第3章 姿なき挑戦者

「ストーカー」という言葉に、麻矢子まやこの友人、石黒塔子いしぐろとうこと、古橋由起夫ふるはしゆきおは表情を曇らせた。だが、パーティーの最中ということもあり、麻矢子は、「あとで詳しく話すから」と言い含め、二人と一緒に歓談の声が響く会場中心に戻っていった。

 理真りまとも話し、パーティーが終わったら、途中退席した真鍋次郎まなべじろうも呼んだ上で改めて全員に相談をするということでその場は収まった。


 理真はA4紙が置かれていただけで贈り主の札がなにもない、そのスタンド花を見回して、取り扱っている業者名が書かれたシールを見つけた。携帯電話を取りだして、その番号にダイヤルする。


「……もしもし、今朝、かしわざき共同文化ホールに出されたスタンド花について伺いたいことが……」



「昨晩、急遽スタンド花をひとつ追加で用意してくれって電話があったんだって」業者との通話を終え、携帯電話をしまいながら理真は、「贈り主用の札は付けなくていいから、と。それで、今朝、追加代金を店に直接払いに来たそうよ」

「店に直接? じゃあ――」


 私の言葉に、理真は首を横に振って、


「ロングコートにマスク、サングラス、帽子の完全防護で、人相はおろか、性別も分からなかったって。ひと言も喋らず、黙って代金の入った封筒を差し出すと、そのまま消えたそうよ。手袋もしてたそうだから封筒から指紋も取れないでしょうね」

「性別も不明、か……でも、今朝確実に店に行ったというなら、アリバイは確かめられるね」

由宇ゆう、アリバイって、誰の?」

「ストーカーに決まってるじゃん」

「どこの誰かも分からないのに? 全国民のアリバイを調べるの?」

「それは……とりあえず、身近な人から……」

「身近な人、って……」


 理真は会場中心部に視線を向けた。有井ありい麻矢子とその友人、親戚、家族らの一団が楽しそうに歓談の声を広げていた。


「ストーカーの正体は、麻矢子さんの近くにいる人だとでも?」

「うう……それは……」

「由宇、不可能犯罪に毒されすぎだよ。そう毎回毎回、身近な人の中に犯人がいるものじゃないわよ」


 確かにそれはそうだ。理真について多くの不可能犯罪事件に遭遇する中、犯人は身近にいる、という観念が頭の中に固定されてしまっていたのかもしれない。

 だいたい、麻矢子は普段東京で暮らしており、その頃にストーカー被害に遭っているという。先ほど紹介された友人たちは皆、ここ、地元で暮らしている人たちばかりだ。わざわざ東京まで出向いてストーカーをするだろうか。まあ、麻矢子から詳しい事情を聞いてみなければ、まだ何も言えないのだが。



 パーティーは三時間程度で幕を下ろした。途中途中で少しずつ帰っていった参加者も多かったため、最終的に残っているのは開始時の半分程度の人数だった。

 有井家の人たちが片づけを行う中、麻矢子もそれを手伝おうとしたらしかったが、


「麻矢子はいいから、安堂あんどうさんやお友達とおしゃべりでもしていなさい」


 と母親の秋枝あきえに言われ、すぐに私たちのところに戻ってきた。


「マヤちゃん、さっきの話、詳しく聞かせてくれよ」


 麻矢子が戻るなり開口一番そう言ってきたのは、長岡市で書店に努める、背広姿の古橋由起夫だった。

 チェックのシャツとスカート姿の石黒塔子も、「そうよ」と心配そうな声を掛ける。


「ごめんね」麻矢子は二人に詫びると、「この後、編集の白浜しらはまさんと打ち合わせしなきゃならなくなって……」


 麻矢子は、片づけを手伝っている担当編集者の白浜和夫かずおを見て、「夕方までには終わると思うんだけど」と続けた。


「じゃあ、夕方になったら、どこかの飲み屋にでも集まろうぜ。真鍋には俺から連絡しておく」


 現場に戻るため途中退席した友人も加えた集まりを古橋が提案すると、「それはいいわね」と塔子も手を打った。麻矢子は、うん、と頷いて、


「安堂さんと江島えじまさんも同席して下さいますか?」


 私と理真にも参加を促した。理真は、もちろん、と答え、私も強く頷く。そのために来たのだ。

 打ち合わせが終了次第、麻矢子が塔子、古橋、理真に連絡することになった。店は古橋が決めておき、真鍋にも連絡を取るということに決まり、その場は解散となった。


 塔子と古橋が挨拶をして会場を出ると、麻矢子は控室に戻り、理真はパーティーのテーブルに向かった。片づけを手伝うのではない。手にしたプラスチックの折箱にオードブルの残り物を詰め込むためだ。ある意味、片付けを手伝っていると言えるかもしれないが。



 麻矢子の母親、秋絵が申し出てくれた好意に甘えて、今夜は有井家に泊めてもらうことにした。夕食は自宅にてまた料理を振舞うといってくれたが、今夜は麻矢子の友人らと飲み会があるため、それは謝した。秋枝は、ただの飲み会だと思っているらしい。麻矢子はストーカーのことは両親に話してはいないようだ。それが賢明だ。

 麻矢子はドレス姿のままで編集者の白浜と一緒に控室で打ち合わせに入った。白浜は、「安堂さんもご一緒にどうですか」と声を掛けてきたが、「企業秘密が耳に入ってしまうといけないので」と笑い、私と一緒に会場を出た。



 理真は別の空いている控室を借りてオードブルの残りを平らげてから(私も少し手伝った)、かしわざき共同文化ホールを出た。


「ちょっと時間が空いたね」


 理真は腕時計を覗き込んだ。白浜の話では打ち合わせは二時間程度で終わるという。現在時刻は午後三時。


「ねえ、近所の本屋に行ってみようよ」


 理真の提案で、私たちは理真の愛車R1に乗り込んだ。


 国道や県道沿いには大型チェーンの書店があるだろうが、なるべく個人でやっているような小さな書店を見たいというので、理真は出発前にカーナビで周辺の書店を探す。

 私と理真が住んでいる新潟市では、個人経営の小さな書店は軒並み姿を消した。私も理真も、遠出をしたときは、なるべく地元の小さな書店を訪れて、何かしら本を買っていくことにしているのだ。

 事情はここ柏崎市でも同じようだ。検索に掛かった書店は数軒。うち、大型チェーン店を除いた地元の個人経営らしい書店は二軒しかない。理真はそのうち近い方に目的地をセットしてアクセルを踏んだ。


 目的地の書店は本当に小さな店舗だった。カーナビがなければ見逃していたかもしれない。駐車場はないため、申し訳ないが路肩に車を停めさせてもらい、私と理真は車を降りた。

 大型店舗にしてみれば、いちコーナー程度しかないであろう売り場面積の店に入ると、店員の男性が、いらしゃいませ、と声を掛けてきた。狭い店舗には私たちの他に数名の先客がいた。入ってすぐの平台には、やはり、


〈柏崎市出身作家 有井麻矢子 ジュリエット賞受賞にしてデビュー作!〉


 手書きポップとともに、『ケフェウスより愛を込めて』が平積みで置かれていた。

 理真はそのコーナーで一度立ち止まってから、店内の棚を見回していく。

 私も買いそびれていた文庫本でも買おうかと店内を歩き始めた。と、先客のひとりが平台に近寄り、『ケフェウスより愛を込めて』を手にとって表紙をめくった。外見からして男子中学生か。高校生にはなっていないだろう。今日は土曜日なので私服姿だ。見るとその少年がめくったのは表紙だけで、視線を表紙裏の見返しにずっと注いでいる。本の見返しには通常何も書かれていないから、恐らく少年が見ているのはカバーの返しの部分だ。そこには確か。


星野ほしの


 名前を呼ばれたのだろうか、少年は顔を上げた。声の主はレジで精算を済ませた友人らしい二人組だった。「星野」と呼ばれた少年は、「あ、ああ」と返事をして手にしていた本を丁寧に山に戻し、二人のもとに歩いて行った。


「星野、お前、ああいうの読むの?」

「い、いや、そういうわけじゃないし」

「そういや、あの何とかっていう本、柏崎の人が書いたんだってな」

「あ、そうそう。知ってる?」

「いや。星野、お前は?」

「……い、いや、知らない」


『ケフェウスより愛を込めて』の作者を知っているかと訊かれた際、星野少年は若干言葉を詰まらせて返答したように思えた。

 三人組は店を出た。私は星野少年が戻した『ケフェウスより愛を込めて』を手にとって、カバーの返しを改めた。やはり、そこに載っていたのは著者近影、微笑みを湛えた有井麻矢子の写真だった。

 見ると、本棚の前に立っていた理真も、今の少年たちの一連のやりとりを目撃していたようだった。



 私は文庫本を一冊。理真は作品の資料用にと、サッカーの戦術解説本(恋愛作家がそれを読んでどういうのを書くんだよ。領収書まで切ってもらっていた)を買って店を出た。


 かしわざき共同文化ホールに戻ると、ちょうど編集者の白浜と麻矢子が正面玄関を出てきたところだった。麻矢子の後ろには母、秋江と、タキシードを着た男性も連なり、車に乗り込んだ白浜に麻矢子と三人で頭を下げている。タキシード姿の男性はパーティーで紹介された麻矢子の父親だ。

 白浜の運転する車と入れ違いに駐車場に入った理真のR1を見て、ホール内に戻りかけた麻矢子が足を止めて近づいてきた。


「安堂さん、江嶋さん」駆け寄ってきた麻矢子に、車から降りた理真と私が手を上げて応えると、「ちょうど電話しようと思ってたところだったんです。古橋くんからメールがあって、場所は押さえて、六時頃に塔子と一緒に待ってるそうです。私たちも行きましょう」


 腕時計を見ると現在時刻は午後五時を回ったところ。理真の車は有井家に置いて、麻矢子の父親が会場まで私たちを送ってくれることになった。


 有井家に着いた私と理真は今晩泊めてもらう客間に案内され、畳の上に荷物を置いた。結局使わずじまいだったフォーマル衣装は当然車に積んだままだ。

 これで準備万端。私、理真、麻矢子の三人は麻矢子の父親に車で柏崎駅近くの大衆居酒屋まで送ってもらった。

 麻矢子はドレス姿から一転、緩めのシャツに、ふわりと広がったミニ丈のフレアスカートを履いていた。こうしてみると、作家というよりも、いかにも今どきの女の子という印象を与える。地元に帰ってきて気持ちもリラックスしているのだろうか。


 居酒屋の暖簾をくぐり、店員の威勢のよい声に迎えられると、奥の座敷席に塔子と古橋の姿を見つけた。向こうでもこちらを確認したのか、二人とも手を上げた。


「真鍋は少し遅れるってさ。先に始めていようぜ。とりあえず、ビールでいいかな?」


 全員が頷くと、古橋は店員を呼んで生ビールを五つ注文した。なみなみとビールが注がれたジョッキが運ばれてくると、全員が手に取り、塔子の音頭で乾杯する。


「でさ」ひと口でビールの半分程度を空けた古橋がジョッキをテーブルに置いて、「マヤちゃん、詳しく聞かせてくれよ、昼間のこと」

「そうだよ、麻矢子」


 乾杯の音頭をとったときとは一変した、心配そうな声で塔子も言った。理真と私もビールを飲みながら麻矢子を見る。理真も私も事件捜査中は禁酒することにしているのだが、今回はとりあえず相談に乗るだけなのでいいだろう。麻矢子は全員の顔を見回してから、


「何だか、ごめんね」ぺこり、と頭を下げた。

「そんなのいいから」塔子は早くも空けたジョッキをテーブルの隅にやって、「で、どういう被害に遭ったの?」

「う、うん。被害、っていうか、実害は別に受けてはいないんだけどね。アパートの郵便ポストに封筒が入っていたりするの。宛先も何も書かれてないから直接郵便受けに入れたんだと思う。中にはワープロ打ちの便せんが入っていてね……その文面が、『麻矢子。僕は君をずっと見ている』」

「それって、あの花に添えられていたのと同じじゃない」


 塔子の言葉に、麻矢子は黙って頷いた。


「じゃあ、やっぱりあの花はそのストーカー野郎が」


 古橋は憤慨した声を上げた。その顔が赤いのは怒りによるものだろう。アルコールが回るにはまだ早い。麻矢子はひと口ジョッキに口を付けて、


「でね、そんなことが何回かあったんだけれど、ジュリエット賞受賞の知らせを聞いて、あまりの喜びに、ストーカーのことなんてすっかり忘れてたの。で、出版社の受賞パーティーで審査員の不破ふわ先生に、何か変わったことや困ってることはない? って訊かれて、そういえばってそのことを話したの。そうしたら、たまたま安堂さんが同じ新潟県の出身だから、地元に帰るときに相談したらって言ってくれて」


 麻矢子がそこまで言い終えると、塔子、古橋ともに理真の顔に視線を向けた。麻矢子も同じだった。私も隣の理真の顔を見る。神妙な表情になっていた。全員の注目を浴びている先輩作家は、


「麻矢子さん、向こうがしてきたのは、その差出人不明の手紙だけ? 直接相手の姿を見たり、電話が掛かってきたりとかは?」

「そういうことはなかったです」

「手紙の頻度は?」

「月に一度か、二度、そのくらいの割合です」

「その手紙は、まだ?」

「いえ、気持ち悪いから、その都度すぐに捨てていました。証拠になるかもしれなかったんですよね。ごめんなさい」

「いいのよ。どうせ足が付くような真似はしていないでしょうし。で、最初に手紙を見つけたのは、いつ頃のこと?」

「……そうですね、一年前か……そのくらいだったかも」

「結構長いこと付きまとわれてるのね」


 そう言ったのは塔子だ。理真は質問を再開して、


「その手紙が送られるようになった、何かきっかけみたいなものは、思い当たることとか、ある?」


 これには麻矢子は首を横に振った。理真はさらに、


「直接関係はないように思えるかもしれないけれど、何かあると思うの。手紙が来るようになった頃、身辺で変化とか、特別な出来事とか、なかった?」


 麻矢子はしばらく思い出すように視線を上に向けていたが、理真の顔に視線を戻すと、やはり首を横に振った。


「どこかで麻矢子を偶然見かけて、ひとめぼれしてストーカーになったのよ」塔子が眉間にしわを寄せて、「で、こっそりあとをつけて、アパートの部屋を知った」

「えー、そんなのあり? 私、どうしようもないじゃない」


 麻矢子は怯えた表情になる。


「ああ、あり得るな。マヤちゃん、かわいいから……」


 古橋も続けて口にしたが、その語尾は風船が萎むように小さくなってしまった。


「えー? 何? 古橋、あんた、まだ麻矢子のこと好きなの?」

「そ、そういうのじゃない、ないから!」


 塔子に肘で二の腕を突かれて、古橋は少々どもりながら言った。顔が赤いのは、アルコールのせいでも怒りによるものでもないのだろう。


「ありがとう、古橋くん」


 麻矢子は微笑みながら古橋に言葉を掛けた。


「き、気をつけろよ、東京は変なの多いから……す、すみませーん!」


 古橋は麻矢子の視線を一瞬目で受けただけで店員を呼んだ。ことさら体をカウンターの方向に捻り、大きな声を上げていた。

 注文を取りに来た店員に古橋だけがビールのお代わりをして、女性陣は皆カクテルを頼んだ。理真が小腹がすいたというので(オードブルの残りを間食したばっかりだろ)、軽くつまみも注文した。


「本格的な料理は、全員が揃ってからだよ」


 私は理真を戒めた。と、そこに、


「遅れてごめん」


 最後のひとり、真鍋次郎が到着し、これで全員が揃った。真鍋は昼間と同じ作業着姿だった。



 真鍋には、駆けつけ三杯とばかりに古橋が勝手にビールの大ジョッキを注文し、それぞれも料理の注文に入った。

 真鍋が大ジョッキの半分ほどを空け、料理が運ばれてくる間に、麻矢子は塔子に促されて、先ほど私たちにしたストーカーの話に加え、パーティー会場にあった贈り人不明のスタンド花のことも真鍋に話して聞かせた。


「そっか、そんなことがあったんだ」

「何だよ真鍋、お前、その、気のない返事は。マヤちゃんのことが心配じゃないのか」

「そ、そんなことないよ……」

「やめなよ、古橋」


 真鍋に詰め寄る古橋を塔子が制した。そのやり取りを微笑みながら見ていた麻矢子は、


「真鍋くん、忙しそうだね。土曜日だっていうのに」

「ま、まあ、現場は土曜日に休めるなんてほとんどないから。いつものことだけどね」

「ごめんね。そんなに忙しいのに。パーティーにも来てもらって」

「そ、そんなこと……こっちこそごめん、ちょっと顔を出すだけになっちゃって。今も遅れちゃったし……」


 恐縮する真鍋に、麻矢子は笑顔のまま首を横に振る。その笑顔を見た塔子が、


「どうしたの、麻矢子。おっかないストーカーの話をしたっていうのに、笑ってばっかりで」

「だって、みんな、全然変わらないなって思って」

「そうか?」


 麻矢子の言葉に古橋が口を挟んできた。麻矢子は古橋を見て、


「そうだよ。古橋くんはいつも真鍋くんのこといじって、塔子はいつも私のこと心配してくれてたし。みんな、変わらない」

「マ、マヤちゃんも、変わらねえよ……」

「おー、古橋ぃ、お前、やっぱまだ麻矢子のこと――」

「あ、やっぱそうなの? 古橋?」

「ば、ばか! 違うって言ったろ!」


 古橋が小さく口にした言葉を塔子は聞き逃さなかった。それを聞いた真鍋は囃すような顔になって問うたが、やはり古橋は塔子の言葉を否定した。麻矢子はそんな三人を見て、


「私は、変わった。変わっちゃったよ……」


 そう呟いた。笑顔のままだったが、心なしか少し寂し気な表情がうっすらと張り付いたような気がした。その呟きは小さなものだったためか、まだ諍いを続ける古橋、塔子、真鍋の三人の耳には入らなかったようだった。呟きに気付いたのは、私と、恐らく麻矢子を挟んで座っていた理真だけだろう。


「ま、まあ、とにかく……」ようやく塔子の追求から逃れた古橋が、「真鍋も来たし、改めて乾杯しようぜ」


 古橋の提案で、私たちは新たに真鍋を加えた二度目の乾杯のした。

 グラスを打ち鳴らして、すぐにカクテルを半分以上空けた塔子が、


薩摩さつまくんもいればね……」


 何の気なしに、といったふうに呟いたその言葉に、麻矢子の顔から笑みが消えた。


「馬鹿! お前また、塔子!」

「石黒さん」

「――ご、ごめん、麻矢子」


 古橋と真鍋が塔子を叱責し、塔子は自分の口元を覆って麻矢子に詫びた。麻矢子は再び笑顔を浮かべて、


「ううん、いいの。私、もう気にしてないから……」

「気にしてないわけないでしょ、麻矢子――」

「だから、もうその話はいいって!」


 さらに何か言いかけた塔子の口を再び古橋が制した。一連のやり取りを、カクテルグラスに口をつけながら黙って見ていた理真が、


「サツマさん? 人のお名前なんですか? 確か、パーティーでも石黒さんが、その名前をおっしゃっていましたよね」


 そうだ、私も憶えている。麻矢子の本が出版されたことに対して、「サツマくんがいたら喜んだ」と塔子が口にしていた。そのときは古橋らも塔子を叱責するようなことはなかったが。


「安堂さん、それは関係ないことなんで――」

「いいの、古橋くん」


 今度は古橋を麻矢子が制した。麻矢子は心配そうに自分を見つめる塔子と真鍋にも笑顔を見せてから理真と私の顔を交互に見て、


「薩摩のぼるくん。薩摩は、鹿児島県の旧地名の薩摩に、昇は、上昇の昇の字で、のぼる。私たちの同級生だったの」

「だった、ということは」


 理真の言葉に麻矢子は頷いたが、塔子が口を挟み、


「まだそうと決まったわけじゃないじゃない。薩摩くん、どこかで元気に暮らしてるのよ、きっと」

「塔子、もういいの」


 麻矢子に言われると、塔子は諦めたように口を閉ざした。


「薩摩くんは、突然いなくなってしまったんです……」


 視線を伏せて麻矢子が言うと、


「もう……五年になるか」


 薩摩の話題に触れさせまいとしていた古橋だったが、麻矢子の口からその名前が漏れると、諦めたように呟いた。


「皆さんの、お友達だった?」


 理真の問いには、真鍋が、


「はい、同級生でした」

「詳しいお話を聞かせていただいても?」


 真鍋たち三人は、それぞれの顔を窺うように互いに視線を投げ合っていた。麻矢子ひとりだけが、その視線の交錯には加わらず、俯いてテーブルを見つめたままだった。男性二人に顎をしゃくられて、ようやく塔子が口を開き掛けた、そのとき、


「――薩摩くんと、付き合ってたんです、私」


 麻矢子が視線を上げると同時に話し出した。

 意外な相手に先手を取られた、とばかりに塔子は半開きの口のまま固まる。真鍋は、ため息とともに肩を落とし、古橋は面白くなさそうにジョッキのビールを煽った。



 当時十八歳の高校三年生だった薩摩昇の行方が分からなくなったのは、地元夏祭りの最終日が空けた朝だった。薩摩昇の両親は起床してから息子が帰ってきていないことに気が付いた。高校三年生ともなったため、多少祭りの夜に帰りが遅くなることは大目に見ており、両親とも昨夜は息子の帰りを待たずに先に寝てしまったのだという。

 携帯電話に掛けても電源が入っていないとのアナウンスが流れるのみ。両親は息子のクラスメイトらの家に電話を掛けまくったが、誰も息子の行き先を知らなかったため、警察に通報することにした。

 警察に学校関係者、消防団も加わった一週間以上にも渡る賢明な捜索が続けられたが、ついに薩摩昇は発見出来なかった。

 友人らの証言によれば、薩摩を最後に見たのは同じ部活に所属する同級生たち。普段着で道路を走っているところを目撃したのだという。時刻は午後六時前。同級生は、「祭りに行かないのか?」と声を掛けたが、薩摩は、「時間がないんだ」と足も止めないまま答えて走り去ったと証言した。

 携帯電話会社の記録によると、薩摩の携帯電話には同級生が目撃した時刻から三十分ほど前に麻矢子からの着信があったのが最後の記録だという。


「私、一緒に祭に行く約束をしていたのに、いつまで経っても薩摩くんが待ち合わせ場所に来ないから、心配になって電話を掛けたんです」


 当時、警察にも何度も訊かれたのだろう。麻矢子は淀みなく薩摩が行方不明になった経緯を理真に話した。


「その電話で、薩摩さんは、何て?」

「……その同級生の人たちと同じでした。時間がないから、って……ごめん、って最後に謝っていました……」

「薩摩さんは、そんなに急いでどこに向かっていたんでしょうか?」


 理真のその質問には、麻矢子は黙って首を横に振るだけだった。当時、警察にも同じように返したのだろう。次に塔子が、


「海難事故の可能性も考えて、海上保安庁や地元漁師さんの協力も扇いで、沖合でも捜索が成されました。でも……」


 塔子が言葉を濁した。海から死体は上がらなかったということか。そして五年後の現在に至るまで、薩摩昇の行方は杳としてしれない。


「……麻矢子さん、」一同の沈黙を破って理真が、「一年ほど前からの手紙によるストーカー、正体はその薩摩さんだと思いますか?」

「安堂さん!」


 塔子が身を乗り出して口を挟んできた。当の麻矢子は、ゆっくりと理真を向き、真鍋はおどおどとした表情で皆を眺める。古橋は麻矢子の述懐の間、ことさら興味なさそうにビールを煽っていたが、理真のその質問には、眉をぴくり、と動かしてビールを喉に流し込む動作を止めた。


「……いえ」麻矢子は静かに口を開き、「薩摩くんが、そんなことをするはずがありません」

「そうですよ。薩摩くんと麻矢子は正式に付き合っていたんですよ。麻矢子が言ったように、そんなことをする理由なんてないです」


 塔子も捲し立てた。


「もしよぉ……」それまで沈黙を保っていた古橋が口を開き、「もし、薩摩の野郎がそんなストーカーなんて真似してるっていうんなら、俺がぶっ殺してやるよ」

「古橋! あんた酔ってるでしょ!」


 塔子は鋭い声で古橋の発言を諫めた。古橋は確かに真っ赤な顔をしていた。アルコールのせいか、怒りによるものか、それは分からない。


「ぶっ殺す、ですか」理真は古橋を、そして一同を見回して、「では、薩摩さんの行方については、どうでしょうか。皆さんは、薩摩さんは今でも存命だと思っていますか?」


 その質問には四人全員が沈黙で答えた。


「それは……生きていてほしいとは思いますけれど……」


 塔子が沈黙以外の答えを返した。それに触発されてか真鍋も、


「生きていたとしても、どうして急にいなくなったのか。どうしてずっと姿を見せてくれないのか。それが分かりません」


「薩摩の野郎、何考えてやがんだ……」


 古橋も、答えになってはいなかったが言葉を返した。

 最後まで沈黙を通していたのは、麻矢子ひとりだけだった。


 湿っぽいというか、何だかおかしな空気になってところに麻矢子が、


「今夜は私のお祝いに集まってくれたんでしょ。飲んで色々と話そうよ」


 と笑顔で話し掛け、「そうだな」と古橋も乗ってきた。

 私と理真は顔を見合わせると同時に頷いて立ち上がった。ここからは同級生だけで飲んでもらおうということだ。麻矢子を始め全員に引き留められたが、理真は、遠くまで来て舞台で挨拶までして疲れたから、と言い残し、私と一緒に席を離れた。

 店を出る直前、理真は店員を呼び、麻矢子たちのテーブルの代金として、数枚の一万円札を置いていった。やるねえ。「私もよくひよりさんに奢ってもらってたから」理真はそう言って照れ隠しのように笑い、静かに店を出た。

 私は最後に麻矢子たちのテーブルを振り返った。私と理真がいなくなったことで、麻矢子の隣には古橋が移動していた。二人とも笑顔だった。私たちがいたときには見せていなかった種類の笑顔だ。こちらに背中を向けているが、恐らく塔子と真鍋も同じだろう。加えて古橋は、さらに顔を赤くさせていたように見えた。この赤みは、怒りによるものでないことは間違いない。


「高校の友達は一生の友達になる」高校一年の早い時期に担任から言われた言葉を思い出した。生憎と私は、高校生活でそう多くの友人を残すことは出来なかった。引っ込み思案な性格。帰宅部だった。様々原因はあるのだろう。私が高校を卒業しても付き合いが続いている友人は、ただひとりだけ。


「由宇ー、夜風が気持ちいいからさ、歩いて帰ろうよ」


 店を先に出ていた理真が手を振った。

 担任の言葉は嘘ではなかったと、今になって思う。


「本当はタクシー代が惜しいだけなんだけどね」


 私の高校時代の同級生は笑いながら言った。月明かりが、昔から変わらない、その人なつっこい笑顔を照らしていた。

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