手を掛けて工場敷地内を見ながら、
「煙突に行くには、門からよりもここからのほうがずっと近いですね」
「ええ、そうですね。ここからならフェンスを越えれば五メートルから六メートルくらいしかないでしょう」
「門が常時施錠されているなら、どうせ門を乗り越える手間が掛かるため、ここからフェンスを乗り越えたほうがずっと早い」
「ああ、それについてですが、道路から直角に煙突に向かう位置、要は最短距離を結ぶ位置ですね、フェンスに人が乗り越えたような跡がみつかりました」
「それは、古橋さんがつけたもの?」
「そこまでの特定は出来ません。子供が遊んで入り込んでついたものかもしれませんし。ですが、さっきいた門のほうはですね、門の上に浮いた錆やゴミの溜まり具合からいって、ここしばらくあの門を何者かが乗り越えたとは考えられませんね」
「であれば、古橋さんはこのフェンスを乗り越えて敷地内に侵入した疑いが強い?」
「ええ。でもですね、ちょっとおかしなところがあるんですよ。古橋の車も近くの空き地から発見されたんですが、その空き地というのが、ここより遙かに門に近い場所なんですよ」
「えっ? それじゃあ、古橋さんは、門ではなく、わざわざ遠いこの位置のフェンスを乗り越えた可能性が高い?」
「そういうことになりますね。このフェンスよりも門のほうが遙かに低くて乗り越えやすいとは思うんですけれどね」
「……わざわざ門を乗り越えたくない理由があった? もしくは、この位置からフェンスを乗り越えて侵入する必要があった?」
「道路からの最短距離ではありますが、車を門の近くに停めて、わざわざ道路を通ってくるっていうのもおかしな話ですね。出来るだけ工場敷地内を歩きたくなかったんでしょうか?」
新たな謎が生まれてしまった。理真は少々考え込むような顔をしてから、
「平松さん、ちょっと中に入っても?」
「うーん、少しだけにして下さいね。そうなら門の鍵を借りてくればよかったな。安堂さん、道が狭くて車を道に対して直角に置けないので、ヘッドライトの明かりで照らすことは出来ませんよ」
「ええ、大丈夫です。由宇、ちょっと携帯のライトで照らしてて」
理真はフェンスに手を掛け足を掛け、上り始めた。私はその下から理真を携帯電話のライトで照らす。女の子があんまりはしたないことをしないでもらいたい。今日の理真はデニムパンツだからいいけど。そうこうしているうちに理真はフェンスの向こう側に降り立った。
「ねえ、私も行っていい?」
私も今日はデニムを履いてきている。
今度は理真に携帯電話で照らしてもらいながら、私もフェンスを乗り越えた。金網に手と足を掛ければどうということはない。女性の理真や私でも十分乗り越えることは可能だ。敷地内に降りると、二人で煙突を目指す。私の歩幅で計ってみたら、フェンスから煙突までは約六メートルあった。
「もし梯子に問題がなくても、これを上る勇気はないな。ましてや、この暗闇の中」
煙突を見上げながら理真が言った。私も同じように見上げながら、
「そうだね。でも、下が見えない分、明るいうちよりはかえって怖くないのでは?」
「それも途中までだよ。ある程度の高さになったらさ、町の明かりが目に入るじゃない。嫌でも高さを意識するって」
「ああ、そうか。あ、理真、でも、この暗さなら、煙突のてっぺんの一部が欠けているって分からないんじゃない?」
「そのせいで足を踏み外した? 死体が欠けている部分の真下だったのは、そのせい?」
「あり得るのでは?」
「でも待って、そもそもてっぺんには上られないんだよ。これじゃ」
理真は昼間に見た、一番下の段の折れた梯子に携帯電話のライトを向けた。
「結局そこに落ち着くのか……」
私はため息をついた。理真はもう一度上を見て、
「そう、この煙突の頂上に到達したければ、もう空を飛ぶしかないんだよ……『ケフェウスより愛を込めて』に出てきたアンドロイドみたいに」
私は携帯電話を上に向けたが、このライト程度の光量では、十九メートルもの高さを誇る煙突の頂上まで届くはずもない。煙突は真っ暗な夜空に溶け込むように、その威容をそびえ立たせていた。
私と理真は平松刑事に有井家まで送ってもらった。ありがとう平松刑事。理真とのディナーはまた今度の機会にね。
「ただいま」と小さく声を掛け、理真が玄関のドアを引くと、居間から降乃刑事が出迎えに来てくれた。
「おかえりー、理真ちゃん、由宇ちゃん」
「論ちゃん、麻矢子さんのこと、ありがとう」
理真が礼を述べると、降乃刑事は、ふるふると首を横に振る。
「麻矢子さんは?」
「早くに部屋に戻って寝たよ。すごく疲れてたし、何より凄いショックを受けてるし……」
降乃刑事は階段を見上げる。と、その階段を踏み降りる足音が聞こえ、麻矢子が姿を見せた。
「安堂さん……」
「麻矢子ちゃん、大丈夫――」
「安堂さん」
部屋着姿の麻矢子は、理真を見るなり階段を駆け下りてきた。手には携帯電話を握っている。その表情には、疲れというよりも、何か不安そうな色を浮かべている。私たちの前に駆けてきた麻矢子は、
「安堂さん、降乃さんに、江嶋さんも……」
「どうかしたの? 麻矢子さん」
理真も、麻矢子の様子にただならぬものを感じ取ったようだ。麻矢子は一度私たち三人の顔を順に見て、
「し、
「白浜さん? 編集者の?」
理真が問い直すと、麻矢子は首肯する。確かフルネームは白浜
「本当は今日も昼から原稿の打ち合わせがあったんですけれど、朝からあんなことがあったもので、私、すっかりそのことを忘れていたんです。で、降乃さんに送ってもらって家について、時間が経って落ち着いたら打ち合わせのことを思い出して。白浜さん、私がすっぽかしたから連絡くれてるかなって思って携帯を見たんですけれど、白浜さんからの着信やメールは全然なくって。で、私、何度も電話してみたんです。でも、全然出てくれなくて……」
「どれくらいの時間電話に出ないの?」
「二時間くらい……おかしいから降乃さんに相談しようと思ってたら、ちょうど安堂さんたちが帰ってきたから……」
「白浜さんのこっちへの滞在予定は?」
「明日までです。明日の朝チェックアウトして、そのまま在来線と新幹線で東京へ帰るって言ってました」
「麻矢子ちゃん、白浜さんの番号教えてくれる?」
理真は自分の携帯電話を取りだして、麻矢子の告げる番号をダイヤルする。しばらく携帯電話を耳に当てていたが、
「出ない。十回くらいのコールで伝言モードになるわ」
「やっぱり……」
麻矢子は不安そうな表情をさらに色濃くした。
「理真ちゃん、行ってみる?」
降乃刑事は懐から覆面パトのキーを取りだした。理真は頷いた。
降乃刑事の運転する覆面パトの助手席に理真、後部座席に私と、急いで出かける支度を済ませた麻矢子が乗り込み、白浜が宿泊しているホテルを目指した。この座席の配置、朝に古橋の死体を確認するため出かけたのと全く同じ乗車位置だ。当然私と理真、降乃刑事も朝の格好のまま。部屋着から着替えた麻矢子も、朝と同じ服装をしている。車窓の外が夜であることを除けば、まったく朝の行動の繰り返しのようだ。朝は向かう先に古橋の死体があった。今度も? まさか、そんなことが……
夜で車の通りも少なかったため、思っていたよりも早くホテルに着いた。駐車場に覆面パトを滑り込ませ、停車と同時に理真は助手席を降りてフロントに走る。
「麻矢子ちゃん」
私は俯いている麻矢子に声を掛けた。麻矢子は一度頷いてから車を降りた。私の手は借りずに、自分の力だけで。
「警察です」降乃刑事が警察手帳を開示しながらフロントに向かい、「御協力お願いします」
そのひと言でフロントの係員はカウンターの受話器を取った。どうやら、いち早くフロントに駆けつけた理真が白浜のことを訊いていたが、顧客情報がどうのこうのと、フロント係は対応を渋っていたようだ。降乃刑事の掲げた手帳の効果は抜群だった。
「お出になりません」
数秒間受話器を耳に当てていた係員が言った。
「部屋に入れて下さい。緊急です」
理真の声と一緒に、降乃刑事は再び警察手帳を見せた。
マスターキーを手にした支配人と男性の係員が付き添い、私たちは白浜が宿泊している部屋を目指した。全員がエレベーターに乗り込むと、係員は〈6〉の階数ボタンを押す。パネルにあるボタンの中でそれは最も大きい数字だった。すなわち、このホテルは六階建てということだ。
「こちらです」
エレベーターを降りると、左右に分れた廊下の左側に係員は向かった。〈610〉のプレートが掛かった部屋の前で止まると、係員はドアをノックした。
「お客様……お客様」
全く反応はない。すかさず理真が、
「ドアは? 開いてますか?」
「オートロックです」
「開けて下さい」
理真が言うと、支配人が鍵穴に差したマスターキーを回す。解錠された金属音が聞こえ、支配人はレバー型のドアノブに手を掛けて倒し、押した。が、ドアは十センチも開かぬうちに、ガチリ、という音とともに動きを止めた。
「チェーンが」
支配人が言ったように、内側からチェーンが掛かっている。理真は支配人とドアとの間に体を滑り込ませ、隙間から室内を窺い、「白浜さん!」と何度か声を掛けたが、応答は一切ない。
「理真、中は?」
「分からない。この角度じゃ、壁際のテーブルしか見えない」
私の問いかけに答えた理真は、ドアの隙間から顔を離すと、
「チェーンを切断するものを。あと、救急も。急いで下さい」
支配人は係員を促して走らせた。救急には降乃刑事が携帯電話で連絡する。理真はドアの隙間に足を入れて押さえたまま、もう一度室内に声を掛ける。
「理真、白浜さん、出かけてるんじゃない?」
「由宇、チェーンが掛かってるんだよ」
「そうだった」
バカなことを言ってしまった。支配人は突然のことに動揺しているのか、落ち着きなくマスターキーを手の中でもてあそび、降乃刑事は救急への通報は終えていたが、まだ携帯電話を強く握っている。麻矢子は、と見ると、腰の前で手を組んだまま俯いていた。
一分ほどで係員はチェーン切りハサミを手に戻ってきた。
係員はドアの隙間にハサミを差し込んで力を入れる。数度の挑戦でチェーンは切断された。真っ先に理真がドアを押し開け部屋に駆け込み、私、降乃刑事、支配人と続いた。
「ふはぁっ!」
と支配人が風船から空気が抜けるような悲鳴を上げて壁に背中をついた。私と降乃刑事は絶句した。理真は携帯電話を取りだしてダイヤルする。その僅かな間も、視線は緊張を孕みベッドの上に注がれている。風が頬を撫でた。部屋の窓が開いているのか。だが、今の私には窓に目を向ける余裕はない。理真と同じくベッドを凝視している。恐らく降乃刑事と支配人も同じだろう。
「死体が発見されました、場所は……」
理真の冷静な声だけが聞こえる中、ベッドの上では編集者の白浜和夫が腹部から血を流し、息絶えていた。
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