第7章 第四惑星の悪夢

 今朝早く、犬の散歩をしていた老人が、いつものコースである近所の廃工場脇の道路を歩いていた。工場の敷地と道路とは高さ三メートル程度のフェンスで隔てられており、一際目立つのは工場の煙突だ。煙突はフェンスから数メートル先にあり、周囲に他の建築物はないため、道路からは煙突の根本まで完全に見通せる。

 その煙突の根本に何かがあった。先を急ごうとする愛犬のリードを引き、老人はフェンス際まで近寄って目を凝らす。数メートル先の煙突の根本に横たわるものが何か、近づいたことではっきりと目撃した老人は、その場にへたり込んだ。若い男性が仰向けに倒れており、手足をぴくりとも動かしていなかった。老人は携帯電話で救急へ通報した。

 現場に駆けつけた救急隊員は、煙突の根本に倒れている男性がすでに死亡していることを確認した。スニーカーを履き、下はデニム、上はTシャツに薄手のジャケットを羽織っていた。懐に入っていた財布の中の免許証写真と死亡している男性の顔を照らし合わせて、同一人物であると確認した。死亡者は古橋由起夫ふるはしゆきお、二十三歳。

 救急から所轄署に通報が成され、県警にも連絡が行った。一報を受けた新潟県警捜査一課の丸柴栞まるしばしおり刑事は、現場が柏崎かしわざき市内であったため、柏崎市に出張中である生活安全部の降乃論子ふるのろんこ刑事に連絡。名前を聞いた降乃刑事は、死亡者が現在理真りまが関わっているストーカー事件の関係者であることを告げ、丸柴刑事は理真に連絡を取った。



 私と理真は急いで朝食を掻き込むと部屋に戻り、出かける支度をした。降乃刑事が覆面パトで迎えにきてくれ、麻矢子まやこも加えた四人で現場へ向かう手はずとなっている。

 降乃刑事が来るまで時間があるので、体力をつけるためにも朝食はとったほうがいいと言ったが、麻矢子は古橋の訃報を聞いてから一切食事に箸を付けなかった。無理もないことではあるが。

 放心状態だった麻矢子は、母親の秋枝あきえに手伝ってもらい外出する支度を調えた。

 私、理真、麻矢子の三人は、玄関に出て降乃刑事の到着を待っている。麻矢子は未だ母親の秋枝に支えられるようにして立っている状態だ。

 エンジン音が聞こえ、覆面パトが有井ありい家の前に乗り付けた。理真が助手席、私は麻矢子とともに後部座席に乗り込んだ。麻矢子はもうひとりで歩けるようだった。


「間違いないの? 古橋さんに」

「ええ、免許証の写真で確認したけれど、面識のある人にも直(じか)に確認してほしいの。ご両親は共働きで到着にはちょっとかかるみたいだから」


 助手席と運転席での会話が成され、それを聞いていた麻矢子は震えだした。私はそっと麻矢子の手を握る。麻矢子は見上げるように私の目を見た。幾分か震えは収まったようだ。



 十数分車を走らせて現場に到着した。〈マルスファクトリー〉と書かれた錆びた看板の掛かる廃工場の門を抜け、すぐそばに建つ二階建ての建物脇に車を停める。他にも覆面パトと思しき車両にパトカーが数台と鑑識車両も停めてある。


「県警の降乃です」


 運転席から降りるなり、近づいてきた制服警官に降乃刑事は警察手帳を開示する。「身元確認ですね。どうぞこちらへ」と警官の案内に従い、私たちは向こうに見える煙突を目指した。その根本の一区画はブルーシートで囲われている。理真は麻矢子に、ここで待っていたほうがいいのでは、と言ったが、麻矢子は自分も行く、と気丈な様子で車を降りた。私はここでも麻矢子の手を握った。

 警官が上げてくれたシートをくぐり、降乃刑事、理真、私の順に中に入る。

 私の足が止まった。正確には、止められた。私のすぐ後ろに続く麻矢子が、シート内外の境界上で立ち止まったためだ。手を引いたままのため、麻矢子に引かれるように私も足を止めざるを得なかったのだ。


「麻矢子ちゃん、やっぱり……」


 私の声に麻矢子は、「ごめんなさい」と詫びてから、ゆっくりと境界を跨いだ。降乃刑事と理真はすでに煙突の根本、死体のそばに立っている。私は麻矢子の両肩を抱きかかえるようにして理真の隣まで歩を進めた。


「……古橋くん」


 消え入るような麻矢子の声とともに、両手に掛かる重みが一気に増した。理真と降乃刑事も手を貸してくれて、私たちは何とか麻矢子がコンクリートの地面に倒れるのを防いだ。私も肩越しに仰ぎ見る。理真と降乃刑事もそれを認めた。顔を天に向けて仰臥しているのは、古橋由起夫、その人に間違いなかった。

 私と理真は工場敷地入ってすぐの建物内の部屋に入った。捜査員たちの臨時の休憩所として使われるようだ。現在いるのは私と理真の二人だけだが。麻矢子はショックが大きかったようで、覆面パトの助手席シートを倒して横になり、運転席には降乃刑事が付き添ってくれている。


「失礼します」と背広姿の男性が入室してきた。私と理真に向かって警察手帳を開示しながら、

「私、日吉ひよし署捜査課刑事の平松ひらまつです」


 と頭を下げた。所轄署の刑事さんだ。私と理真も同じように会釈をすると、平松刑事は、


安堂あんどう理真さんと江嶋由宇えじまゆうさんですね。ご活躍は耳にしています。このような不幸が起きてしまいましたが、お二人がこちらにいらっしゃったのは幸いでした」

「どういうことですか?」


 理真の表情が怪訝なものになる。平松刑事は、ひと呼吸おいて、


「死体の所見におかしな点があるのです。一緒に見ていただけないでしょうか」



「状況を見るに、煙突からの飛び降りではないのですか?」

「検視ではそう見られていました。現に警察医による検死でも、高所からの転落による内蔵損壊と脳挫傷が死因ということです。ですが……詳しいお話は現場で」


 理真と平松刑事が話しながら歩いているうちに、私たちはブルーシートで囲われた中に再び足を踏み入れた。

 古橋の遺体を前に平松刑事は話を再開する。


「先ほども話した通り、死因は転落による傷と見て間違いがないようなのですが、警察医の話をまとめるとですね。これは自殺と断定出来ないと。というのもですね、通常、自殺による飛び降りというのは、立った姿勢のまま足を下にして落ちるのがほとんどだというんです」

「なるほど。でも……」


 理真は改めて古橋の遺体に目をやった。投げ出された古橋の両脚は綺麗なままだ。


「そうなんです。足を下にして飛び降りた場合、死体がこのような状態になることはあり得ません。まず真っ先に足の裏が地面につくわけですから、両脚が複雑に折れてしまうはずなんです。死体に転落による衝撃を受けたと思われる箇所は、背中側にしか認められません。この男性は、背中を地面に向けた、まさのこの状態のまま落下したということになります。そんな落ち方の自殺というものは聞いたことがありません」

「ほとんど出血がありませんね」

「ええ、死因は内蔵と脳へのダメージで、大きく傷が開くようなことはなかったため、出血はほとんどなかったのではないかとのことです。鼻や口からの若干の出血が衣服に付着しています。で、次にですね、お二人とも、こちらへ」


 平松刑事は私と理真を煙突のそばに促した。そこには煙突に上るための梯子が取り付けてある。梯子といっても、カタカナの「コ」の字型の鋼棒を等間隔で煙突に直接取り付けてあるものだ。これを掴み、足を掛けて煙突を上るのだろう。最初の一段は地面から数十センチの高さに取り付けてある。が、その梯子は真っ赤に錆びており、しかも、真ん中から折れてしまっている。平松刑事はその梯子を指さして、


「うちの刑事が試しに上ってみようとして足を掛けたらこうなりました。これだけでなく……」


 平松刑事は視線を上げていく。その一段目を皮切りに等間隔で上へと続く梯子のどれもが、同じように真っ赤な錆を浮かせている。


「ここは海に近く、海風を遮る高層の建築物もないため、このようになってしまったと考えられます。煙突自体も建てられてから何十年も経っているそうなので」


 平松刑事は手の高さにある梯子を掴んで、ぐいと引いたが、それだけでその梯子は一番下のものと同じように折れてしまった。それを見て理真は、


「そういうことですか……」

「そうなんです。で、最後に」


 平松刑事は懐から小型の双眼鏡を取りだし、理真に渡すと、


「煙突の先端をご覧下さい」


 と上空を指さした。理真は数十秒間覗いてから双眼鏡を私に手渡した。私も平松刑事のナビで煙突の先端に双眼鏡を向ける。あれか。私が双眼鏡から目を離すと平松刑事が、


「煙突の先端の一部が欠けているのがご覧になられたでしょう。コンクリートの劣化に加え、台風などで飛ばされてきた何かがぶつかったのだと考えられます。その欠けた箇所の真下がですね……」


 平松刑事は欠けた煙突先端に向けていた指をゆっくりと下ろしてくる。地面に到達した指は、古橋の死体をさしていた。欠けた先端の真下に古橋の死体はあるということになる。


「自殺、ではありえないようですね……」


 理真は納得したように口にした。

 詳しい煙突周囲の状況を確認する。錆び付いた梯子は煙突の西側についている。古橋の死体は煙突の南側、根本からは一メートルほど離れた場所にある。煙突先端の欠けた位置も死体の直上、南側ということになる。煙突の根本から南側にまっすぐ行くと、五、六メートルほどで工場敷地と公道を隔てるフェンスに行き着く。フェンスの向こうの公道は道幅約五メートル弱。周囲に高層の建物はない。


「ここはご覧の通りもう使われていない廃工場で、工場敷地内の建物は、あらかた解体し終えています。門を入ってすぐの二階建ての建物だけが、解体業者などが休憩所や事務所として使うために残してあるだけだそうです。煙突は高さがあり、低層の建物と同じように重機でバキバキと解体するというわけにはいかず、解体には手間と費用が掛かるため、最後まで放って置かれているそうです」


 平松刑事の説明を聞き、理真は、


「死亡推定時刻は? どれくらいでしょう」

「はい、おおよそ、本日未明、午前零時を境に前後一時間程度、すなわち、昨夜午後十一時から今日の午前一時の間だと見られます。解剖の結果、この範囲はさらに狭まる可能性はありますが」

「最後に確認しますけれど、遺体に動かした形跡は? それと、遺体のダメージはどれくらいの高さからの落下によるものなのでしょう」

「死斑の状態から、死体に動かされた形跡は認められません。被っているダメージも、詳細には解剖してみなければ分かりませんが、およそ二十メートル程度の高さから落下したことによるものと見られています。この煙突の高さが十九メートルです」


 理真は改めて煙突を見上げて、


「ここから落ちた以外に考えられない……でも」


 理真の視線は煙突に取り付けられた梯子に移り、


「この煙突に上られたはずがない。しかも、落下位置の真上は先端が欠けている。よじ登ることが出来たとしても、わざわざそんな足場の悪い場所を選んで飛び降りるとは考えられない。そして、遺体の落下状況。背中を下にして落下している……」

「他殺の疑いが非常に高いです、でも、どうやって?」


 平松刑事の問いかけに答えるでなく理真は、


「平松刑事、遺体に他に何かおかしな点などはありましたか?」

「はい、ひとつ」


 と平松刑事は古橋の遺体のそばに寄り、その右手を指さした。


「何か握っていたような形をしているでしょう」


 確かに、古橋の右手は、見えない何かを握っている、といった形になっている。平松刑事は懐から証拠品を入れるビニール袋を取りだし、


「発見時、死体は右手にこれを握っていました」


 私たちの前に差し出した。これは。理真も透明なビニール越しにそれを見て唸る。中に入っていたのは、黒字に青と白のチェック模様が入ったスマートな眼鏡ケースだった。


「死体の所持品は、握っていたこの眼鏡ケースと財布、携帯電話、それからキーケースです」

「キーケースに車のキーは?」

「ありました。そして、古橋の車もこの近くで発見されています。工場出入り口の門から数十メートル離れた空き地です。ちなみにこの中には……」

 平松刑事は手袋をした手で、ビニール袋から取り出した眼鏡ケースを開けて、

「ちゃんと眼鏡は入っています」


 ケースの中には、昨日私たちが見たものと同じ、アンダーリムの眼鏡が収まっていた。



 古橋の死体は運ばれていった。これから司法解剖に回されることになる。現場を囲っていたブルーシートも取り払われ、事故、いや、事件の痕跡を物語るものは、コンクリートの地面に張られた人型のテープのみだ。

 シートがなくなったことで、改めて理真と私は現場周囲を見回す。確かに、この煙突の他に建物はない。すでに撤去された建物の跡であろう、かつて壁だった部分が僅かに地面から盛り上がっているところが、そこかしこに点在するのみだ。広いコンクリートの平原にそびえ立つ煙突。そのたもとで発見された死体。どう見ても煙突に上り転落死したとしか考えられない。だが、その煙突に上ることは不可能なのだという。

 理真は煙突に付けられた梯子を掴み、ぐいぐいと揺する。女性の力ではさすがに折れはしないようだが、揺すられる度に錆がぼろぼろと剥がれ落ちる。

 私は、ハンカチで手に付いた錆を拭いている理真に、


「理真、どういうことなの、これ?」

「分からない……とりあえず、麻矢子さんのところに戻ろう」


 私と理真は降乃刑事の覆面パトに戻った。麻矢子は倒した助手席シートに横たわり、寝息を立てていた。体には降乃刑事のものだろう。ネコの柄のブランケットが掛けられている。


「大変なショックだったんでしょうね。泣いてたけど、すぐに寝ちゃった」


 運転席から降りてきた降乃刑事が言った。麻矢子の目尻には涙の跡が見える。理真は麻矢子から視線を降乃刑事に移して、


「論ちゃん、悪いけど、もう少し麻矢子さんのこと、お願い出来る?」

「もちろん」と降乃刑事は笑顔で胸を叩いて、「で、理真ちゃんたち、所轄の刑事さんに呼ばれてたよね。何かあったの?」

「それがね……」


 理真は平松刑事から聞かされた死体の状況と、その不審点を話した。


「じゃあ、自殺じゃない……?」


 聞き終えて唖然とした表情の降乃刑事に、理真は、


「可能性が完全に消えたわけじゃないけど、状況的にね」

「でもでも、今の理真ちゃんの話じゃ、煙突には上れないんでしょ? それなのに転落死って……」

「――理真」


 私は小さく声を出した。私の視線を追って理真と降乃刑事も助手席を見る。麻矢子はまぶたを開けていた。麻矢子は、その虚ろな目を私たちに向けると、


「殺されたんですか? 古橋くん……」

「麻矢子さん、それは」

「どうして……誰がそんなことを……」


 理真が二の句を告げられぬまま、麻矢子はシートに顔を伏せて泣き出した。

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