頭の悪いラブコメ

針野六四六

第1話

 読めなかった本がたくさんある。読まなかった本がたくさんある。よって俺は読書家では無い。


 日本語がさして好きでは無かったから、『鏡花迷路』が語彙力と読解力不足で読めなかった。『Autocorrelation Engine』は途中で読むのをやめた。あまりにも意味が分からなかった。『文房具の本 総集編』に至ってはどうして買ってしまったのかさえも分からない。『新装版 ヒルダの世界』の上巻がとても面白くて下巻も買ってあるのに、どうして面白かった本の下巻がサッパリ開く気分にならないのだろう。不思議だ。読めない。


 結局、俺は本が嫌いということなのだろうか。そもそも日本語自体は好きでは無い。読んでいる数で言えば漫画の方が遙か上だし、本なんてそんなに読んでいないのだ。俺は本が嫌いなのかもしれない。というと違和感があるから、断言は出来ないけれど。


 だからそう、困った。


「趣味はー?」


 無邪気な問い掛けに、悩んでしまう。


 漫画もたくさん読む。それは手軽だからだ。手軽に楽しめる、それは簡易版なのだという感覚がある。本の方が濃厚だと思う。何がだろう? 何が? 何なんだ?


 チッ、チッ、チッ、チッ、


「あ……、」


 答えを模索する最中からタイムリミットが迫っている気がして声が漏れる。何を言いたいのか定まっていないのに、何か言わなければいけないと思ってしまう。


 そうしてその言葉は飛び出してしまった。


「っ、そ、創作……か?」


「創作?」


 聞き返すその子の瞳はくりっとしてキラキラしている。


 早鐘を打つ心臓が時計の針の代わりにビートを刻む。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、


 どっどど、どどうど、とか、そんなことより。違う。違うんだ。間違っている。そう。俺が好きなのは新しい世界を体験することで、創作とはそう作られた世界に没することで、そこに娯楽があれば尚良いのだ、だから小説や漫画だけで無く新しい世界である身近に感じられない世界に触れられる図鑑や学術書も買うし、娯楽がある方が読みやすいから理解のしやすいエンタメを最も好むけど、それは創作するという意味では無いのだ、断じて違う、日本語が好きでは無いから言葉を間違えた。


 でも、そう、飛び出した言葉は戻ってこないし、人の記憶をピンポイントで消す方法は無い。


「……一緒だ!」


 頬を赤く染めて、嬉しそうに笑う彼女に、俺は曖昧に笑った。愛想笑いだって、苦手なのだが。



 ☆



 類は友を呼ぶ。


 苑夢そのゆめ 陽彩ひいろと彼女は名乗った。友達の友達。共通の友人が居たから、その紹介で何でも無い日に俺達は知り合った。知り合ってしまった。


 文化祭の二日後だった。


 どうしてこの学校は文化祭の翌週にテストが控えているのだろう。隣の学校は手前にあるらしいのだが、そちらの方が全員にとって素晴らしいはずだろうに。


 ともあれそういう事情もあって文化祭の後は部活動が休止する。そして高校一年生にとってのテスト前とは、普段部活が忙しくて遊べない相手と遊ぶ期間なのだそうだ。


 だからって苑夢と俺が遊びの場で出会ったわけでは無い。俺達の出会いは、図書室だった。図書室で友達を介して知り合ったのである。


 ――それが昨日のこと。


 翌日、俺はまた図書室で勉強していた。


 テスト前だから当然の行動だろう。今日が金曜日でテストが月曜日からなのだ、図書室には同じように勉学に励むメガネがちらほら居た。俺も初日と二日目の教科に重点を置いて、ちまちまテスト範囲の演習問題と格闘していた。メガネらしい行動だろう。流石メガネ。メガネ万歳。


 勉強は嫌いじゃない。暇だから勉強することもある程度には好きだとも言えた。だから俺にとってこれは苦では無い作業だった。


 新しいことを知る度に新しい世界に触れられる。本や漫画などほどでは無いが娯楽と言っても良い。理解の進む勉強は面白いのだ。


 が。


 その展開を夢想しなかったと言えば嘘になる。


 だからそう、驚きはしない。しないけれど、だが、妙なことになってしまった。


「……」


 じっと静かに、俺を見ている奴が居る。


 理科Aの勉強中だった。解き掛けの問題に取り組んでいる以上、それが終わるまでは動けないが、だが気になるものは気になる。対面の席に座り、鞄に顎を置いて、勉強するでも無くこちらを見ている彼女。


 雑に答えを書いて切り上げ、顔を上げて、会釈する。


「――どうも」


「おっす」


 にかっと笑って快活に、顎を置いたまま苑夢は片手を挙げた。それだけじゃ飽き足らずずいっとその手を突き出してきて、こちらを見ている。笑顔で。


 一拍意味を考えてから、ペンを置いた手で苑夢の手を叩く。


 パン、と、思ったよりも大きな音がして、苑夢は蕩けた。


「えへっへー」


 だらしなく、まるで水飴みたいにどろどろに崩れた表情の苑夢を前に、俺は何がどうなっているのか分からない。ドギマギする。


 ――こいつ、一体何なんだ?


 何のために来たのか。昨日も自己紹介ぐらいしかしていないし、俺にはこの苑夢 陽彩という生き物が理解できない。未知だ。未知って余計にドキドキするな。惚れそう。


 変な名前の、変な生き物。


 言葉を交わすことも無く視線ばかりを絡ませていると、心臓への負担がどんどん増大していく。なんかそういう果物みたいに丸くて瑞々しく、ずーっとちょっと頬が赤めな気がする。リンゴみたいな奴だ。いつの間にか勉強の手が止まっていて、そんなことさえどうでも良くなる。


 かわいい。


 ――と。


 我に、返った。


 がたん、と机をそのままに立ち上がり、苑夢を手招きする。首を傾げながらついてくる苑夢と歩調を合わせながら図書室を出て、振り返る。


「なに?」


「?」苑夢は首を傾げる。かわいい。「なにって?」


 思春期に入ってから、女子が苦手だった。なんてったってかわいい。困る。


 やったことの無い武道に思いを馳せながら呼吸を一つして、ちゃんと意味の通じるように言い直す。


「何か用か? いや気のせいだったら良いんだけど俺に用があったように見えたから、あの」


 言いかけた途中でこの言葉のチョイスは自意識過剰なのではと思い早口で余計な言葉を付け足した。無様だ。恐らく顔が赤くなっているだろう。緒志金おしがねの奴はどうやって女子の友達なんて作ったんだ。おそろしい。


 苑夢はまた笑った。よく笑う奴だった。


「勉強のあとでも良かったのに」


 無理に決まってんだろ。思春期舐めんな。


 叫び出しそうになった言葉を飲み込んで、意味も無く頷く。


「どうしても気になったから」


 言ってからまた言葉のチョイスを間違えた気がして天井を見上げる。


 メガネ越しに見る蛍光灯の白が眩しい。放課後の夕日に対抗するように光っている。西日の赤色がどれだけ鮮烈でも、直接見る蛍光灯の白は崩せないだろう。目が痛くなってきた。


 視線を下ろすとバカみたいなことをしたせいで、緑色の染みみたいなのが網膜に焼き付いている。それがちょうど苑夢と重なっていて不幸中の幸い、俺は少しだけ平静を取り戻した。


「そっか! じゃあ見てくれる? あの、矢尾っち創作が趣味なんだよね?」


「矢尾っち」


「ダメ?」


 矢尾っち、ともう一度呟きながら俺は苑夢の差し出しているものを受け取った。何なのだろう、染みが邪魔でちゃんと把握できなかったが、見覚えのあるものだ。


 手にカサリと馴染む感触。


 ――冊子だった。


「あ、これ。そっか苑夢は文芸部か」


 二日前の文化祭。そのときに文芸部が出していた部誌。沈丁花という名のそれは、大した行く当ての無い中で手に取った一冊だ。


 中身をぺらぺら捲るとほんの少し前のことなのに懐かしい。


「苑夢載ってたんだな。名前そのまんまか? どこ?」


「あ、部誌のこと知っててくれてたんだ。へへへ」


 照れくさそうに微笑む苑夢はどこを見ろとは続けなかった。たぶん言い忘れているだけなのだろうが。仕方なく自分でタイトルのあとに記された名前をつらつら辿っていくと、その名前はあった。


 苑夢 陽彩。


 本名そのままの著者名付きで、その短い物語は綴られている。あさつゆと平仮名で書かれたタイトルが愛らしいそのお話。



 *



「あら起きたの? 全く、毎朝あなたは」


 いつも通り寝坊してしまって、お母さんに今日も叱られる。毎朝の光景だ。目覚めの朝はいつも身体が痛くて、カチコチに固まっている。油の切れたロボットみたいに軋む身体を動かして朝の支度をした。


 お母さんはとっても綺麗な人だ。


 わたしの家は綺麗なものがたくさんで、寝ぼけ眼で見ても毎朝感動する。


 起きたばかりの重たい身体が、綺麗なものを見て過ごす内にほぐれていく。顔を洗うともっと綺麗に見えて、朝ご飯を食べると笑顔になってしまう。


 今日も世界は幸せに満ちている――



 *



 そのお話は、主人公が目覚めた朝に沢山の綺麗なものを見ていくだけのものだった。それが燃料であるかのように、順番に綺麗なものを見ていく内に語り口に熱が籠もっていく。通学路の途中に咲くツツジについた朝露が表題に当たるらしく、その表現はちょっと仰々しすぎるけれど、何が書いてあるのかは分かる。綺麗で幸福なのだ。それが苑夢 陽彩のあさつゆだった。


 あんな風に笑う苑夢らしいお話だと思う。とても眩しくて、拙いけれど嫌いにはなれそうも無い。文化祭の日にも読んだはずで、そのときも記憶に残るほどでは無かったけどとても良いなと思ったのだ。恐らく。


 だが、これを見てどうしたら良いんだろう。言葉に詰まって苑夢を見れば、とても赤かった。


 真っ赤だった。


 ――夕日のせいだと気付くのが一拍遅れる。


 苑夢はべったり貼り付いた朱色がとても似合う表情をしていた。自分で持ってきて俺に渡したのに照れているらしい。こっちまで恥ずかしくなってきた。


 今日はテスト前だ。


 冷静さを取り戻すために脳内でしっかりと事実確認を行ない、尚視線を少しだけ横にずらして、苑夢に冊子を返す。


「おう、読んだ」


「そっか、ありがと」


 そうして、沈黙した。


 聞かれてもいない感想を媚びるように口にするのは、出しゃばりのようで嫌だった。恥ずかしいし。苑夢が女子で無ければ気軽に口に出来ていただろう言葉が、女子が相手というだけで引っ込んでしまう。


 聞いてくれれば答えの用意はあった。というか答えを考え続けていた。適切な言葉で、嘘を吐かず、相手にとっても望ましい言葉を模索し続けている。自分のそういうところは嫌いだが、相手が喜ばない行動をする方がもっと嫌いだ。間違えないように、そう心に決めていた。


 だが、聞かれることは無かった。


 感想を聞かずに、苑夢は嬉しそうに笑う。


「ありがとう。よければ冊子、貰ってくれても」


「ああいや、持ってる。文化祭の日に貰った」


 首を振りながらそう言うと、苑夢はちょっと驚いたように「そっか」と言った。


 二度、三度、苑夢が頷く。そこに意味はあるのだろうか。分からないものは分からないので、俺はただ眺めていた。苑夢が顔を上げて、言った。


「ごめんねテスト前に。読んでくれてありがとう! じゃあまたっ!」


 三度目のありがとうにごめんが付いて、そして苑夢は足取り軽くその場を去って行く。俺はその背中を見送る。


 見送って、黙って、そして頭の中には疑問が大量に巡っていた。


 ――何なんだマジで、一体。


 その日の勉強は捗らなかった。当然だ。思春期メガネ男子を舐めるな。

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