第4章 闇に光る目

 泊めてもらう麻矢子まやこの実家、有井ありい家までは、控えていた住所を携帯電話の地図ソフトに入力し、ナビをしてもらいながら帰りついた。

 途中コンビニに寄ってアルコール類とつまみを買い込んだ。厚かましくも他人の家で宴会の仕切り直しをしようということだ。恐らく麻矢子の帰りは遅くなるだろう。向こうもこちらも高校時代の同級生同士、親睦を深めあうのがいい。とはいっても、私と理真りまは、まあ、いつもほとんど一緒にいるんだけど。


 有井家に到着して呼び鈴を鳴らすと、麻矢子の母親、秋絵あきえが出迎えてくれた。私と理真二人だけであることに驚いた様子だったが、麻矢子は同級生と一緒だと答えると、わざわざ気を遣ってくれて、と恐縮された。こちとら、これから他人の家で宴会をするのだ。恐縮するのはこちらのほうだ。

 私は理真が麻矢子の母親に、五年前に行方不明となった薩摩昇さつまのぼるのことを訊くのではないかと思ったが、理真はそのことには触れなかった。麻矢子の父親にも挨拶をして、泊めてもらう部屋に私と一緒に入った。

 お風呂が沸いているので入っては、と秋絵に促された。答えあぐねている私の考えを察してくれたのだろう。、秋絵は私と理真が提げているコンビニ袋を、「冷蔵庫に入れておきますから」と取り上げてしまった。恐縮です。

 酔ったあとでの入浴は危険なため、お言葉に甘えて先にお風呂をいただくことにする。時間が惜しいので二人一緒に入る。


「しゃぁーふわぁぁー……」


 傍から聞けば、リングに上がる前に格闘家が気合を入れる雄叫び、と言われたら信じてしまいそうな声を上げながら理真が湯船に浸かった。彼女なりにリラックスしているのだ。

 家庭用のお風呂は大人二人が入るには狭いため、私は湯船には浸からずに体を洗っている。洗い終えたら理真とチェンジだ。


「ねえ、理真、薩摩っていう人がストーカーだと思う?」


 体を洗いながら私は訊いた。しばらくまぶたを閉じて無言でいた理真は、


「……それは、薩摩さんがまだ生きているっていうことね」

「まあ、そうなるね」

「どうして五年前に急にいなくなったの?」

「うーん、何か事件に巻き込まれたとか?」

「事件に巻き込まれて友人、恋人、家族の誰とも連絡を取らないままいなくなったけれど、突然昔の恋人のストーカーとして舞い戻ってきた?」

「それも合点がいかない話だね。正式に付き合っていたそうだから、わざわざストーカーになる理由がない」

「もし、薩摩さんがストーカーだとしたら、麻矢子さんがおかしな手紙を受け取り始めたのが約一年前だから、四年間姿を消していたことになる。しかも、麻矢子さんは高校卒業後、東京に出て働いていたから、それを追って東京に行ったということにもなる」

「ますます意味不明だね」

「関係ないけどさ、古橋ふるはしさんって、麻矢子さんのこと好きだったんだね。だった、っていうか、今でも」

「そうだね。態度、露骨に出てたもんね」

「ストーカーしそうなのは、古橋さんのほうだよね」

「うーん、でも……」

「そう、わざわざ東京まで行くか、って話」

「理真、一応、アリバイ調べる?」

「麻矢子さんのほうが、ポストに手紙が入っていた日にちを憶えてないでしょ」

「それもそうか」私はシャワーでシャンプーを流して、「理真、チェンジ」

「おお」


 理真は勢いよく湯船から立ち上がった。



 私と理真はお風呂を上がり、よく冷えたカクテルにようやく有り付いた。時刻は午後十時に近かったが、まだ麻矢子は帰ってきていないようだ。


「出るとは思えないけど、一応調べてもらおうか、指紋」


 実のない世間話が一段落つくと、カクテル缶を口に付けながら、理真は昼間の贈り主不明のスタンド花に付けられていたA4のコピー紙を手に取った。今はビニールの袋に入れられている。私も、そうだね、と同意した。


「よし、今から頼もう」


 理真は携帯電話を取ってダイヤルし始めた。


「こんな時間に?」


 私は改めて時計を見る。午後十時を十分ほど回っていた。


「相手は刑事だ、なあに、構うものか」


 理真は、午後十時過ぎという時間帯を全く意に介した様子も見せずにダイヤルすると、携帯電話をスピーカーモードにして机に置いた。数回の発信音のあとに、


「理真、どうしたの? こんな時間に」


 新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞まるしばしおり刑事の声がスピーカーから聞こえた。


丸姉まるねえ、どうせ仕事中でしょ」

「何よ、ぶしつけに。まあ、当たってるけど」


 丸柴刑事は理真が素人探偵として活躍を始める以前からの知り合いだ。理真の父親も県警捜査一課の刑事だった縁からだそうだ。理真の彼女に対する呼び方は、その頃からの名残なのだ。刑事、丸柴栞の年齢は三十に手が届こうかといったところ。文句の付けようのない美人であることに加え、セミロングの髪をなびかせて、スーツを着こなしたスタイルのよいその姿は、さながら刑事役を演じている女優のようで、およそ本職の刑事には見えない。鼻血もののかっこよさだ。

 しかし、こんな時間でも楽勝(?)で勤務中とは。刑事という仕事はつくづく大変だ。しかもよく考えたら、今日は土曜日ではないか。


「ちょっと、指紋を調べてもらいたいんだけど」


 理真が要件を口にすると、丸柴刑事の声が、


「何? 何か事件に関わってるの? 城嶋じょうしま警部からは何も聞いてないけど」


 今、丸柴刑事が名前を出した城島警部も、県警内にいる理真のよき理解者のひとりだ。手掛ける事件が不可能犯罪であると分かったとき、理真に出馬要請を出すか否か、大抵城島警部が判断することになる。


「ううん、違うの。個人的に頼まれちゃって。ちょっとストーカー絡みのね。実害は出てないから、警察は動けないでしょ」

「あら、そんなことないわよ。今は警察にも〈生活保安課〉があって、ちゃんとそういった相談にも乗るわよ。何? 深刻なの?」

「一刻を争うってんじゃないんだけどね。証拠物件が出てきたから、調べてもらえないかなって」


 理真は、不破ふわひより経由で受けた有井麻矢子の相談と、パーティー会場に持ち込まれてスタンド花、そこに添えてあったコピー紙のことを話した。


「……『僕はずっと君を見ている』か」丸柴刑事は、理真から聞いたコピー紙に打たれていた文章を反芻して、「その有井麻矢子さんが受けた被害は、その手紙だけ? 実害は出ていないのね?」

「丸姉、実害が出てからじゃ遅いでしょ」

「誰もそんなこと言ってないでしょ」

「丸姉、ちょっとこっちに来て相談に乗ってよ」

「こっち、って、柏崎に?」

「もちろん」

「あのね、こんな時間まで普通に仕事してる人間が、事件もないのに行けるわけないでしょ」

「じゃあ、城島警部でもいいや」

「余計行けるわけないだろ」

「誰かいないの? 暇な人」

「警察組織に暇な人材なんていないわよ。とりあえず、そのコピー紙を郵送してよ。絵留えるに調べてもらうから」


 丸柴刑事が口にした「絵留」とは、科捜研の美島みしま絵留研究員のことだ。彼女も素人探偵である理真のよき理解者で、いつもお世話になっている。丸柴刑事とも親しい間柄で、互いに下の名前で呼び合う仲だ。


「あ、理真、というか、指紋採取の依頼なら、直接絵留に電話すればいいじゃない」

「だって、こんな時間に電話したら、絵留ちゃんに迷惑でしょ」

「こいつ……」


 美島絵留、絵留ちゃんは私や理真よりも年上だが、二人とも、ちゃん付けで呼んでいる。ちいさくてかわいいからだ。

 その後、理真は私も加えて、酒の肴代わりに三人で世間話に移行しようとしたが、忙しいから切る、と半ば強引に丸柴刑事に通話を終了されてしまった。仕方がないので、私と理真はコンビニで買ってきたつまみを囓りながらカクテル缶を傾けることになった。

 私たちが床につく頃には深夜零時を過ぎていたが、それまでに麻矢子が帰ってきた気配はなかった。



 翌朝の日曜日。私と理真は携帯電話の目覚ましで午前七時に起床した。アパートの管理人と作家という曜日感覚のない職に就いている二人のため、平日土日関係なく、いつもならもっと遅くまで寝ているのだが、泊めてもらっている他人の家で寝坊助になってしまってはまずい。先輩作家としての示しもある。

 洗顔を済ませ台所に行くと、味噌汁のいい香りが漂ってきた。


「あ、安堂あんどうさん、江嶋えじまさん、おはようございます」


 台所には、鍋の中の味噌汁をお玉でかき回している麻矢子が立っていた。室内着らしいスウェットにピンクのエプロンを掛けている。私と理真も、おはようございます、と挨拶を返す。


「すみません、安堂さん。昨日のお店の代金、出して貰っちゃって」


 麻矢子は恐縮した様子で、ぺこりと頭を下げた。

 理真は、「いいの、いいの」と笑顔で手を振って、


「麻矢子さんが朝ご飯を?」

「はい。安堂さんと江嶋さんもいらっしゃるから、久しぶりに腕を振るおうと思って」


 麻矢子は笑顔を見せた。台所のテーブルには、すでに五人分のおかずが用意してある。

 麻矢子の両親も加えた(というか、正確には加えてもらっているのはこっちなのだが)、五人で朝食の席についた。

 麻矢子の母、秋枝あきえは、「麻矢子の作る料理を食べるのも久しぶりね」などと言って相好を崩し、麻矢子の父親は、「東京でもちゃんと自炊してるのか?」と声を掛けながら、娘の手料理を喜びを隠しきれないような顔で味わっていた。

 麻矢子の用意してくれた朝食は、焼き魚に卵焼きに味噌汁という和風の献立で、私と理真もおいしくいただいた。

 理真は、「麻矢子さん、いつお嫁に行っても大丈夫ですね」などと口にしながら舌鼓を打つ。麻矢子は、「やめて下さい安堂さん」と答えながらはにかんでいた。それを見て頬を緩める両親。笑い声の絶えない食卓は最後、理真が秋枝の持って来た安堂理真デビュー作『月光ドレス』にサインを入れて終了した。

 洗い物を手伝おうとした私と理真だったが、お客様だから、と秋枝に断られた。

 恐縮していると、その代わりにとばかりに、麻矢子が少し話をしたいと言ってきたため理真は、「それなら、食後の散歩がてら、ちょっと外を歩きながら話そう」と麻矢子を連れ出すことにした。

 外に出ることを提案したのは、麻矢子の表情が憂いを帯びていたためだろう。



 麻矢子を挟み込むように、私たち三人は日曜日朝の住宅街を並んで歩く。麻矢子の実家が見えなくなる程度まで離れ、いい頃合いと見たのか理真は、


「麻矢子さん、昨夜、何かあったの? もしかして……」

「そうなんです……」


 私と理真、二人の顔を交互に見てから麻矢子は話してくれた。



 昨夜は夜の十二時も近くなった辺りで、そろそろお開きにするか、となり、麻矢子たち四人の飲み会は終了となった。

 四人は店の前で解散した。家の方角がバラバラなため、四人は皆ひとりで帰ったという。車で来ていた古橋ふるはしは代行を呼び、他の三人も酔い覚ましの意味も兼ねて、徒歩で帰宅の途についた。

 ひとり家路についていた麻矢子は、飲み屋街を離れて人気ひとけのない深夜の住宅街に入った頃から、背後に人の気配を感じ始めた。振り返った麻矢子は、その瞬間、咄嗟に電柱の影に隠れる人影を目にした。

 麻矢子は声を掛けた。「誰?」と、ひと言。すると電柱の裏に貼り付いていた影は身を翻して歩いてきた方角に走り出した。電柱の影から壁伝いに、麻矢子から死角になるように走り去ったため、その顔はおろか、着ていた服装までも判別することは出来なかったという。ただ、走り去るため振り返った瞬間、街灯の明かりに反射して、その人物の目が光ったような気がしたという。眼鏡を掛けていた可能性が高い。



「……それから私、走って家まで帰りました」


 麻矢子が昨夜の体験を語り終えた頃には散歩の復路も終盤で、私たちは麻矢子の実家まで帰りついていた。玄関の数メートル手前で麻矢子が立ち止まったため、私と理真も足を止める。


「理真、これって……」


 私は不安そうな表情で俯いている麻矢子越しに理真を見た。理真は頷いて、


「うん、ストーカー……」


 その言葉に麻矢子は一瞬体を震わせた。


「麻矢子さん」理真は麻矢子の肩にそっと触れて、「今日は、どこかに出かける用事とかある? ご両親は?」


 麻矢子は首を横に振って、


「私は今日は用事はありません。父と母も特に何もないと思います」

「だったら、今日はずっと家に居て。もし出かけることがあれば、ご両親のどちらかとずっと一緒にいてね。ひとりになっちゃ駄目よ」

「安堂さんと江嶋さんは?」


 麻矢子が顔を上げると、理真は、


「私と由宇は、ちょっと調べものに出かけるわ。すぐに戻るから心配しないで」


 やさしく声を掛けて、麻矢子の肩を撫でた。



 麻矢子を家に帰してから、私と理真は理真の愛車R1に乗り込んだ。理真の提案で、五年前の薩摩昇行方不明事件の新聞記事を図書館で調べてみようということになったためだ。

 ストーカーの正体が薩摩ではないのか? 昨夜麻矢子たちと話し合った通り、その可能性は低いが、他に手掛かりがまったく掴めていない以上、この情報を無視することは出来ない。

 私と理真は柏崎市内の図書館に向かった。

 車内で理真が電話を掛けるため、ハンドルは私が握る。

 ダイヤルした理真は突然面白そうな顔をして携帯電話を耳から離すと、スピーカーモードのボタンを押し、そのまま携帯電話を滑り止めシートを貼り付けたダッシュボードに置いた。


「……もしもし……理真? なに?」


 携帯電話のスピーカーから聞こえてきたのは、新潟県警捜査一課所属、丸柴栞刑事の声だった。ただし、それは昨夜聞いた凜とした声とはまったく違っていた。


「ねえ……何よ、急に黙って……」


 くぐもったその声は完全に寝起き。あくびをする声までスピーカーは拾っている。

 理真はというと、私を見て、にやにやと笑みを浮かべている。悪いやつだなー。かっこいい女性刑事の醜態を晒そうというわけか。


「丸姉」そこでようやく理真は、「昨日は遅くまで仕事だったの?」

「そうだよ……今日は昼近くまで寝てようと思ってたのに……だから、用事は何?」


 丸柴刑事、声がちょっとキレかけてる。理真は尚も楽しそうな顔をしながら、


「丸姉、しっかりしなよ。もしこれが城島警部からの事件発生の緊急の知らせだったら、どうするのよ」

「アホか。警部相手ならこんな声で出るか。ちゃんと発信者を確認してから応答してるわ」

「ほうほう、私相手なら、そんなだらしない声でも問題ない、と」

「そうだろうが。用がないなら、もう切る――」

「あー、待って、丸姉」

「だから、何?」

「ねえ、やっぱりこっちに応援に来られない?」

「……うーん、無理」

「あのね、昨夜、実際にストーカーが姿を現したのよ」

「――え? 何か被害は?」


 そのときだけ、丸柴刑事の声はいつもの鋭さを取り戻していた。


「ううん。麻矢子さんが一括したら逃げていった」

「そう……」


 理真が答えると丸柴刑事の声はまた、くぐもった寝起きのそれに戻った。


「だから、ね。もう放っておけないでしょ。市民の安全を守るのが警察の務めでしょ」

「うーん、でもなぁ……」


 丸柴刑事は渋っている。声の合間に混じっている、ぼりぼりという音は、頭でも掻いているのだろうか。


「ねえ、由宇からもお願いしてよ――」

「――え? 由宇ちゃんも一緒なの?」


 理真の口から私の名前が出ると、丸柴刑事の声は再び急に鋭くなった。


「丸柴さん、おはようございます」


 私は挨拶をしたが、スピーカーの向こうから返事は返ってこない。理真はというと、にやにやと相変わらず笑みを浮かべている。


「……理真」ようやく丸柴刑事の声が、「謀ったな」

「何がよ。私が電話するときスピーカーモードにして由宇も会話に加えることはよくあることで――」

「もおー!」丸柴刑事は理真の声など耳に入らないかのように、「由宇ちゃん、違うからね。今朝だけ特別調子が悪かっただけだからね。いつもこんな喋り方してるわけじゃないのよ。ねえ」


 早口で捲し立てた。


「は、はい、もちろん分かってますよ」一応、そう答えておいた。

「もおー!」


 尚も唸り声を上げる丸柴刑事に、理真は、


「牛か」

「うるせえ! ――あ、いや、うるさいよ、理真。と、とにかく、警部とも相談して考えておくわ。じゃあね」


 丸柴刑事は電話を切った。理真は満足そうな表情で携帯電話をしまう。

 バカなことをしているうちに図書館に着いちゃったよ。



 図書館の新聞閲覧コーナーに向かう。事前に調べていた情報によると、麻矢子たちの同級生、薩摩が行方不明になったのは夏祭りの最終日の夜。七月二十六日。その翌日から一週間程度の地元新聞を用意してもらった。


「あった、これ」


 手分けして記事を探していると、理真が先に記事を見つけた。私は自分の担当する新聞から一旦目を離して、理真と一緒に新聞紙を覗き込む。それは行方不明になった夜から二日後の新聞だった。

 記事は、市内高校に通う三年生、薩摩昇が一昨日の夜から行方が分からなくなっているということを告げたものだった。警察と地元消防団による懸命な捜索が続けられているという文章とともに、顔写真も掲載されていた。

 なかなかの美男子だ。髪が短く、今風のというよりは、昔ながらの芯の強い好青年(というか、年齢的にはまだ少年だが)といった印象を受けた。ちなみに眼鏡は掛けていなかった。


「これだけだね……第一報ならこんなものか。もう少し探してみよう」

「分かった」


 理真と私は再び記事検索の作業に戻った。



 その後、新聞紙上に数件の記事を見つけたが、得られる情報はまったく増えてはいなかった。〈懸命な捜索が続けられているが、未だ発見には至らない〉見つけた記事はどれも、これだけの情報を水増しして伝えているだけに終始していた。


「事実上、手掛かりゼロ、か……」


 理真はため息をついて新聞紙から目を上げた。


「どうする、理真。この薩摩くんの家に突撃でもしてみる?」

「うーん……そこまではまだ、さすがに……」


 そこまで口にして理真は視線を奥に向けた。その先には数名の図書館利用者がいる。


「由宇、あの子」理真はその中のひとりを指さして、「昨日、本屋にいた子だよね」

「本屋に?」


 私も目を向けた。

 理真はもの憶えがいい。ちょっとチラ見した程度の人の顔もよく憶えている。そういうことがある度に、さすがに探偵だと感心しているのだが、今回ばかりは私にも分かった。そこにいたのは、確かに昨日市内の本屋で見かけた、『ケフェウスより愛を込めて』を手にとって見ていた少年だ。正確にはカバー返しの著者近影を。

 声を掛けようとしたのか理真が足を向けかけたが、偶然にもその少年のほうがこちらに近づいてきた。少年が私たちが新聞を閲覧していたテーブルの前に来たところで、


「こんにちは」


 理真が声を掛けた。少年は足を止めて理真の顔を見ると、


「……こ、こんにちは」戸惑いの表情とともに挨拶を返してくれ、「ぼ、僕、図書館の係員ではないので……」

「ああ、違うの」理真は笑顔になって、「私、安堂理真っていうの。君は?」

「え? ほ、星野ほしのです……星野つばさ……」

「どういう字を書くの? 空の星に野原と、飛ぶ翼? 合ってる? かっこいい名前だね。中学生?」

「はい、二年です。あの、安堂理真って、あの作家の?」

「嬉しい、知っていてくれたのね」

「あ、はい、本屋でよく名前を見るし……」

「ありがとう。ねえ、星野くん、じゃあさ、有井麻矢子さんは知ってる?」

「――え?」


 星野と名乗った少年の表情が変わった。その目は驚きの感情を含んでいるように見える。


「知ってるよね。私と同じ県人作家だもんね」

「あ、は、はい、一応は……」


 理真がさらに話しかけると、星野は顔を伏せた。


「ねえ、読んだ?」

「え? な、何を……」

「有井さんの本『ケフェウスより愛を込めて』」

「あ、は、はい……図書館で、ここで借りて……」

「そう……ねえ、ちょっと座って話さない?」


 理真は言いながら広げていた新聞を畳もうとしたが、その動作は中断された。私にもその理由は分かった。星野の目が新聞紙上に注がれている。釘付けになっているといってもいい。星野の視線の先にあるのは、薩摩昇行方不明の記事だった。


「ねえ……」理真が声を掛けたが、星野は無言のまま新聞記事から目を離さない。

「ねえ」

「は、はい?」


 二度目の呼びかけで、ようやく星野は顔を上げた。理真は畳みかけた新聞紙を広げ直して、


「この事件について、何か知ってる?」


 理真が薩摩の記事を指さすと、星野の喉から、ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。理真は先を急かすようなことはせず、固く結んだ星野の口が開くのを待った。


「そ、その人……」星野の口の門が開いた。「その人、五年前に行方不明になったんですよね……」


 理真は頷いたが、星野の視線は新聞記事に注がれたままだったため、恐らく見てはいないだろう。


「その人……きっと殺されたんです」

「え? 殺された?」


 理真が驚いた声を上げたが、星野はまったくの無反応だった。星野は、理真に語るというよりも独白をするような口調で、


「宇宙人です……ケフェウス星人に……」


 私と理真は顔を見合わせた。理真は星野に、


「ねえ、それって、どういう――」

「す、すみません!」

「あ、ちょっと、ねえ――」


 星野は我に返ったように顔を上げると、理真が引き留めるのも聞かずに出入り口に向かって一目散に走り去った。静かな図書館内に走る足音がこだまし、星野と私たちは眉を顰めた利用者と司書たちの視線を浴びることとなった。

 私は、星野を追うか? という意味の目で理真を見たが、理真は無言で首を横に振った。



 途中、理真は封筒と切手を購入して、スタンド花に添えられていた紙を新潟県警丸柴刑事宛に郵送した。紙を取る際に麻矢子が一度素手で触れているため、理真は参考用に麻矢子に断って彼女の指紋を付着させた紙を用意しており、その二枚を同封していた。用事を済ませた私と理真は有井家に戻った。

 麻矢子と両親は三人とも自宅にいた。両親は二人で居間でテレビを観ており、麻矢子は二階の自室で本を読んでいた。私たちのいない間、何も変わったことはなかったという。


「ねえ、麻矢子さん」理真は畳敷きの麻矢子の部屋で、出された座布団に腰を下ろしながら、「星野翼くん、って知ってる?」

「……いえ」麻矢子は短く答えた。

「そう。中学二年生でね、ちょっとかわいい感じの男の子なんだけど……」

「それよりも、安堂さん、何か分かりましたか?」

「え? あ、ああ、ごめんね、まだ何も手掛かりは」

「そうですか……」

「今ね、県警の知り合いの刑事に協力を仰いでるんだけど――」

「え? 安堂さんって、刑事のお知り合いがいらっしゃるんですか?」

「そ、そうだよ……」


 理真、素人探偵をしていることは麻矢子には秘密にしておいてくれ、と不破(ふわ)ひよりに頼んだのは自分のくせに、自ら失言してしまうとは。


「凄いですね。プロの作家さんって、やっぱりお顔が広いんですね。取材の一環で知り合ったんですか? でも、安堂さんって、警察ものの小説書いていらっしゃいましたっけ?」

「そ、それはね、麻矢子さん……」

「安堂さーん」


 そのとき、階下から理真を呼ぶ声がした。麻矢子の母親、秋枝の声だった。

 理真が、「はーい」と答えると、秋枝の声が続き、


「警察の方がお見えになりましたよ。上がってもらいますか?」

「は、はい、お願いします」


 理真がさらに答えると、玄関のドアが開けられる音がして、「どうぞどうぞ」と秋枝の声が重なった。


「さすが丸姉。フットワークが軽いね」理真は私の耳元に唇を近づけて、「何だかんだ言ってもさ、私のことがかわいいんだよ」得意げに微笑んだ。


 麻矢子は期待を込めたような目で部屋のドアに視線を注いでいる。丸柴刑事のかっこよさに驚くなよ。

 階段を駆け上がる足音が近づいてくる。

 私は、おや? と思った。階段をこんなにどたどたと駆け上がってくるなんて丸柴刑事っぽくないな。理真もそう感じたのか、私と目を合わせて怪訝な表情をしている。麻矢子は胸の前で手を組み、きらきらと瞳を輝かせている。その反応が裏切られることはないだろう。この部屋に姿を見せるのが、朝、理真と電話をしていた女性刑事その人であるなら。

 足音は止まり、麻矢子の部屋のドアが勢いよく引き開けられた。


「オッス! オラ悟空ごくう!」


 ドアを開けた人物が開口一番、元気のよい声で言い放った。そこに立っていたのは、果たして丸柴刑事ではなかった。

 お下げの三つ編みを左右に流した髪型で、ピンクの縁の眼鏡を掛けた女性が仁王立ちしている。

 まさか、この人が登場してくるとは。……いや、十分予測出来たことだ。

 麻矢子は手を組んだまま表情を固め、私はずり落ちた眼鏡を押し上げた。


「……あれ?」


 女性は意外そうな表情で私たちの顔を順に見回した。自分の挨拶に対して何の反応もなかったことが不満なのだろうか。


ろんちゃん……来ちゃったのね……」


 理真はため息とともに言葉を吐き出した。


「はいっ!」論ちゃんは、意気揚々とした笑みを浮かべて、「新潟県警生活安全部生活保安課刑事、降乃論子ふるのろんこ。丸ちゃん――じゃなかった、丸柴栞刑事の命により、ただいま到着いたしました! びしっ!」


 降乃刑事は「びしっ」の言葉とともに敬礼してかかとを打ち付けた。

 うさぎのワンポイントの入った靴下がかわいいな……

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