第2章 悪魔の住む花

 翌朝。十分時間に余裕を見てアパートを出て、北陸自動車道と平行に走る国道116号線を南下して柏崎かしわざきまで行く行程を取った。

 やけに道路が空いていると思ったら、今日は土曜日だ。相変わらず私も理真りまも曜日感覚に疎い。アパートの管理人と作家という二人の職業では、そうなるのも無理はない。これなら下道を通っても十分時間内に目的地に到着出来るだろう。


「一応連絡しておくか」


 助手席の理真は携帯電話を取りだし、手帳に書き込んだ番号をダイヤルしている。


「万が一、ひよりさんから向こうに連絡が行ってなかったらまずいしね。こんにちは、有井ありいさんの先輩作家の安堂あんどう理真です、って得意顔で会場に行って、あんた誰? みたいな顔されたら泣くし」

「それは気まずい」


 私はその場面を想像して笑った。


「……あ、もしもし、有井さんのお宅でしょうか? 私、安堂理真というものですけれど……」


 相手が電話に出たようだ。『お宅』ということは、掛けた先は携帯電話ではなく固定電話か。理真の言葉から察するに、有井麻矢子まやこの実家だろう。


「……はい、はい、ええ、十時前には会場に着けます」理真はカーナビに表示された到着予測時刻を見て告げる。「そうですか、分かりました……では、後ほど」


 理真は電話を切って、


「ちゃんと話は行ってたみたい。えらく恐縮されちゃったわ」

「有井さんのお母さん?」

「うん。何と、私の本を読んだことあるそうだよ。着いたら早速サインせがまれちゃった」


 理真は、ほくほく顔で語る。それはありがたいことだ。


「それと、パーティーって言っても内輪だけでやる宴会みたいなものだから、バリバリの普段着でいいって」


 バリバリの普段着というのがどういう類いのものか分からないが、とりあえず積んできたフォーマルとハイヒールは使わずに済みそうだ。ただでさえ理真の愛車R1の車内は狭いので、そんなことなら置いてきたほうがよかった。


「ところで」私は理真に、「読み終わった?『ケフェウスより愛を込めて』」

「もちろん。でなきゃ、こんな涼しい顔してないよ」


 いつも二人で出かけるときは運転好きな理真がハンドルを握るのだが、今日は私が運転している。昨夜遅くまで理真が『ケフェウスより愛を込めて』を読んでいたためだ。

 それというのも、現場でいきなりぶっつけ本番でフォーマルウェアを着るのは怖いため、昨夜二人で着てみたせいだ。そうしたら、「型が古い」だの、「長いことしまってたから皺がとれない」だの、散々文句を付けて(理真が)、これから新しいものを仕立てる時間もないし、アイロン掛けやらなにやらで時間を取られてしまった。

 おまけに、「せっかくだから写真を撮ろう」などと言い出し始めた(理真が)。その中の一枚を理真が気に入って、「次の著者近影に使う」と画像ソフトで、セピア調だのモノクロだの加工して遊んでしまった。おかげで本を読了するのが深夜になってしまい、寝不足となった理真は助手席に座ることとなったのだ。理真は車の中で本を読むとすぐに酔ってしまうため、車内での読書は無理なのだ。ちなみに私もだ。


「じゃ、そういうわけで、私はひと眠りするんで、よろしく」


 理真は浅く倒したシートに背中を預け、すぐに寝息を立て始めた。『ケフェウスより愛を込めて』私は全然読んでないんだけど、いいかな?



『かしわざき共同文化ホール』は、大小二つのホールからなる市営施設だった。ここの小ホールを使って有井麻矢子出版記念パーティーは開かれる。

 駐車場には数台の車が駐まっており。私はその車が固まった一角に真っ赤なR1を滑り込ませた。


「着いたよ」


 私は助手席で寝ている理真を揺り起こす。

 とりあえず荷物は持たずにホールまで歩いて行く。正面玄関には、『有井麻矢子出版記念パーティー』と書かれた本日の予定パネルが出してあった。


「安堂様でしょうか?」


 玄関を通りロビーに出ると、すぐにひとりの女性に声を掛けられた。理真が、そうです、と答えると、その女性は、


「ようこそいらっしゃいました。麻矢子の母の秋枝あきえでございます」


 と自己紹介して深く頭を下げた。理真と私も負けないくらい深く頭を下げる。先に頭を上げてしまった私たちは、秋枝が頭を起こすのを待って、


「お招きいただいて光栄です。安堂理真です」


 理真も自己紹介した。完全に営業用のスマイル。ここだけ切り取れば、『美人作家』としてマスコミに取り上げられても全然おかしくないビジュアルだ。

 私も続いて、友人の江嶋由宇えじまゆうです、と挨拶する。どうしてご友人が一緒に? とは訊かないでくれた。もし訊かれたら、理真がひとりでは心細いというので、と正直に答えてやったところだ。


「江嶋は私の仕事を手伝ってくれている助手なんです」


 理真が私の存在理由を取って付けた。助手は助手でも、作家としてではなく探偵のなのだが。助手の目的を省略しているだけで嘘は言っていない。

 秋枝は、そうですかそうですか、と頷き、「パーティは大勢来ていただいたほうが盛り上がりますので」と微笑んだ。


 私は麻矢子の母、秋枝を見て不安に思った。秋枝が、ばっちりフォーマルドレス姿だったためだ。年齢は見た感じでは五十を越したといったところだろうか。娘の麻矢子が確か二十三歳だと聞いていたので、概ね外れてはいないと思う。ワイン色のドレスを着て、パーマを当てた髪を結っている。

 対してこちらは、理真言うところのバリバリの普段着だ。理真は柄物のシャツに下はデニム。踵の低いパンプスを履いている。私はボーダーのセーターに、同じくデニム。足下はスニーカーだ。私の視線の意味を察したのか、秋枝は、


「私たち家族は一応正装ですが、来て下さる皆様は普段着で結構ですよ」


 と言ってくれた。しかし、この言葉には罠がある。「普段着でもいい」という表現は、「正装は駄目」とイクォールではないからだ。他の招待客が洒落て正装で来ていたら普段着は目立ってしまう。「こいつ、本当にバリバリの普段着で来おった」という視線を刺されることは免れない。私がそんなことを考えていると秋枝が、


「お二人とも、控え室までお越し下さい。麻矢子がもう来ておりますので」


 奥のほうへ手をかざした。


 荷物はまだ車の中だが、とりあえず私と理真は挨拶がてら控え室へ行くことにした。秋枝が扉を開け、促されて入室すると、


「安堂先生。お越しいただき、ありがとうございます」


 椅子に座っていた美人が立ち上がって会釈した。綺麗にまとめた長い髪。細い眉。白磁のような頬。薄いブルーのフォーマルドレス。深く開いた胸元に視線は釘付けだ。髪型こそ違っているが、著者近影で見た女性に間違いない。彼女こそ本年度ジュリエット賞受賞者、有井麻矢子、その人だ。


「先生はやめて下さい」と、こちらも会釈し終えて理真。


 私に向けられた、お前は誰だよ、という麻矢子の視線に対し、


「安堂理真の仕事を手伝っています。友人の江嶋由宇です」


 すかさず私は自己紹介した。麻矢子は私にも会釈をくれる。


「お茶でも飲みながら、こちらでくつろいでいて下さい」


 秋枝は人数分のお茶を煎れ終えると、ひとり控え室を出て行った。残されたのは私、理真、そして麻矢子の三人。


「有井さん、大賞受賞おめでとうございます」


 理真はテーブルの対面に座る麻矢子に対して微笑んだ。


「ありがとうございます」麻矢子は深々と会釈し、「私、安堂先生のファンで。だから、今日お会い出来るのを本当に楽しみにしてました」


 嬉しいこと言ってくれるじゃないの。理真は、ここでもほくほく顔だ。


「それで……」一転、麻矢子は表情に影を差して、「不破ふわ先生からお聞きになっていらっしゃいますよね。ご相談にも乗っていただけるとか……」


 その言葉に理真も一瞬表情を引き締めたが、すぐに元の明るい顔に戻し、


「そのことについてはパーティーが終わったらじっくりと話しましょう。地元への凱旋パーティーに暗い顔は駄目ですよ」

「……はい!」麻矢子に明るい表情が戻った。

「それと、さっきも言いましたけれど、先生はやめて下さい。さん付けでお願いします」

「分かりました。じゃあ、安堂せん――さんも、私のこと、麻矢子って呼んで下さい。それに、喋り方ももっと砕けてほしいです。先輩作家さんなんですから」

「じゃあ、麻矢子さんって呼ぶね」

「はい! あの、それで……いかがでしたか? 私の本……」


 麻矢子の表情は、今度は緊張したように強ばった。


「うーん……」理真は顎に手を当てて、「私の感想はパーティーの挨拶で言うわ」

「えー! どうしよう……」

「心配しないで。面白かったわ」


 顔を赤くして俯いていた麻矢子だったが、理真のその言葉を聞いて再び表情を和らげた。このわずかな時間で、何回顔色が変わったことか。


「わ、私も……」と明るい表情のまま麻矢子は、「『月光ドレス』感動しました! どうしてこれが大賞じゃないんだろうって、ちょっと怒りましたもん、私」


『月光ドレス』は理真の記念すべきデビュー作だ。


「ああ、あれは……」理真は少し遠い目をしながら、「ひよりさんに付きっきりで指導されて直したものだからね。投稿したものは、そりゃ落ちるわって代物だったのよ」

「そうだったんですか……でも、その原稿を読んで不破先生は安堂せ――さんの才能を見抜いたんですよね。やっぱりすごいです」

「ひよりさんが?」

「お二人とも、です!」


 理真は、いやー、そうかなー、などと言って得意げな顔で頭を掻いた。

 その後、雑談などをして十分ほど過ごしていると、扉が開いて、


「麻矢子、そろそろ支度して。皆さんほとんどお揃いよ」


 秋枝が顔を覗かせて声を掛けてきた。時計を見ると、パーティー開始時刻の十一時まであと十五分と迫っていた。麻矢子は、はい、と返事をして鏡台の前に座る。


「由宇」理真が私に耳打ちをして、「本当にみんな普段着で来てるか、見てきて」


 私に偵察任務を振った。パーティーの服装にどれだけトラウマがあるんだよ。私は、はいはい、と扉を開き会場方面へ向かった。

 控え室からはじかに会場小ステージ脇の袖へ行ける。そっと会場を覗き込むと、招待客は全部で二十人に満たない程度か。老若男女、性別年代、おまけに服装もばらばらだ。年配の紳士などは背広姿も目立つが、理真や私と同年代くらいの男女は全員普段着だった。中には仕事を抜け出してきたのか、どこかの建設会社の作業着姿の男性もいる。これなら大丈夫だ。むしろ正装で出て行ったら、「気合い入ってるな」と奇異な目で見られるところだったかもしれない。

 私は控え室に戻り、「問題なし」と理真に偵察の成果を報告した。「ご苦労」理真は敬礼して、私も同じ動作を返した。遊んでる場合じゃないよ。

 会場から、マイクを通した司会者の声が聞こえてきた。


「……本日は、有井麻矢子ジュリエット賞受賞及び受賞作出版記念パーティーに足をお運びいただき、まことにありがとうございます……」


 口上が続く中、身支度を終えた麻矢子は、私と理真の前を通り扉へ向かった。「お二人も」と扉で振り返って声を掛けられたため、私たちも一緒に控え室を出る。袖で待機していると、司会者の呼びかけに応じて麻矢子がゆっくりとステージに上がり、万雷の拍手に迎えられた。


「本日はお集まりいただきありがとうございます……」


 麻矢子の挨拶が続く。挨拶の中で麻矢子は、受賞の喜びと、審査員及び出版社の文芸部編集者への礼を述べた。そのとき、ステージ上から一点に視線を送り、直後客から拍手が起きたところを見ると、その編集者もパーティーに出席しているようだ。


「――ではここで、素敵なゲストの方をご紹介します……」


 麻矢子が、ちらと袖に視線を向け、恐らく理真と目が合った。理真は、出番か、とばかりに二、三度屈伸運動をし、首と手首を回してコキコキと骨を鳴らす。格闘家か。


「恋愛作家の安堂理真先生です」


 麻矢子の紹介で、理真は勇猛な入場テーマ、でなく、招待客の拍手を浴びながらステージ上に歩み出て行った。拍手に手を上げて応える余裕もある。ひとりで来ても大丈夫だったんじゃないか?


「只今ご紹介に与りました、安堂理真です」


 スタンドマイクの前に立ち、理真は挨拶を始める。

 自分もここ新潟県出身であること。同じ賞コンテスト出身であること。しかし、自分は受賞を逃したあとのデビューであるため、立場的にも出版社の扱い序列的にも麻矢子のほうが上であることを述べたときは客席から笑いが起こり、麻矢子は困ったような表情で首を横に振った。

 理真の演説、いや、挨拶は立て板に水で、このまま、『人生には三つの坂があります』などと言い出しかねない勢いだ。私、帰ってもいいかな。

 話はようやく、有井麻矢子デビュー作、『ケフェウスより愛を込めて』に触れた。


「正直、面食らいました。ジュリエット賞、思い切ってきたな、と。でも、いいことだとも思いました。まだ未読の方もいらっしゃると思うので、話の詳細は語りませんが、ジャンルのボーダレス化は小説に限らず様々な媒体で起きています。恋愛小説だからといって、お決まりの舞台、登場人物像に拘泥する必要はないと考えます。有井さんのデビュー作は、このジャンルに新しい風を吹き起こすでしょう。今までターゲット外だった成人男性も手に取る可能性がある作品です。しかし、その根底には、ジュリエット賞に相応しい、愛と感動の潮流が確実に流れています。文句の付けようのない納得の受賞作と言えるのではないでしょうか」


 拍手の雨。麻矢子はうっすらと涙を浮かべ、理真に向かって深々とこうべを垂れた。

 理真は最後に、「ベタな恋愛小説が読みたいという方には、私の最新作『昼は月、夜は太陽』をお勧めします」と言って笑いを誘う。「最新作と言っても、出たのは一年近くも前ですけど」と、さらに会場を笑わせて、登場時よりも盛大な拍手を浴びながらステージを去った。

 司会者は理真に礼を述べ、食事と歓談でお楽しみ下さい。と場内に告げてマイクを置いた。


「さあ、これであとは食って飲むだけだ」


 一戦終えた。とばかりに理真はステージ袖にてストレッチをして、今度は胃袋の戦闘態勢を整えた。いつも以上に食べる気だぞ、今日の理真は。



 私と理真は、ステージ袖からではなく、目立たないように通常の出入り口からそっと会場に入り込んだ。だが、


「安堂先生!」と声を掛けながら駆け寄ってきた背広を着た男性に早くも捕まってしまった。男性は手にしていた皿を手近なテーブルに置くと懐から名刺入れを取り出し、中の一枚を引き抜いて理真に差し出した。


「私、七重ななえ出版文芸部の白浜しらはまと申します」


 少し腰を曲げ、両手で名刺をホールドしているその姿は実にそつのないものを感じさせる。年齢は三十代前半といったところだろうか。ウエーブの掛かった少し茶色い髪を丁寧に撫でつけ、好みはあるだろうが結構ハンサムと言って差し支えないマスクをしている。彼が、麻矢子がステージ上から視線を送っていた出版社の編集者か。名刺によるとフルネームは、白浜和夫かずおという。


「どうも、安堂理真です」理真も腰を折って挨拶する。「すみません。私、白浜さんのこと存じ上げなくて」

「いえ、私も最近文芸部に異動になったもので。有井先生の担当を任されております。安堂先生、最高のスピーチでしたよ。さすがですね」

「まあ、立ち話も何なので……」


 理真は手に持った空の皿を、ちら、と見た。早く料理にありつきたくて仕方がないのだ。立ち話も、と言うが、そもそも立食パーティーだ。



「ぜひ安堂先生に推薦文を書いていただきたかった。次の版からは、帯に一筆お願いしますよ」


 矢継ぎ早に白浜から浴びせかけられる言葉をものともせず、理真は次々に料理を大皿から自分の皿に移しに掛かる。

 私は、ゆっくりと自分のペースで料理をいただいている。隣のテーブルを見ると、麻矢子が同年代の数名の男女に囲まれていた。どうやら理真に声を掛けようと近づいたのだが、途中で捕まってしまったようだ。理真に声を掛けていた白浜のほうは麻矢子の母親に捕まり、有井家の集まるテーブルに連行されていった。


「おめでとう、麻矢子」

「すげーな。あのマヤちゃんが作家かよ」

「昔から国語の成績はよかったもんな」


 麻矢子を囲む男女からそんな声が発せられている。その都度、麻矢子は、「ありがとう」「そんなことないよ」などと返している。


「みんなに安堂さんを紹介するね」


 恐らく友人たちであろう、同年代の男女たちからの声がけが一段落し、麻矢子は理真のほうへと駆け寄った。エビフライを口に突っ込んでいる最中だった理真は、ん? と振り返った。


「こちら、先輩作家の安堂理真さんと、ご友人の江嶋由宇さん」


 麻矢子は理真と私を皆に紹介してくれた。理真と私は、こんにちは、と挨拶する。


「安堂理真さん、知ってます」


 真っ先に声を上げたのは、その中の唯一の女性だった。細身の体をチェックのシャツと膝下ほどのスカートで覆っている。


「本読んだことありますよ。友達に借りて。えーと……何だったかな……」ショートカットの髪を揺らして、うんうんと思い出そうとしているようだったが、「あー、タイトルが出てこない。フランスが出てくる話……」

「『南仏からの手紙』ですね」

「あ! そうそう、それ!」


 作者自身の口からタイトルを告げられ思い出したようだ。


「面白かったですよー。主人公が別れた恋人からの手紙を頼りにフランスを巡るところ、よかったです。私もフランス行きたくなっちゃいましたもん」

「楽しんでもらえて嬉しいです」


 理真は箸を動かすのも止めて、今日三度目のほくほく顔で答えた。同業者より編集者より、読者に作品を褒められるのが一番嬉しいと言っていたな。


「あの場面、やっぱり実際にフランスに行かれて取材されたんですか?」

「いえ、ストリートビューで……」


 理真がばつが悪そうに小さな声で言ったが、麻矢子の友人女性はそれに構わず、というふうに、


「あ、申し遅れました。私、石黒塔子いしぐろとうこといいます。麻矢子とは高校時代の同級生なんです。私だけでなく、今ここにいる三人ともそうなんですけどね」


 塔子は自分の他の二人の男性に目を向ける。麻矢子は塔子の顔を見て、


「塔子は気球のインストラクターなんです」

「気球?」理真は聞き返し、「気球ってあの、浮かぶやつですか?」と上を指さした。

「はい、その気球です。普段は色々とアルバイトをしてるんですけどね。大会とか、イベントがあるときだけですよ、そう常時出来る仕事じゃないんで。今、ちょうど近くの越後丘陵公園で気球の体験イベントをやってるんですよ。もしよかったら、安堂さんと江嶋さんも乗りに来て下さいよ」


 越後丘陵公園は、ここから二十キロほど車で走った先にある大きな公園だ。あれだけの広い公園であれば気球を飛ばすのもわけないだろう。塔子の話を聞いて麻矢子は、


「私も一回乗せてもらったことあります。すごく気持ちいいですよ」

「由宇、行こうよ」


 理真は目を輝かせた。こういうの大好きだからな、理真。


「俺は古橋由起夫ふるはしゆきおです」


 会話が一段落したところで、後ろにいた男性のうちひとりが声を掛けてきた。グレーの背広を着ているが、正装といえるような気合いの入ったものではなく、普段から着慣れている様子だ。細面で少しアウトロー的な雰囲気をさせている。学生時代やんちゃをした種類の男性っぽく見える。


「長岡市内の書店に勤めています。俺も安堂先生のことはもちろん存じ上げてますよ。県内出身作家ということでコーナーも設けていますしね」


 古橋の言葉に理真は礼を述べて深々と頭を下げ、今後ともよろしく、と付け加えた。不良っぽいと思っていたが、書店勤務だとは。見かけによらないものだ。


「もっとも、今一番目立つところには、マヤちゃんの本を平積みしてますけどね。今日の様子も写真に撮ってコーナーに飾ろうと思っているんです。もしよかったら安堂先生に推薦文を書いてもらいたいな。手書きの」


 それを聞いた麻矢子は、「あつかましいよ古橋くん」と口を挟んできたが、理真は快諾した。


「その隣に私の本もちょっと置いてくれますか?」と営業するのも忘れない。「ジュリエット賞受賞作家、有井麻矢子推薦、ってポップを書いて……」先輩作家としてのプライドも何もない。


「僕は真鍋次郎まなべじろうです」


 最後の男性が自己紹介する。真鍋と名乗った男性は背のあまり高くない、古橋とは対照的に気の弱そうな外見の男性だ。薄い青色の作業着を着ている。


「現場を抜けてきたんで、こんな格好で失礼してます。工期が遅れているもので」

「相変わらず真鍋くんは忙しそうだね」


 麻矢子の言葉に真鍋は、ぺこぺこと頭を下げた。


「真鍋」と書店員の古橋が声を掛けて、「お前、忙しいから、どうせまだマヤちゃんの本読んでないだろ」

「実はそうなんだ。ごめんね」


 真鍋は麻矢子に頭を下げた。よく頭を下げる人だ。


「ううん。そんなのいいよ。何だか知り合いに作品を読まれるのって、ちょっと恥ずかしいし……」

「俺はもうばっちり読んだぜ」古橋が麻矢子を見て、「凄く面白かったよ。安堂先生が言ってたように、男でも楽しめる恋愛小説だよ、あれは」


 麻矢子は満面の笑みを浮かべて、ありがとう、と返した。


薩摩さつまくんがいたら、とても喜んだでしょうね……」


 何の気なしに、といったふうに塔子が呟くと、一同は水を打ったように静まりかえった。麻矢子を始め古橋、真鍋も神妙な表情となる。私たち以外のテーブルで談笑する声だけが耳に入る。


「お! 麻矢子ちゃん!」


 静寂は麻矢子に掛けられた男性の声で打ち破られた。よく通るその声の主は、麻矢子の後ろから手を振りながら現れた。


「叔父さん!」


 振り返った麻矢子が呼ぶ。

 麻矢子がおじさん、と呼んだその男性は、青いつなぎに大きな体を押し込み、豊かな口髭に覆われた口元に笑みを浮かべながら近づいてきた。手にはビールの入ったグラスを持っている。


「そちらは麻矢子ちゃんのお友達かい?」

「はい、高校の同級生です。こちらは」麻矢子は理真と私に手を向け、「先輩作家の安堂さんとご友人の江嶋さん」

「ああ、ステージの挨拶、聞かせてもらったよ」


 おじさんと呼ばれた男性は、がはは、と笑って髭の顔を理真と私に向け、


「麻矢子の叔父の倉田文彦くらたふみひこです」


 と言いながら、私と理真に名刺を差し出した。


「叔父はヘリコプターのパイロットなんですよ」


 麻矢子が叔父の職業を紹介する。


「なあに」倉田はぐい、とビールを煽って、「小さい会社なので、航空なんて言っても所有しているのはヘリが二台だけですが」


 いただいた名刺によれば、倉田の勤めている会社は〈エヌジー航空〉という。倉田はさらに、


「だいたいいつもは新潟空港に詰めているのですが、今日はかわいい姪の晴れ舞台ということで、新潟空港から文字通り飛んできました」

「え? ヘリコプターでですか?」


 私の問いに倉田は、


「ええ、本社がこの近くにあって、ヘリポートもあるんですわ」

「まあ」麻矢子は口に手を当てて、「おじさん、そんなことでヘリコプターを使っていいんですか?」

「もちろんいいさ。商売なんだから。実は新潟市にいる親戚数名でここへ来るためにうちのヘリをチャーターしたんだよ。パイロットで俺もいるし、せっかくだからってね」

「そうだったんですか」

「俺はしばらくこっちにいるからさ。今日は大いに飲んで楽しもう。皆さん、今後とも麻矢子をよろしく」


 倉田は空になったグラスを頭上に掲げると、がはは、と笑いながら他のテーブルへ移っていった。


「豪快な人ですね」


 つなぎの後ろ姿を見送って私は口にした。


「ええ、昔から全然変わりません」


 麻矢子がそこまで言ったとき、倉田の移ったテーブルで、麻矢子の母親の秋枝が手招きする仕草をした。こっちへ来い、と合図を送っているのは娘の麻矢子に対してだ。麻矢子は、


「ごめん、みんな。安堂さんと江嶋さんも」


 と断って、早足に母親の元へ向かった。どうやらそのテーブルには親戚同士が集まっているようだ。


「じゃ、僕はこの辺で……」作業着姿の真鍋が空にした皿をテーブルに置いて、「現場抜けてきたから、そろそろ戻らないと」

「本当に忙しいんだなお前」


 その様子を見た本屋の古橋が笑った。


「真鍋くん、また電話するね」


 塔子の声に、またしてもぺこぺこと頭を下げながら真鍋は会場を出た。


 麻矢子が母親に呼ばれたのは、久しぶりに会う親戚に挨拶するためだったらしい。ものの数分で麻矢子は再び私たちのところに戻ってきた。


「あ、そうだ。私たち、連名で花送ったんだよ。見てくれた?」


 塔子は会場出入口に並んだスタンド花を指さした。


「えっ? 本当に?」


 麻矢子は嬉しそうな表情になって、スタンド花に向かって歩いていく。私たちもついていくと、


「あー、これね。ありがとう」


 麻矢子はひとつのスタンド花の前で立ち止まって歓声を上げる。その花には、〈友人一同〉と札が掛かっていた。差してある花はピンク系の色で統一されており、緑色の葉との色合いが美しい。差しい色的に配された白いカスミソウもいいコントラストを添えている。

 スタンド花は他にも、出版社、家族一同、地元の市議会員などからも贈られている。麻矢子は歩きながらそれらの花を順に眺めていたが、あるスタンドの前で、ぴたりと足を止めた。それをおかしいと感じたのか、理真が駆け寄り、


「麻矢子さん、どうかしましたか?」

「……安堂さん」


 理真を振り返った麻矢子の顔は、先ほどまでの花を愛でていた柔和なものとは一転、恐怖を帯びたかのごとき険しいものに変わっていた。手には一枚の紙を持っている。

 私も理真のあとを追って麻矢子が足を止めたスタンド花の前に立った。塔子と古橋も駆け寄る。


〈おめでとう麻矢子。僕はずっと君を見ている〉


 麻矢子の手にした紙には、そう書かれていた。そのスタンド花に掛けられた札には送り主の名前はない。


「何これ? 今まで誰も気づかなかったの?」


 塔子が訝しげにそのプリント紙を見て言った。それには麻矢子が、


「これ、裏側に隠すように置いてあったの。私、この花だけ送り主の札がないから、変だなって思って裏側を覗いてみたら、これが……」

「麻矢子さん」理真はハンカチを手に、自分の指紋が付かないようにしながら麻矢子から紙を受け取ると、「これって、もしかして……」


 麻弥子は黙って頷いて、


「はい、多分、いえ、間違いないです……ストーカーのものかと」

「ストーカー?」


 塔子と古橋は驚いた表情になって、同時に口にした。

 ストーカーから贈られたらしいそのスタンド花は、赤い色の花を集めてアレンジメントされていた。あんな文面を見たせいだろうか、私には美しいはずのその花のひとつひとつが、まるで悪魔の化身であるかのように見えてきた。血のような真っ赤な色を振りまいた、バラも、カーネーションも、ベゴニアも……

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