第3話
「ミノルー、レモニア取ってー」
「んー」
ソファーでごろごろしてる妹の命令に従って席を立ち、レモン風味のジュースを取ってきてやる。
「ん」
「んー」
そこに会話と呼べるやり取りは無い。『ん』の文字だけで兄妹間の意思疎通は十分成り立ち、妹はジュースを啜り始めた。
「こんなときぐらい本とか置けよなー」
「ん」
文句を言う妹に返すその『ん』がどういう意味なのかは俺自身にも分からないが、そんなことに妹は頓着しないし、俺はこいつと日本語を交わしたく無い。
そろそろ二時だ。面倒になってきた。妹もそろそろおやつを欲しがる時間帯だろう、家に居ては使い走り扱いだ。いつも使う小さめの鞄を左手で引っ掴み、右手の指で自転車の鍵をくるくる回す。
「なにミノル、どっか行くの?」
「んー」
「使えねーなー」
「ん」
俺は家を出る。
☆
図書館の休館日は月曜だ。
だから土日は普通に朝十時から夕方五時まで開いていて、とてもお世話になっている。帰宅部だけど別にバイトもしていない俺には自由なお金があんまり無い。時間ばかりを持て余す俺にとって図書館は救いだった。たくさん本があるし、ウォータークーラーもあり、テストの時期を避ければ自習室も借り放題だ。凄く落ち着く。
俺の行動範囲は非常に狭いのだ。図書館はその中でも特に長時間を過ごしやすく、重宝している。
だから気付けば、俺は図書館に来ていた。
家から自転車で十分。俺の憩いの場。テストも終わって自習室もがら空きで、居心地が良い。解放感にほうと息を吐き出すと、本を机に置く。自習室とは書いてあるが本を読んでいて咎められることも無い。本を読み込むことこそが勉強である場合もままあるからだ。
それにテスト前ならまだしも、今の時期は席が余っている。他の人の邪魔をしなければ寝ていたってお咎め無しに違いないだろう。
今日も今日とて人はまばらで快適だった。強張った身体を目立たないようほぐしておく。
そうして一息吐いてから、家から持ち込んだハードカバーの単行本を開いた。物陰に溶け込むような子供のシルエットが表紙の、素敵な色合いの装丁で包まれた本だ。古本屋で買ったとは言え、ハードカバーも単行本も珍しい。値段の問題があるから、そういうのは普段は図書館で探す。この本を買ったのは気まぐれだった。
そうして読み始めた本に、――飲み込まれた。
迷子を題材にした青春ミステリだった。中高生ぐらいの男女がペアで、謎に取り組み成長するストーリー。という、他にも何件もヒットしそうなありふれた物語だ。特徴的なところと言えば舞台がハイ・ファンタジーな世界だということで、"隣人"と呼ばれる不可思議と、"力在る言葉"という魔法が童話めいた響きでその物語を彩っていた。
"力在る言葉"を操る"隣人"は、それ故に絶対に嘘を吐かない。ミステリとしての要素で見ればそれは保証された手掛かりだ。もしも彼らの言葉が主人公達の内面にまで踏み込まなければ、それだけだっただろう。
辛く苦しく悲しい物語だからこそ俺は泣いてしまった。そこにあったのはすれ違いと離別だった。
迷っている彼らを見ていられない。悲しみがこみ上げてくる。なのにページを捲る手は止まってくれなかった。
どこがどう面白かったのか、どの台詞が好きで、キャラクターが好きで、好きなところがたくさんあって。感想は止めどなく、語りたい言葉が溢れ出してくる。
相手が居なかった。
――それを言う、相手が、居なかった。
物語を楽しむのは孤独な作業だ。
そう、自分に言い聞かせ続けている。感情の振れ幅が大きい俺にはこういうことがままある。その度に感想を共有できる仲間を求めていても徒労に終わるだけだ。だから物語を楽しむときには孤独なのだ。孤独で無ければならないのだ。
人それぞれ価値観は違う。
だからそう、俺がこんなにもこの物語を好きなのに、それはほとんどの人には通じないし、好きになってくれる人を見つけるよりも地雷を踏む方がたいてい早い。好きなものを嫌われることが先んじて、また俺は打ちのめされてしまうのだ。
好きなものを否定されるのは嫌いだ。だから孤独に楽しむ。
けれど俺だって覚えている。友達と一緒に、互いに共通の、本当に好きなものの話をするとき、どんなに楽しいかを。
もっと深い楽しみ方を知っているのにそれを避けている自分は、本当に物語が好きなのだろうか。分からない。
雑念がもやとなって漂っている。こんなにも感動しているのに、涙を流してさえいるのに、砂利が混じったような引っ掛かりがあった。
――不純、だった。
☆
五時に図書館を出て、帰路に着く。
さっき読んだ物語の余韻が残っていて、気分は高揚したままだった。ただそれをぶつける先が無く、膨らむばかりの気持ちを持て余している。そうした今にも弾けそうな火種を抱えたままで居るのは精神的に不健康だ。切り替えが必要だった。
幸い、スイッチならば心当たりがある。
寄り道をせず、真っ直ぐ帰宅する。自転車を漕ぎながら流れる景色を眺めるのもたったの十分だ。今の気分ならばそれは一瞬のことで、物思いに耽っている間に我が家の前に辿り着いていた。立ち並ぶマンションの一つ、暗証番号を入力することでロックを外して、俺はその中に踏み入る。
この区間。
暗証番号を入力してから、二階の我が家まで続くちょっとした道程が、俺の気分を入れ替えていく。家に帰れば家族が居る。そうなると外の気分を持ち込んだままではやっていけない。
そうあるしか無かったのだ。これは俺が後天的に獲得した体質だった。
外でどんな楽しいことがあっても、ちょっとした悲しいことがあっても、イライラしていても、疲れていても、気分だけはここで平らに均されていく。あるいは俺の感情の振れ幅が激しいのは、家での生活の反動なのかもしれなかった。
扉の前に着いた頃には、もう家でのことを考えていた。上手くやっていくための過ごし方を。
「ただいま」
とは言え、別に何の変哲も無い普通の家庭だ。昔に大きな喧嘩があったぐらいで、今となっては不仲も無い穏やかな一家である。「おかえりー」という親の声が出迎え、俺は自室に鞄を放り投げてリビングに向かう。
「また図書館? ほんとに好きねぇ、どうしてそんなに本なんて読むようになっちゃったのやら」
今日の仕事は終わったらしい、最近のブームであるヨーグルト作りをしながら母さんが笑っていた。「んー」と答えてソファーに目を遣れば、妹が勉強している。宿題だろうか、テレビを消せとは思うけど真面目なことだ。まぁこいつは出来自体は悪くない。
「アイス」
と妹が言った。
冷凍庫からアイスを取ってきてやる。礼も言わずに受け取った妹は、ノートと睨めっこしながらしゃくりと囓った。
――自室に籠もっても良いだろうか。
横目で母さんの様子を窺う。機嫌は良さそうだ。試しにと、リビングを出てみる。
「どこ行くの?」
問いが、追ってきた。
「ん。トイレ」
嘘を吐く。
息苦しい。母さんは兄妹仲を心配しているだけだと理解はしているのだ。余計なお世話だとは言えないし、実際に余計なお世話では無いのかもしれない。俺も妹もストレスを溜め込むタイプだ。表面上には出さないけれど、だからこそ母さんからしてみれば、じっくりと観察して過ごさないと不安になるのだろう。
洗面所で顔を洗って、自室から本を取ってくる。
今、小説や漫画なんて読んでもきっと楽しめない。こんな気分で読んで『面白くなかった』なんて感想を抱くのは物語への冒涜だ。
だから俺はエンタメでは無い本を手に取って、リビングに戻った。"恭順の心理"。傑作だった。
☆
一ヶ月が経った。
あの日から苑夢は、たびたび話し掛けてくるようになった。
声を掛けられるのはたいてい昼休みや放課後だ。遭遇率自体はそもそも高くないが、代わりにすれ違うとちょっとした雑談に興じる。最初は戸惑っていたものの、やはり人間慣れとは凄いもので、一ヶ月も経つと俺から声を掛けることも稀にあるぐらいに馴染んでしまった。
話題は主に漫画や本の話だ。苑夢が何が面白かったとか、何に感動したとか、聞いてもいないことをぺらぺらと語っていく。俺が何かの感想を言い出すことは無いが、それでも苑夢は楽しそうだった。俺は頷き、質問し、聞き届けるだけだ。たまに安く漫画を読む方法だとか、どういうタイトルが話題になっているだとか、情報を出す程度。
正直、これは楽しい。
だいぶ苑夢に過剰反応することも無くなってきて、普通に接することが出来るようになってきていた。話題も少しずつ広がっていて、最近では期末テストやら文芸部の友達やらについて喋ることもある。
そんな十一月。苑夢と知り合ってから一ヶ月を過ぎた頃。
これまた何でも無い日の放課後、苑夢がお供を連れてきた。
「あなたが矢尾君?」
普通の女子高生だった。「おっすー」といつも通りの鳴き声を上げる苑夢の隣に居たのがその女子で、一対二の不利を悟った俺は近くに居た緒志金の肩を掴む。俺の精神安定のために巻き込んでしまおう。
「おう。そんでこっちが緒志金な」
「ちわっす」
「ふーん。初めまして」
巻き込んだ緒志金も、苑夢の友達も、全く動じること無く挨拶を交わす。かろうじて「よろしく」と返す俺は内心恐々としていた。なぜこんなにも自然体で居られるんだろうかこいつらは。初対面だというのに、人見知りは俺だけなのか。
だが緒志金シールドを導入したことで俺にもかなり余裕が出来た。
「苑夢の友達か?」
気兼ねなく喋れる空気が出来たことを感じて、そう切り出す。彼女は躊躇無く「うん」と頷いた。
真正面から視線を交わして、少しだけ見上げる形になっていることに気が付く。見た感じ緒志金と同じぐらいの背丈で、ということは俺よりも三センチほど身長が高い。姿勢の良さが原因だろうか、凜と真っ直ぐ立つ彼女はなんだか格好良かった。
そして、メガネだ。メガネという共通点がある。きっと良い人に違いない。
「文芸部とクラスが一緒で仲良くなったんだー」
「
「ん、んー……」
穂上 京。自己紹介らしくない言い回しだがそれが名乗りのようだ。性格はやはりある程度見た目に出るらしい。外見に似合った直截な問い掛けに俺は口ごもる。
違うのだけど、今更になって苑夢の前で訂正するのも気まずい。結局俺は「まぁ……」と、曖昧な返事をするに留めた。
「そうか。良かった仲間だ」穂上がほんの少しだけ頭を下げる。「突然ごめん、矢尾君。"亡霊と天使のディストーション"を持ってるって聞いて来たんだけど」
そのタイトルには覚えがあった。そういえば苑夢にも喋った気がする。最近読んだ本は何かと聞かれたときだったか、無難でマイナーな良い感じの名前を挙げようと思って選んだのがそれだ。
青春ミステリの文脈で綴られるSFという印象の良作で、理論的な部分は分からなかったがそれでも面白かった。
「ああ、貸して欲しいってこと?」
「そうなんだ」
「ミヤコ本の買い過ぎでいっつもお金無いんだって。それでミヤコが欲しがってた本、矢尾っちが持ってるって言ってたの思い出して」
「なるほど」
その気持ちは良く分かる。本もそうだし、漫画にまで手を出そうものなら小遣い程度では到底足りない。節約は必須だ。本は図書館や古本屋で、漫画はレンタルで読むのが一番財布に優しくオススメだ、なんて出しゃばったことは言わないけれど。
「だめ?」
「いや良いよ。今日持ってないけど、穂上も苑夢と同じクラスなんだっけ? 明日で良ければ持って行こうか?」
断る理由など無かった。むしろ歓迎だ。面白い物語はもっと読まれて欲しいと思ってしまうのが人間だろう、それが相手から読ませてと頼んでくるのであれば感謝したいぐらいである。
それに表情は全然動かないけれど穂上さんは格好良いし、メガネだ。『だめ?』なんて言われたらこっちがもうダメだ。ダメになる。やられてしまう。
そうして即答した俺を、不思議な空白が包み込んだ。
穂上は無表情でこちらを見ていた。何を考えているのか分からない。テンポの遅い人なんだろうか。そういう人はたまに居るけど、即断即決しそうな雰囲気があるからしっくり来ない。
実時間にしたら一秒にも満たないだろう。しかし確かな空白を挟んだのち、瞬きを一つして、そっと穂上が口を開いた。
「呼び捨て」
よびすて。よびすて?
頭に染み込む四文字を反芻する。呼び捨てか。どういうことか。そう考えて、悟る。初対面なのに穂上に"さん"付けをしなかったことを言ってるのか。
慌てて補足の言葉を探す。
「ごめん、失礼だったか! 悪い! 基本的に同級生は呼び捨てにすることにしてて」
「良いよ良いよ。じゃあ明日持ってきて貰ってもいい、矢尾?」
「俺の方に合わせるのか……」
「よろしくね、矢尾」
別にどちらかに合わせる必要も無いだろうに、穂上にふざけた調子は全く無かった。穂上の性格は全然知らないが、なんとなく頑固そうだ。別に同級生の間なら呼び方なんて個人の自由だろう、呼び捨てにされようと"矢尾っち"と呼ばれようと甘んじて受け入れよう。
「……じゃあ、そういうことで」
「助かる」
どうやら話が纏まったらしい空気が漂い、一息吐く。と、ふとひそひそ声で話してる奴らが居るのに気付いた。
(ミヤコも変な子だと思ってたけど矢尾っちも変だね。なんか? 動きとか? いろいろ? 二人揃うとすごい)
(あー、類友っつーか? やっぱ集まるもんだね)
時間はそんなに無かったろうが、苑夢と緒志金がこっそり話していたらしい。
いや変だなんだと馬鹿にされるのは全然構わないがこいつら距離が近い。こう、なんというか、あのぶっちゃけ羨ましかった。ついつい剣呑になってしまう目付きに気付いて、パッと散会した二人がそれぞれ笑顔で参加してくる。
「いやー良かった良かった。矢尾と同じ本読む友達が出来て本当に嬉しいっつーか、これからよろしく穂上さん。こいつ本読まない俺に一生読んだ本の感想とか言ってくんの。代わりに聞いてあげてよ、こいつマジでそういう友達に飢えてるから」
「ねーほらミヤコ。矢尾っち良い人でしょ。部誌も読んでくれてるらしいし、絶対気が合うと思ったんだー」
同時に話し掛けられて戸惑っているらしい穂上に、二人はわいわいと絡んでいく。
やいのやいのとやかましいが、別に不快でも無い。流石に俺も混ざる気にはならないが見ている分には楽しいものだ。俺の口元も緩んでくる。
――それから用件も終わったのに、俺達四人は十分以上喋り続けた。さしたる話題も無いがそれはとても楽しく、こういう賑やかな日もそれなりに悪くなかった。
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