第7話
美咲の生活はもはやバブシュカ動画を中心に回っていた。平日は帰宅するなり早々自室へ入りバブライブとスカイプ。休日は篭り新規動画の発掘に精を出す。家族間での会話は無に等しい。
「美咲さん。ちょっといいかしら」
万二郎との約束もあるのだが、楓は母として家庭の不和を看過できなかった。部屋にいる美咲は絶賛放送中であったが、母の声に異変を察したのか渋々と中止ボタンをクリックし「どうぞ」と自室に招く。
「美咲さん。最近部屋に篭りきりのようですけど、何をなさっているのです?」
楓の語り口はいつだって丁寧なのだが、それは感情が抑えられているというわけではなく、喜怒哀楽のすべてが彼女の声にはこもっている。殊更、怒は分かりやすく壮絶。静かな激動。語気は寂かつ冷。血の凍るような吐息はまるでサタンを抑えるコキュートスのようで、聞けば固まる。
「勉強をしています」
咄嗟の虚偽。しかし。
「嘘を吐くのは、いけませんわ」
瞳を合わせる二人。いや、美咲の場合は反らすことができないと言った方が正しい。蛇に睨まれた蛙という諺が、この状況に正しく合致する。
「お年頃故、お戯れになるのは構いません。が、逸脱してしまうのは許容できかねます。お分かりですね?」
美咲はエアコンの効いている部屋で汗を落とした。水の如く澄みきった雫がポタリと床に落ち、空気が揺れる。張り詰めた部屋は世界から隔離されたようで、異質であった。
「次のお休み。お父様と一緒にお食事に行きましょう」
「……っ」
母の一言に、美咲は声を出そうとする。だが。
「よろしいですね?」
その一言に、言葉を失する。
「その日は約束がある」
たったそれだけが口から出ない。
「それでは」
「……」
もはや頷くほかなかった。舌を回す余裕がなかった。部屋から出て行く母を見送り倒れ込むと、助かった。といった様子で深く、深く沈むのであった。
「ほほぉ……それは残念でなりませんな」
美咲はルサルカにスカイプ通話せずにはいられなかった。涙こそ流さなかったが、茫然自失。声に力も精もなし。前線から後退した兵隊の様に焦燥しきっている。
「申し訳ございません……せっかく誘っていただいたのですけれど……」
「いやなにお気になさらず。世界が滅ぶまではまだまだ時間がありましょうからな。おっとそうだ。なんなら、午前中だけでも構いませぬぞ?」
「まことでございますか!?」
ルサルカの言葉に美咲の声が踊った。
「これこれ。まことであるから、お静かに。あまり騒ぎすぎるとお母上に咎められますぞ」
「申し訳ありません……はしたない真似を……」
「なにお気になさらず。それくらいの方が、可愛げ気がありますからな」
ルサルカは笑い、顔を赤らめる美咲。緊張が取れ少女の顔はいくらか緩んでいた。
通話を終え、ベッドに入った美咲の幸せそうな笑みといったらない。ルサルカに対する彼女の気持ちからは憧れかが薄れ、恋一色に塗り替えられていた。
翌日。教室にて夏美が美咲に声をかける。
「あの、美咲さん……」
美咲は「何ですか」と冷たい。もはや興味がないように無機質な視線を向ける。
「今日、ご一緒に放送いたしませんか?」
蚊の消え入りそうな声と表情は悲痛。目の光はなく卑屈で、差した影は濃く、可憐であるが故に孤独の芳香が強く漂う。その姿に苛立ちを覚えたのか、断りを入れる美咲の語気は強かった。
「お断り致しますわ。私、貴女と違って忙しいんですのよ?」
瞳を潤ませる夏美に、美咲は追い打ちをかける。
「そうそう。私、次の休みにルサルカ様とお会いいたしますの。楽しみだわ」
「……! 美咲さん! お辞めになってください! あの方は……」
「女性に酷いことをなさる。そう言いたいのでしょう? 貴女は」
「……っ」
ルサルカに立つ悪い噂。女性ナロートに対する暴行。彼のファンである美咲がその話を知らぬはずはなかった。しかし、すでに彼の万事を信じ切ってしまっている彼女にとってそれは愚者の戯言に過ぎない。多くの人間がそうである様に、美咲もまた盛る恋慕の炎に焼かれ、目も耳も焼き尽くされてしまっているのだ。もはや、一時の感情が冷めるまでは、他人が何をしても無駄なのである。
「そんな噂。事実無根に決まっています。現に私、あの方と何度もスカイプ通話をしていますもの。気になるようでしたら、貴女もいらっしゃいますか? 私とルサルカ様の仲を邪魔立てしないなら、ですけれど。それとも次のお休みに私と彼の蜜月をご覧になった方が早いかもしれませんね。場所と時間は……」
わざとらしく、美咲は待ち合わせ時間と場所を夏美に伝えると沈黙が支配する。居た堪れなくなったのか、「それでは」と言って去る美咲と、それをずっと見つめる夏美。その
美咲は帰宅して、嫌々母と話し、夕食までの間にバブライブを放送した。時間が早くチレーンの数は少なかったが、常連である[YS6]というユーザーがしきりにコメントを書いたおかげで、機嫌よく放送を終えることができた。
YS6はペスニャ手であり、中々歌が上手かったがバブライブはしていない。すっかりリアルタイムのやり取りに熱中している美咲にとって、YS6はいい声で歌うつまらないチレーンという認識でしかなかったが、コメントが少ない時は彼に話を振り間を潰していた。勝手なものだ。
そして休日。美咲は粧し込んで家を出た。夏が力強く輝いている。一人の少女が出歩くには、些か刺激が強い日差しであった。
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