2
その男の名を三郎と言った。
三郎は、この川の下流にある小さな村の出身であった。年齢は二三歳。
普通であれば働き盛りの年齢なのだが、彼はことのほか病弱であったので、村の他の若い衆らとともに田を耕したり、森へ木を伐りに行ったりすることが出来ないのだった。
そんな彼にも兄が二人いたのだが、どちらも若くして病死している。
そういう家系なのだ、と村の人間も相手にすることはなく、いつしか三郎は独りになっていた。
家族もなく、友もいない三郎は、あるとき死のうと思った。
こんな人生など欲しくない。死んだ方がマシだ、と思ったのだ。
逃げたかったのだ。
楽になりたかったのだ。
あまりにも孤独が辛かったのだ。
しかし、死ねなかった。
家とは決して呼べない、小屋のような彼の家で首を吊ろうとしたとき、ある男に止められたのだ。
「許してくれ」
と、その男は言った。
ごつい男だった。身体も大きいし、脚も腕も太い。いや、筋肉質でごつい。
自分とは比べ物にならぬくらいのごつさだ。
ごつい体の上に、人のよさそうな顔が乗っている。
そのごつい男が、今、涙を流していた。
「俺たちが間違っていたのだ。共に生きていこう。死は、逃げでしかないのだから。――きっといつか、いいことがある」
とも言った。
その男の言葉を聞いて、三郎は涙が止まらなかった。
暖かみを感じた。
何年ぶりだったろうか。自分は生きて、ここにいるのだと実感したのは。
そして、その男のおかげで、三郎は今まで自らの手で
「死んだら、何にもならないものな」
そう言って笑う男の顔を見ると、三郎は気持ちが安らぐのを感じた。
しかし、それも今日――この瞬間で終わりだ。
三郎は恋をしたのだ。
生まれて初めて抱いたこの感情を恋というのなら、それはまさしく身を焦がすほどの恋であった。
美しい女だった。
その女を見た瞬間、三郎は思った。
あの女を俺のものにしたい。
しかし、それはかなわぬことであった。
それは、道ならぬことであった。
その女、
三郎は耐えた。しかし静の姿を見るたびに、抱きたい、自分のものにしたいという感情が頭をもたげてくる。
三郎の身悶えるような気持ちに気づかずに、彼女もまた夫と同じように三郎に優しかった。
たまらない日々が続いた。
三郎は、あの日からその男の家に厄介になっていた。
その同じ屋根の下で、静はあの男に抱かれ、悶え、よがっている。
そう考えただけで、狂いそうになった。
抱きたい。この腕の中に抱いて、あの美しい肉体(からだ)を滅茶滅茶にしてやりたい。
しかし、それは出来ない。
そんなことをすれば、俺はこの村にいられなくなる。
何より、あの男の信頼を失い、裏切ることになる。
そうなれば殺されるだろう。
殺されたら、もう彼女の顔を見ることすらかなわなくなる。それは嫌だ。それだけは嫌だった。
そうして、何ヶ月もの狂おしい日々が過ぎ、三郎の精神はますます、理性と欲望の板挟みで追いつめられ、身体はどんどんやせ細っていった。
さすがに、その男もおかしいと思い、三郎に医者を紹介したのだが、彼はこれを断り、人知れず村から姿を消した。
それが三日前のことだった。
俺はもう生きてはおれぬ。
それが、この三日間、考えに考え抜いた結論であった。
静を自分のものにしたい。しかし、自信がないのだ。あの女を、自分のものに出来るという自信が。
だが、実際は自信の有る無しではないのだ。
すでに間違っているのだ。
そのことに、もはや三郎は思い至ることがなかった。
狂っていたのかもしれない。
だから、こう考えてしまうのだ。
きっと自分には何も出来ないだろう、と。
だからといって、これ以上彼等と一緒に住むことなど出来はしない。
もう楽になりたかった。
そう決心したのだった。
三郎は細工用の小刀を抜き、その刃を左手首に当てた。
ぎゅっと眼をつぶる。
歯を食いしばり、一気にかき切った!
ぶしゅう
真っ赤な血が噴水のように真上に噴き上がる。
その血を浴び、三郎は幻想のように、綺麗だと思った。
そして、視界が暗転し、三郎はその場に仰向けに倒れて行った。
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