第2話
テスト初日、月曜日。
俺は土曜日にメールで尋ねた内容を、この日また繰り返した。相手は緒志金だ。すなわち、
「あいつ、何なんだ」
緒志金はすっとぼけた表情で唐揚げを摘まむ。
「あいつって?」
「分かってんだろプチトマト盗むぞコラ」
「分かってんよ苑夢さんな。ぜひ持ってって。全部」
「ありがとう」
プチトマトを貰いながらの話題は、苑夢のことだった。
プチトマトは美味い。ぷつんと弾けた瞬間にじゅわっと溢れる酸味と甘み。明確に始まりのある劇的な風味には虜にならざるを得ないし、まぁつまり俺はプチトマトが好きだ。トマトも好き。
美味しい食事は人を笑顔にする。とは流石にプチトマト単体では難しいが、いくらか表情も緩む。サーベルタイガーからシマリスぐらいまで俺は剣呑さのレベルを下げた。
唐揚げを飲み込んだ緒志金が一つ溜め息を吐く。
「ハァ……、メールでも言ってたけど何があったっつーのよ? 正直状況が分かんねー。テキトーに生きてるだけの俺に責任を求められても困るってば」
「いやな。あの、成り行きで知り合いになった日あっただろ? あの次の日また絡まれてな」
「あー。あの俺も居るっつーのに、そっちのけで苑夢さん見つめてあわあわしてた日の、」
「殺すぞ」
たまに事実と正論は会話の潤滑油だと思っている奴が居る。だが事実を言われた俺はカッとなって殺意を覚えた。顔が熱い死にたい殺してくれ。
げふんげふんと咳払いをして気を取り直し、そしてニヤニヤしながらこっちを見ている緒志金に俺は再びサーベルタイガーに戻る。顔面を引っ掴み、激情に身を任せて容赦ない指圧で苛む。
「痛つつつギブギブ」
腕をタップされたので解放してやるがもう半泣きだ。俺が。俺がだ。俺は涙を溜めていた。情けないとか知るかこっちは思春期だ。デリケートなのに。クソが。
「そんでさ、あの。っ、あいつなんかっ、文化祭のっ、持ってきてっ」
「泣くなって泣くなって。ああアレか。小説読まされたっつーパターンか」
「そーだ! ボケっ!」
俺は新種のモンスターみたいな鳴き声を上げて頷いた。緒志金は納得顔でパックの野菜ジュースを飲み干す。ずずずずと、その行儀悪さが却って普段通りで、俺の呼吸もだんだん正常に戻ってくる。
「そういやそんなのもあったなー。苑夢さんな、文芸部が楽しいっつーか、すっげハマっちゃったらしくて、書いたり見せたり読んだり激しいらしーのよ」
緒志金には心当たりがあったらしく、あっけらかんとした態度だが、聞き心地の良い嘘を吐いているという気配は無い。根も葉もある噂だ。
ならばきっと金曜日の出来事は苑夢がそういう性格だったというだけなのだろう。あれが普通で自然だったのだ。俺がそうと理解出来なかっただけで。
「じゃあ言っとけよ、木曜日に。お前ほんとに。俺のテスト勉強、散々だ」
せめてもの文句を言うが柳に風だ。緒志金は本当に聞き流すのが上手い。俺ならば一喜一憂するような台詞のやり取りも、こいつにとって見ればただのテキストの応酬だ。簡単に心を揺らさず処理してしまえる。
「大丈夫だって。矢尾が赤点取るとか無いっしょ。っつーか何、小説読まされただけでそんな動揺したん? 相変わらず感情の起伏激しすぎでしょ、よく今まで生きてこられたっつーか」
「いや、それは……」
小説を読まされただけというと語弊がある。脳裏に過ぎるのは金曜日の苑夢で、きっと一番心臓に来ているのはあの表情と視線だ。数種類の笑顔はどれも満ち足りていて、そんな表情をした苑夢の視線が俺を真正面から捉えていた。
不可視の、雰囲気めいたものを感じてしまったのだ。そう、鼻腔を擽るカレーの香りと談笑する声が一緒くたに漏れ出ている明るい窓みたいな。幸福の香りみたいな。充実していると目一杯表現しているような苑夢が忘れられない。
ああやって毎日を過ごしているのだろうか。近くに立つだけでアテられてしまいそうなほどに、それは記憶の中でさえ溢れていた。
口ごもる俺に、緒志金は疑惑の視線を投げてくる。不味い。勘繰られている。自慢では無いが俺は表情にものすごく出るタイプだ。真面目に観察されたら一巻の終わりである。
必死で顔を背けようとするが、時既に遅しだった。
「あ、」楽しそうに緒志金がぽんと手を叩く。「一目惚れか!」
「違――ッ」
……わない!
違わないなこれ! 一目惚れだわ多分! ふぁーマジかよ!? 今気付いたわ!
反論が無いことに、というか更に表情に出たのだろう、ますます笑みを深める緒志金に、俺は言葉を失う。
「へぇ~。まー、頑張れ~? え、何? 何か手伝う? 手伝う?」
俺は中途半端に残った弁当の蓋を閉じて、席を立つ。情勢は決していた。余儀なくされる敗走を甘んじて受け入れる。これ以上はちょっと耐えられそうにも無かった。
行きたくも無いトイレに向かう。予感があった。午後のテストは赤点かもしれない。きっと、テスト中もずっと、苑夢と緒志金のことばかり考えてしまうだろうと。
☆
会わない期間で育つのが恋心である。まして思春期の一目惚れと来たら、会話などしなくてもエスカレートしてしまうのも必定だろう。きっと誰しも分かってくれるものだと思う。無理か。たぶん性質としてはストーカーのそれと近い。そんな気質を誰もが持っているとしたらおしまいだ。
ということで俺が特別ストーカーの才能を持ち合わせているだけでした。はい。
家で妹にパシられながらもどんどん募る悶々とした感覚。日々を過ごすごとに膨れあがるのが本当に厄介で、テストは当然、散々だった。学校に居る間は気付けば視線を巡らせていて、あとでハッと気付くのだ。俺は探していた。誰をかなど言うまでも無いだろう。
そしていざ見つければ隠れていた。絶たねばならないと思っていた。たぶん喋ったらその瞬間にアウトだと思ったのだ。何がどうアウトなのだろう。アウトなのは俺の行動だった。完全に変質者である。だがだからこそだ。だからこそ接触は避けられていたというのに、その日は油断してしまった。
金曜日だったのだ。その日の終わりはすなわち解放を意味していた。
二日間の休息が両手を広げて俺を抱擁しようと待ち構えていたのである。それが罠だった。
掃除が終わって一息、ようやく落ち着けると安堵しながら帰路に着こうとした、その隙を突かれた。
「お、」
その声に対する反応は自分でも驚くほどに早かった。言うなれば電撃だ。バチリと弾けた瞬間にはもう、俺は振り返る動作を終えていた。
「おっす。おひさー! 矢――」
一拍。
「尾っち!」
それは名前を忘れていた人間の表情だった。なーんとなく罰が悪そうな、だがギリギリで踏みとどまった達成感のある顔。少しだけ覗く歯は笑っているからというより引き攣っているからと言った方が正しく見える。
都合の良い展開だった。
悲しいが、それは素晴らしいことだ。苑夢にとっての俺は忘れるほどに卑小で矮小な塵芥だった。声に過剰反応して回れ右した俺をもう一度回れ右したくならしめるほどに悲しい事実で、同時に俺を悲しい夢から覚めさせてくれる優しい事実でもある。悲しい。
「おう。久しぶり、苑夢」
だが、おかげで、冷静な対応が出来た。
遭遇してしまったものは仕方ない。別に苑夢も用があって声を掛けたわけではないだろう。知り合いが居たらとりあえず挨拶していく、そういうタイプの人間に苑夢は見える。
――それは間違いでは無かったのだろうけど。
苑夢が片手を挙げた。あ、と思った。覚えのある仕草で、それは先週体験した流れの踏襲である。ああ、抗えない。一度従ってしまった。だから俺は倣う。またこちらも手を挙げて、パン、と一つ。
苑夢が蕩ける。
「えへへへ」
この、崩れる、形を失うといった形容が似合いすぎる苑夢の笑い方。
黙っていれば整っているその顔立ちが綻ぶ。その様子を見ていると跳ねる心臓があって、ついでに脳髄が脈打つ幻覚まである。病気だ。恋のやま……殺すぞ。
早く立ち去ってくれと、そう願った。
相手の素性も知らないのにコレはもうヤバイ。会話らしい会話もしていない。高校生にもなって俺は本当にどうしてこんなにも感情の振れ幅が激しいのだろう。大人は理性的で、感情のコントロールにも長けるらしい。早く大人になりたい。
俺の願いに反して、苑夢はもう一言続けた。
「そうだ。ねー矢尾っち。文芸部に来ない? 楽しいよ!」
惚れた弱みで『はい』と即答しそうになって、そこで理性と感情の両方が一斉に待ったを掛ける。
断る理由が駆け巡る。たくさんある。『もう十月末だ。入部には時期が悪い』、『創作が趣味ってそういう意味じゃなかった』、『苑夢断ちをしなければならない』、『人間が怖い』。
理性で以て纏め、説得を目的とした言葉を選ぶ。相手の実感に訴え、納得させられるような。そうして瞬きをしてから、逆に問い返す。
「苑夢は本とか好きか?」
「……? うん? うん」
苑夢が頷く。知っていた。緒志金から苑夢が読書も好むという話は聞いていたから。
「例えばどういうのが好き? パッと思いつく本のタイトルとかは?」
「うーん。天石峠とか、とうちゃんとか、好きだよ。ちょっと重たかったりするんだけど」
苑夢は真剣に答えてくれた。良い子だ、素晴らしい。
だが何が好きだとかは関係無かった。苑夢がどんなタイトルを挙げようと俺の言うことは決まっていた。最低の行為の用意は出来ていて、予定通りに俺は吐き捨てた。
「あーお涙頂戴の美談ストーリーな。そんなクソみたいなの読んで何が面白いんだよ。ミステリの方が百倍面白いだろ。あんなものに金払うとかマジかよ。天石峠の作者の本な、黒点なら読んだけどクソ過ぎて破ってゴミ箱に捨てたわ。メアリマコットとか読んだことねえの?」
「――――」
俺が言われて最も嫌だった台詞。他人の好きなものを否定して、唾を吐きかける最低の行為をした。
別にミステリなんて好きじゃない。相手の好きなものを、同じ読書家っぽい言い草で口汚く罵れれば良かっただけだ。そうするには他ジャンルを引き合いに出すのが一番で、実際それは効果的だった。
苑夢は硬直していた。予定通りだった。
目を見開いて衝撃を受ける苑夢が怒り出す前に、また予定通りに愛想笑いして話題を戻す。
「……っていうことが起こったりするから、下手に趣味の合う奴と知り合うのって嫌なんだよ。全く分からない奴と居る方が気楽だから」
ぱちくりと。
呆然とした視線が俺をぼんやりと捉えていて、そこに数秒遅れて理解の色が追いついてくる。小さく驚きに開きっぱなしの口が震えた。
「あ、あー」カラオケで歌う前の音程調整みたいな声を苑夢は出して、「……なるほど」
酷く実感の籠もった、悲しい様子で呟いた。そこに説得の成功を見て取るが、代わりに胸がチクリと痛む。
嘘は吐いていない。誇張しているとは言え、これは俺の本心だった。だからこそあんまり詳らかにするようなものでは無かったし、こういう方法が最も効果的だと判断した自分が情けない。
そもそも物語を楽しむのは孤独な作業だ。部誌に寄稿するような苑夢ならまだしも、消費者でしか無い俺には仲間は不純物だ。他人の感想などに迎合せず、自分自身がその物語に触れた感想を大切にしたい。そう思っている。ただそれは声高らかに宣言するものでは無かった。
だから文芸部には、その存在を知っていて、部誌をチェックするほど気にしているのに、近付きたくなかったのだ。
「そっか」
苑夢のテンションはすっかり落ち込んでしまっていた。花を手折ってしまったような罪悪感がある。それはあくまで比喩で、苑夢は立ち続けていたけれど。
どころか、俯きもせず、まだ真っ直ぐに俺を見ている。
「残念だなぁ」
一言。そう、その一言だけ告げる間、恐らく苑夢は俺を観察していた。
目の奥を、胸臆を見透かそうとするような澄んだ輝きがやけに鮮明で、俺は怯える。取り繕ってばかりの俺が積み上げてきたハリボテを覗き込むような、さっきまでの苑夢のイメージに合わない眼光。
――ふ、と。苑夢の目尻が下がった。
「でも、また何か書けたら読んで貰えない?」
それを断る理由は別に思い付かなくて、亡羊としたまま頷く俺に、苑夢は「ありがとう」と頭を下げる。
「じゃあまた!」
満足したのか苑夢は去って行き、俺も鞄を肩に掛け直した。
明日明後日は休日だ。何を読もうか。今の気分ならこの休日は、きっと物語に没頭出来るだろう。
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