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 その男の名を三郎と言った。

 三郎は、この川の下流にある小さな村の出身であった。年齢は二三歳。

 普通であれば働き盛りの年齢なのだが、彼はことのほか病弱であったので、村の他の若い衆らとともに田を耕したり、森へ木を伐りに行ったりすることが出来ないのだった。

 そんな彼にも兄が二人いたのだが、どちらも若くして病死している。

 そういう家系なのだ、と村の人間も相手にすることはなく、いつしか三郎は独りになっていた。

 家族もなく、友もいない三郎は、あるとき死のうと思った。

 こんな人生など欲しくない。死んだ方がマシだ、と思ったのだ。

 逃げたかったのだ。

 楽になりたかったのだ。

 あまりにも孤独が辛かったのだ。

 しかし、死ねなかった。

 家とは決して呼べない、小屋のような彼の家で首を吊ろうとしたとき、ある男に止められたのだ。

「許してくれ」

 と、その男は言った。

 ごつい男だった。身体も大きいし、脚も腕も太い。いや、筋肉質でごつい。

 自分とは比べ物にならぬくらいのごつさだ。

 ごつい体の上に、人のよさそうな顔が乗っている。

 そのごつい男が、今、涙を流していた。

「俺たちが間違っていたのだ。共に生きていこう。死は、逃げでしかないのだから。――きっといつか、いいことがある」

 とも言った。

 その男の言葉を聞いて、三郎は涙が止まらなかった。

 暖かみを感じた。

 何年ぶりだったろうか。自分は生きて、ここにいるのだと実感したのは。

 そして、その男のおかげで、三郎は今まで自らの手でおのが命を絶つことなく生きてきた。

「死んだら、何にもならないものな」

 そう言って笑う男の顔を見ると、三郎は気持ちが安らぐのを感じた。

 しかし、それも今日――この瞬間で終わりだ。

 三郎は恋をしたのだ。

 生まれて初めて抱いたこの感情を恋というのなら、それはまさしく身を焦がすほどの恋であった。

 美しい女だった。

 その女を見た瞬間、三郎は思った。

 あの女を俺のものにしたい。

 しかし、それはかなわぬことであった。

 それは、道ならぬことであった。

 その女、しずかは、自分の生命の恩人であり、心から信頼するあの男の妻なのだから。

 三郎は耐えた。しかし静の姿を見るたびに、抱きたい、自分のものにしたいという感情が頭をもたげてくる。

 三郎の身悶えるような気持ちに気づかずに、彼女もまた夫と同じように三郎に優しかった。

 たまらない日々が続いた。

 三郎は、あの日からその男の家に厄介になっていた。

 その同じ屋根の下で、静はあの男に抱かれ、悶え、よがっている。

 そう考えただけで、狂いそうになった。

 抱きたい。この腕の中に抱いて、あの美しい肉体(からだ)を滅茶滅茶にしてやりたい。

 しかし、それは出来ない。

 そんなことをすれば、俺はこの村にいられなくなる。

 何より、あの男の信頼を失い、裏切ることになる。

 そうなれば殺されるだろう。

 殺されたら、もう彼女の顔を見ることすらかなわなくなる。それは嫌だ。それだけは嫌だった。

 そうして、何ヶ月もの狂おしい日々が過ぎ、三郎の精神はますます、理性と欲望の板挟みで追いつめられ、身体はどんどんやせ細っていった。

 さすがに、その男もおかしいと思い、三郎に医者を紹介したのだが、彼はこれを断り、人知れず村から姿を消した。

 それが三日前のことだった。

 俺はもう生きてはおれぬ。

 それが、この三日間、考えに考え抜いた結論であった。

 静を自分のものにしたい。しかし、自信がないのだ。あの女を、自分のものに出来るという自信が。

 だが、実際は自信の有る無しではないのだ。

 すでに間違っているのだ。

 そのことに、もはや三郎は思い至ることがなかった。

 狂っていたのかもしれない。

 だから、こう考えてしまうのだ。

 きっと自分には何も出来ないだろう、と。

 だからといって、これ以上彼等と一緒に住むことなど出来はしない。

 もう楽になりたかった。

 そう決心したのだった。

 三郎は細工用の小刀を抜き、その刃を左手首に当てた。

 ぎゅっと眼をつぶる。

 歯を食いしばり、一気にかき切った!


 ぶしゅう


 真っ赤な血が噴水のように真上に噴き上がる。

 その血を浴び、三郎は幻想のように、綺麗だと思った。

 そして、視界が暗転し、三郎はその場に仰向けに倒れて行った。

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