第6章 ダーク・ゾーン
ナビに従いハンドルを握る
「あ、気球」
降乃刑事が園内上空を指さした。そこには気球が浮かんでいる。よく見ると、浮かんでいると言っても完全に自由に浮いているわけではなく、気球に釣られたゴンドラの四方からロープが伸び、地上と繋がれているようだ。
園内に入り気球の体験イベント会場に来たが、
私たちは風船を手にした降乃刑事と合流し、ベンチで青い気球が下りてくるのを待つ。数分の後、気球が高度を下げ始めると、私たちはベンチから腰を上げた。
「お待たせしてすみませんでした、
つなぎ姿の塔子がゴンドラから降りてきた。理真と私も、「お仕事中にすみません」と頭を下げ、降乃刑事を紹介した。
「刑事さん……ですか」
塔子の声には明らかに「こいつが?」というニュアンスが込められている。無理もない。何も知らなければ、お下げの三つ編みにピンクの縁の眼鏡を掛けて黄色いキュロットスカートを履き、かわいいネコのバッグを提げ、とどめに右手に風船を持ったこの女性が刑事であると看破できる人間はいないだろう。
私たちは塔子たちの控え室で話を聞くことになった。今の時間休憩中なのは塔子だけだそうなので、他の誰の耳にも触れることなく話が出来るのが好都合だ。理真は
「眼鏡……ですか?」
「何か心当たりが?」
理真も当然その反応を見逃すはずがない。が、塔子は、
「い、いえ、ストーカーが眼鏡だなんて、って思っただけで……」
眼鏡を掛けたストーカーがいておかしい道理は全くない。塔子は明らかに何かを知っている。そして口ぶりからは、それについては話したくないという含みも同時に伝わってくる。塔子が目を伏せた隙に理真と目が合った。どうする? 突っ込む? 理真の目は、今はやめておこう、と告げていた。
係員が塔子を呼びに来たタイミングもあり、私たちは礼を言って控え室を辞した。塔子は小さく頭を下げただけで、足早に私たちの前から姿を消した。
「理真ちゃん、あの塔子さんって、何か知ってるでしょ。もっと詳しく聞き出せばよかったのに」
パスタをフォークでくるくる巻きながら、降乃刑事はご立腹だ。
「そうは言うけれどね、
理真はハンバーグを箸で切り分けながら答える。私は、ぐつぐつに熱いドリアにまだ手を付けられないまま、
「あの反応、塔子さんは眼鏡を掛けている人物に心当たりがある? ということは、その人物は、麻矢子さんにストーカー行為を働いている可能性もあるってことだよね?」
「そうね、しかも、塔子さんはその人物を、かばいたがっている」
理真の返しに私は頷いた。塔子が心当たりのある人物の名を口にしないというのは、その人物に嫌疑を掛けたくないと思っているということだ。
「塔子さんがかばいたがって、麻矢子さんにストーキングする可能性がある人物……」
「……古橋さん」
ひとりごとで呟いたのだが、その私の言葉に、ぼそりと理真が名前を出した。
「でも、眼鏡を掛けてないよ?」
「うん。それは、これから確かめましょう。
私と降乃刑事は頷いた。
夕方になり、指定された時刻ちょうどに古橋が勤めている書店についた。自動ドアをくぐり「いらっしゃいませ」と店員の声に迎えられる。レジに古橋の姿はない。理真が店員に訪問の理由を告げると、「どうぞ、奥へ」と店員は私たちをバックヤードに案内した。
「すみませんね、この時間が上がりなもんで」
通された休憩室では、書店のエプロンをしたままの古橋が待っていた。椅子を勧められた私たちは腰を下ろし、例によって降乃刑事を紹介すると、
「まじで? 刑事さん?」
古橋は好奇の目を隠さずに、まじまじと降乃刑事を見る。それに気をよくしたのか、降乃刑事も手を振って答える。いや、古橋の反応に、別に気をよくする要素は一切ないのだが。
理真は聞き込みを始める。麻矢子がストーカーに尾行されていたらしいことに話が及ぶと、
「何ですって? それで、マヤちゃんは?」
古橋は腰を浮かせた。何の被害もないと理真が言うと、古橋は安心したように椅子に座り直す。理真は尚も古橋と話を続けているため、私は降乃刑事と目を合わせた。古橋の今の反応、心底驚いていたように見えたが。それが通じたのかは分からないが、降乃刑事は小さく頷いた。
古橋は、私と理真が図書館で会った
「そうですか……」と理真は一旦言葉を切ってから、「古橋さん、ご職業柄、本はよくお読みになるんですか?」
「ええ、一応。うちはご覧の通り、店舗は結構広いですけれど大手チェーンじゃなくて個人店で、店舗はここと市内にもう一店舗、支店があるだけです。なもので、店長が独自色を出すために〈店員のお薦めコーナー〉を設けて、月に一冊、店員が持ち回りでお勧めの本を紹介するってことをやってるんですよ。それなもので。もちろん、マヤちゃんや安堂さんの本は常時コーナーを作ってますよ」
「恐縮です」
理真は深々と
「私もやっぱり職業柄、よく本を読むのですけれど、たまに昔の本なんかを読むときに、どうも目が疲れてしまいますね。昔の本は字が小さいですから。特に文庫本なんて、字は小さいわ印刷技術のせいなのか掠れてるわで」
「ああ、分かります。俺もそのせいなのかな。最近近視気味で」
と古橋はエプロンのポケットに手を突っ込み、中から何かを取りだして、
「眼鏡、作っちゃいましたよ」
それは、黒地に青と白のチェック模様が入ったスマートなデザインの眼鏡ケースだった。
「ちょっと離れた棚の本の背表紙も読めないくらいになって、業務に支障が出るものですから。……どうかしましたか?」
古橋は、理真が私、降乃刑事と目を見合わせていたのを見たのか、怪訝な表情をした。理真はすぐに古橋に向き直り、
「いえ。古橋さん、眼鏡はいつ頃から?」
「半年くらい前からです」
「そのこと、古橋さんが眼鏡を掛けていることを、友人の皆さんはご存じなんですか?」
「ええ、塔子は知っています。いや、俺、眼鏡なんてキャラじゃないんで、出来ればみんなには内緒にしたかったんですけれど、眼鏡屋から出てくるところをたまたま塔子に見られてしまいまして。でも、マヤちゃんや真鍋には内緒にしておいてくれって頼んだんで、他の二人には漏れていないと思います」
古橋は、パカンと音を立ててケースを開けた。中には細身のアンダーリムの眼鏡が入っていた。
私たちは書店を辞した。
石黒塔子が知っているらしい、眼鏡を掛ける習慣のある人物というのは、古橋由起夫のことである可能性が高まった。そして、古橋であれば、塔子が彼のことをかばいたがる気持ちも見当がつく。真鍋の話で、塔子が古橋に好意を持っているということが分かったからだ。
ストーカーの正体は古橋? いや、ただ眼鏡を掛けているということが一致しているだけだ。しかし、麻矢子の周囲で眼鏡を掛ける人物というのは今のところ彼以外に上がっていない。動機もなくはない。古橋は麻矢子が好き。だが、
「古橋さんって、ストーカーするような感じの人には見えないよね」
ハンドルを握りながら降乃刑事が言った。そうなのだ。ストーキングという行為と古橋由起夫という人物が重ならない。理真も同意なのだろう、助手席で頷いている。
釈然としないことが多いが、とりあえず久しぶりに三人で飲もうということになり、降乃刑事の宿泊する駅前ホテル近くに居酒屋を探し暖簾をくぐる。理真は
乾杯をしてから私たちは、ここまでの事件(といえるほどの事件は表面化していないのだが)の総括をした。主に降乃刑事に聞かせるためだ。
まず、事の起こりはジュリエット賞受賞者、有井麻矢子が審査員の
その日の夜、麻矢子の友人たちと一席設けた。工事現場で会った真鍋
そして、その薩摩についておかしな事を言っていた少年、星野翼。私と理真が図書館で薩摩失踪時の新聞記事を閲覧していたときのこと、理真が呼び止めた星野少年は、「薩摩という人は宇宙人に殺された」と謎の言葉を言い残して去っていった。その殺人犯の宇宙人というのが、
「ケフェウス星人? それって、ウルトラマン何に出てきた宇宙人?」
キャラクターに似ず、渋く日本酒の杯を傾けていた降乃刑事が訊いてきた。
「ウルトラマンじゃなくって、麻矢子さんの著作に出てくる宇宙人よ。タイトルにもなってる。『ケフェウスより愛を込めて』論ちゃん、読んでないね」
理真が、こちらはカクテルを飲みながら。
その星野少年だが、麻矢子も友人らも誰ひとり知らないと言っている。真鍋ら友人の話では、麻矢子は面倒見がよく、年下の子供によく世話を焼いていたというので、その中のひとりではないかとのことだったが。
だが、星野のほうでは麻矢子を知っているような素振りを見せていた。本屋でのことだ。本屋で星野は、『ケフェウスより愛を込めて』の著者近影の載っている表紙裏の見返しを眺めていた。その姿を目撃したことが、図書館で理真が偶然見かけた星野に声を掛けるきっかけとなったのだ。
「ケフェウス星人が五年前に薩摩を殺した?」ケフェウス星人なんていうものが本当にいるとは当然思ってもいないが、星野のこの言葉は何を意味するのだろうか? 今度のストーカー事件と何か関係があるのだろうか? 星野の言葉を半分でも信じるなら、犯人は宇宙人ではないにしても、では薩摩はすでに死んでいる?
「理真、あの星野くんっていう少年にも、詳しく一度話を聞いてみたほうがいいんじゃないかな?」
私は生ビールを喉に流し込んで言った。
「そうね。宇宙人が犯人なんていう荒唐無稽な話は別にしても、殺されたっていう発言は穏やかじゃないわよね」
理真も酒で赤くなった顔に神妙な表情をかぶせる。
話はストーカーに戻る。麻矢子は飲み会の帰り道、気配を感じて振り返り一喝した。すると、電柱の陰から何者かが飛び出し一目散に逃げ去ったという。その人物が振り返る刹那、街灯の光に反射して目が光ったとも麻矢子は証言した。恐らく眼鏡を掛けていたのであろう。そして今日、古橋が近視のため眼鏡を掛けることがあると分かった。
「で、理真、これまでの情報から、何か分かったことは?」
「うーん……何もなし」
「おい」
一応、私は突っ込んだが、無理もないといえる。古橋がストーカーだと考えるのは早計に過ぎる。星野少年の謎の言葉についても詳しく話を聞く必要があるだろう。麻矢子も何か思い出すかもしれない。事件についての話はこれくらいにして、私たちは飲んで楽しむことにスイッチを切り替えた。
トイレに立ったついでに、私は店の外に出て夜風にあたった。厚い雲が垂れ込めているのか、夜空に星は見えない。頭上に広がるのはただひたすら、真っ黒なだけの領域。と、雲に切れ間が出来たのか、星の明かりがひとつだけ覗いた。
星。私たちの立つこの地球も、あの星から見れば、夜空に瞬くちっぽけな点でしかないのだろうか。それを見て知覚出来る存在がそこにいるとしてだが。
私は、「異星人などいない」と言い切ってしまうのには抵抗がある。この無限に広がる大宇宙で、生命の存在する星が地球ただひとつ、知性を持った生命が地球人だけであると考えるのは、あまりにおこがましいのではないかと感じるためだ。ただ、いることと、彼我の文明が接触することとはまた別だ。
もし、地球人と異星人が接触する機会があるとしたなら、それは間違いなく異星人のほうからコンタクトを取ってくる場合だろう。我々地球人は大宇宙に乗り出して異星人を捜す、会いに行く手段を持っていないため当然だ。遙か宇宙の彼方から地球にやってくるともなれば、その異星人の科学力は地球人には及びもつかないほどに凄まじいことに疑いはない。
よく言われる異星人来訪否定論に「異星人が地球に来た、来ているという何の証拠も見つかっていない」というものがあるが、我々は地球の科学レベルでしか考えることが出来ないのに、どうしてそう言い切れるだろうか。我々にはまったく感知されない、その痕跡すら完璧に残さない、記憶にも留めさせない、何か特殊な技術を用いている可能性だってあるはずだ。
確かに、あまりに荒唐無稽は話ではある。無限の広がりを持つ宇宙から、文明を持つ生命体が存在する星を探し出し、(明らかな人工のものや、自然発生するとは思えない電波や赤外線を宇宙からキャッチしようとする試みは、この地球でも成されているという)そこまで到達する。尋常な話ではない。それほどまでに発達した科学をもった異星人が、仮にこの地球に来ることが出来たとして、どうして一切のコンタクトもせず、その存在を明らかにすることがないのか。この理由にも諸説あるそうだが。
私は昔、勤め人だったころ、よく宇宙のことに思いを馳せていた。宇宙が生まれて百億年以上。私の立つこの地球が生まれて四十五億年。生物が誕生してから三十五億年。人類が誕生してからは、一万年も経っていない。それらに比較したら、人の一生なんていうものはあまりにちっぽけで、個人の人生など、あってもなくてもどっちでもいいようなものだ。どうしてこんな退廃的な考えをしていたかというと、「自分の仕事上のミスなんて、地球規模、宇宙規模の視点で見てみれば、ないに等しい」などと現実逃避をするためだった。
私は深呼吸をして、店内の籠もった空気から夜の深とした空気に肺の中身を入れ替えると、理真と降乃刑事の待つテーブルに戻った。
よその家にお世話になっている身分で午前様帰りというのはさすがにまずいので、私たちは宵の口とまではいかなくとも、飲み会を切り上げるには十分早い時間ではあったが解散とし、私と理真はタクシーで有井家へ戻った。両親は起きていたが、麻矢子は早くに入浴を済ませて寝てしまったという。色々とあって疲れが溜まっていたのだろう。私と理真もお風呂を使わせてもらうと、早めに床についた。
翌朝、携帯電話のアラームで目を覚まし、洗顔を済ませて階下へ降りた。食卓に父親の姿はなく、今日は月曜日で渋滞回避の目的もあり、早くに家を出て出勤したという。その際に母親の
「古橋に眼鏡を掛ける習慣がある」という情報を、理真は麻矢子に話しはしないだろうと私は思っていたが、やはりそうだった。理真は麻矢子に、「昨日はあれから何か掴めましたか?」と訊かれても、特に何も、と答えるだけだった。
理真の携帯電話が鳴った。ちょっと失礼、と理真は電話を掴む。私も、ちらと発信者名が目に入った。
「もしもし、丸姉。やってくれたね……」
理真のほうから、論ちゃんのことで文句を言おうと先鞭を付けた。が、理真はそこから二の句を告げずにいる。表情も神妙なものに変わり、電話の向こうの丸柴刑事の話を聞き澄ましているようだ。
「うん……うん……分かった」
理真は通話を終えた。神妙な表情は変わっていない。
「安堂さん、何かあったんですか?」
私よりも先に麻矢子が訊いた。理真は、私、麻矢子と順に目を見て、
「由宇、麻矢子さん、あのね……古橋さんが死体で発見されたわ」
麻矢子は呆然として、箸を取り落とした。
何がどういうことなのだ? 私は頭の中が黒く淀んでいくような感覚を憶えた。その黒さは、昨夜飲み屋の外で見上げた、夜空の真っ黒な領域に似ているような気がした。だがそこには、ひとつの星も浮かんでいない。
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