第4話

『亡霊と天使のディストーション読みました。矢尾さんの感想が聞きたいです。』


『そっか良かった。返す日はいつが都合が良い?』


『矢尾さんの感想が聞きたいです。』


『あの、返す日は、』


『矢尾さんの感想が聞きたいです。』


 穂上はどうしてメッセージだと完全に丁寧語なのだろう。口頭では呼び捨てのタメ口で普通に喋れるのに。不思議だ。"さん"付けなんて、初対面のときも矢尾"君"だったわけだし。この言葉遣いには妙な圧迫感がある。


 しかも、そんなことより、緒志金が余計なことを言ったせいで非常に厄介なことになっていた。本を貸してから一週間。そこそこ話もして打ち解けつつあるとは言え、その段階を超えてこの人はぐいぐい来る。感想なんて本好き相手には言いたくないのにそこまで聞きたがらないで欲しい。


 穂上と連絡先を交換してしまったのも緒志金が原因だ。正確には緒志金と苑夢を経由していて、ついでとばかりに苑夢とも連絡先を交換してしまった。


 苑夢とのメッセージのやり取りはまだ無い。もしも来てしまったらまた錯乱しそうだ。別に慣れたからって一目惚れした事実が無くなったわけではないのである。


 未だにあの、苑夢の笑い方を見ると、心臓が爆発しそうになる。


 何が嬉しいのか、心底幸せそうに崩れに崩れた笑顔。水飴みたいにどろどろで、甘ったるく、柔らかくて、溶け込んでしまいそうな微笑みが、どうしても苦手だった。理屈では無い。触れたくなるほど、ずっと見ていたくなるぐらいに、本当に魅力的で、それが目の前にあるだけで俺まで幸せになってしまう。だからこそ苦手なのだ。


 だが、俺も流石に手をこまねいていたわけじゃなかった。対処法の模索ぐらいはしている。実際それは効果を出し始めていた。


 おかげで最近はあの笑顔を見ることも減りつつある。それにもう一つ、俺を冷静にさせる要素も身近にあって、流石に暴走する思春期も休眠期に入った。今では苑夢も普通に好きなだけだ。


「……」


 重症なのは変わってないなこれ、と。そんなことに気付きつつ、俺はメッセージを無視することに決めた。無視しておけばまた穂上が学校で何か言ってくるだろう。


 穂上と話すのは緒志金の次に気楽だし、都合も良い。彼女はそうとは知らず苑夢に対する防波堤になってくれるのだ。緒志金シールドの次は穂上シールドである。


 防御態勢ばかり整っていく。攻める気は無い。俺の一目惚れ物語にハッピーエンドは存在しないのだ。だってそう、ほら、あの、ね?


 こと恋愛に関しては、相手にも自分のことを好きになって貰えなければ、そこにハッピーエンドは生じ得ない。


 自分の良いところは? と、自らに問い掛けてみたことがあるだろうか。俺はある。根暗だから百回以上、問い掛けては答えを探してきた。いや流石に回数は誇張しているけれど。


 好かれるためには魅力が無ければいけない。相手に売り込み、自分に惹かれてもらうための魅力。何でも良い。一つでもあれば、それを駆使すれば好きになって貰えるかもしれない。そこには努力が必要だ。


 理由も無く勝手に相手が好きになってくれるなんてことは有り得ない。


 そんなものが許されるのは頭の悪いラブコメだけだ。


 たまにある。いや、わりとある。結構ある。ラブコメの、"なんか流れでヒロインが主人公に惚れている"パターン。そうだね主人公は優しいもんね。死ね。


 優しい奴なんて沢山居る。格好いい奴もだ。


 ストーリーとしては面白い。それに、いっそラブコメなんてヒロインが可愛ければいいという意見さえある。だから別にそういうものも好きだ。大好きだ。


 だがそれとこれとは話が別なのだ。


 そんな頭の悪いラブコメばかり読んでいるから現実の恋愛が出来ないのだろう。"ラブコメっぽい流れが来たら"では無い。何かしらの魅力を以てアピールして、そうしてようやく好かれることが出来るはずだ。ハッピーエンドを目指すのならばその魅力と、アピールとは、必要不可欠である。


 ――俺には魅力が無い。アピールなんてしようも無い。


 だからそう、何も始まってなんていなかったのだ。俺の一目惚れも、別に相手に好かれる要素が何も無いのならば、そして努力もアピールもしないのであれば、全ては自己完結だ。人間関係の相互作用が生み出すラブコメの前提条件さえ満たしていない。頭の悪いラブコメの方がよほどマシだ。


 俺の一目惚れはきっと、もっともっと頭が悪い。


 そんなものを物語として見るならば、恐らく、俺がずっと"苑夢かわいい"とモノローグで呟くだけの、ストーカーストーリーになってしまうのだろう。



 ☆



 穂上と知り合ってから二週間が経った。


 月日が経つのは早いものだ。いつの間にか朝日がどんどん鋭くなり、肌を刺す冷気に痛みを感じるようになっている。


 布団が恋しい季節だ。冬休みが近いので我慢は出来るが、手袋とマフラーが無ければ外にも出られない。こんな日でも俺の駅までの移動手段は自転車で、かじかむ身体で風を浴びていると歯の根も噛み合わなくなる。


 だが休むわけにもいかなかった。今日から期末テストなのだ。その上四日間の期末テストのあとに土日を挟み、答案返却に解説・三者面談まで控えていた。こんな時期に『寒いから』なんて理由で学校を休もうものなら後が怖い。


 それに、今回のテストには自信があった。なんと勉強会なんてものをしてしまったのだ。勉強会というとテスト前に遊びたい学生が使う常套句だが、このメンバーの場合は一味違う。


 まず、みんな驚くほどに集中力が高かった。さらに、苑夢と穂上の友達が二人ほどくっついてきたのだ。どうやら穂上はその筋で有名な秀才らしく、その恩恵を求めてやってきたのだと。皆が真面目にやっている上に初対面が二人も参加する勉強会を楽しむ余裕など俺には無く、代わりに勉強には驚くほどに没頭出来た。


 ゆえに今日は特に自信がある。テストがとても楽しみだ。俺の実力を見せてやろう。


 意気揚々と電車に乗り込み、鼻歌交じりにくるりと回って扉横の手すりを掴む。


 ――その途中。


 流れる視界に何かが見えた気がした。覚えのある、というか、知り合いの顔。いやまさかと、恐る恐る振り返ってみると、思い切り目が合う。


「……」


 無言で歩み寄ってくるのは、穂上だった。メガネ越しの無表情からは何を考えているのか読み取れない。言葉も無く、表情も無い。軽いホラーだ。


「――おはよう」


「お、……おはよう」


 どうしてこう、ただの挨拶に雰囲気があるのだろう。小さいながらも良く通る声は頭の奥まで染み入るようだ。今日も今日とて花のように凜として嫋やかな立ち姿は健在らしい。真っ直ぐと立ちながらもどこかしなやかで、惚れ惚れする。


 そのまま穂上は隣にそっと立ち、俺をじっと見た。


「……」


 また無言。


 アイコンタクトは苦手だ。真正面からそのメガネの奥の瞳が揺らめく様を見ていても、内心など読み取れるはずも無い。だから俺はただ言葉を待って、答えるようにひっそりと、穂上は言った。


「……読んでて良い?」


 "あなたの普段着"。手元にそっと持っている文庫本をほんの少しだけ持ち上げる。こくこくと首肯を返すと、気のせいかというぐらいに目尻をミリ単位で下げて、穂上は文庫本を開いた。


 そこからは本当に無言の時間が続く。


 がたがたと揺れる電車と、衣擦れに雑談、咳払い。俺と穂上の周りには沢山の音が溢れていた。しかし俺の五感はただただ静寂を訴えている。聴覚に届く音など耳に入っているのかさえ分からない。


 用件があるときならば、穂上は必要十分に良く喋る。初対面のときがそうで、あの日の印象からして穂上はそれなりに雑談もする方なのだと思っていた。それが勘違いなのだと気付いたのはいつだったろう。


 手持ち無沙汰に佇む俺の眼前で、穂上は真剣にページを捲っている。


 会話は余計だ。この場に揃って沈黙を共有していることが奇妙に心地良かった。俺も何か本を持っていればと悔やむが、ただ黙ってこの時間を楽しむのもそれはそれで悪くない。


 電車が高校の最寄り駅に着くまでの短時間、それは堪能という言葉が非常に似合う、会話の無い時間だった。


「そういえば、」


 と、電車の扉が開き、降りるところになってから穂上は口を開く。がさごそと鞄の中から封筒みたいな茶色い紙に包まれた何かを取り出して、連れだって電車を降りながら、穂上はそれを差し出してきた。


「面白かった、ありがとう。ドキドキした」


 手の平に受け取ったもののずしりとした重みと感触から悟る。ソフトカバーの単行本、"亡霊と天使のディストーション"だ。俺が感想を答えないから返却日がうやむやになっていたそれを、今日返してくれたのだ。


 もしやさっき隣まで近付いてきたのはこれがあったからで、直ぐに返さなかったのは言葉に悩んでいたからなのだろうか。


「あ、うん」


 ――そこで、ドキドキした、という言葉を選んだことには大した理由は無いのだろうけど。


 一歩遅れて、穂上の後ろ姿を見つめて考える。俺がこの本の感想を言うならば、どんな言葉を選ぶだろうかと。


 纏まらない文字列が脳裏を巡る。普段ずっと胸の内に秘めているせいで、感想を言葉にするのが苦手になってきていた。


 だけどきっと、いくら考えようと一言には、あんな風な一言で言い切れることは、無いのだろうと思うのだ。



 ☆



 イージーミスの散発したその日のテストを終えて、夜中に自室で俺は携帯と睨めっこしていた。


 感想を書いては消し、書いては消す。


 結局その日、あの本の感想を、俺は穂上に送ることは出来なかった。

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