3
彼の、ページをめくる音が好きだった。
すらっ。
細長い指と、薄い紙切れが接触する音も聞こえるぐらい、静かな日もあった。
すらっ。
彼は詩集や短編集でも、一行一行をゆっくり目で追って、その言葉一つひとつを味わうように読書する。高級ホテルのディナーを楽しんでいるのかのようにも見えた。もったいなさそうに咀嚼して、そして飲み込む。
だから1ページ読むのに三分ぐらいかける。それを計測している私もたいがいなのだけれど。
彼の影響で読書に興味を持つようになった
彼は自分の読書を他人に無理強いすることはない。でも私の好きなミステリー映画の原作を教えてくれたり、内容のやわわらかいファンタジーを紹介してくれたりした。そういうようなことを繰り返して、やがて私も読書をするようになった。
そのうち長い小説も読めるようになり、思いきって『ティファニーで朝食を』も読んでみた。素直に面白く、ヒロインのホリー・ゴライトリーの純朴で無垢な生き方に惹かれた。
しかし読み終えた後まず心に残ったことは、彼は私とはまるで正反対の、あのホリーみたいな女の子が好きなのだろうか……という我ながら目もあてられない感想なのだった。
「『ティファニーで朝食を』、読んでみたよ」
カウンターの前に椅子を持ってきて座る彼に声をかけた。私たち以外に利用者がいないときは、たまにこうして過ごす。
「あ、読んだんだ。どう、面白かった?」
「うん。私もホリーみたいな女の子になりたいって思ったよ」
心にもないことを、私は言う。
私にホリーみたいな生き方は無理だ。周りの目を過剰に気にして、それが嫌だから自分の殻にこもりたくなる。ホリーのような人生を羨ましく思うのは本当だけど、羨ましいからといってそうなりたいとは思わない。私の発言は、彼が気にかけてくれるかどうかの釣り針だった。
「そっか。それなら良かった」
彼は手元の文庫本から顔を上げずに言葉を発する。その姿を見ているだけで幸せだった。隣で、そのめくるページの音を聞いているだけで良かった。
でも今は、もっと、もっと彼のことが知りたい――
「ねえ、ホリーみたいな女の子好き?」
「うん、憧れるね」
「好きな人……いないの?」
「いるよ。僕、咲子が好きなんだ」
さき、こ?
咲子?
私はその言葉を発しているのかどうか分からないが、頭の中には「咲子」という二文字が明滅していた。なんでここで咲子の名前が出てくるの?
そして、ついさっき背中をぽんと押してもらった感触がよみがえり、おもむろに背中に腕をまわした。腕は震えていて、それに意識を集中させる。
しかし集中させようとするほど、頭には彼の微笑んだ顔と、咲子の満面の笑顔が出てきては花火のように散っていく。腕の震えは増した。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
唐突に彼の声が聞こえたけれど、それまでの間は数十秒も経っていないことに気付く。
彼の顔を見据えようとするが、なぜか焦点が合わない。歪んで見えた。
「……泣いてるの?」
「ごめん! 私、用事があったんだ! 先生呼んでくるね」
かろうじてそう言うと、私は荷物も持たず図書館を飛び出す。去り際に彼が呼んでいたと思うけど構わなかった。
外に出ると熱風が頬を撫でた。蝉の声がジーワジーワと聞こえる。
点火した導火線のように走った。行くあてもなかったけど、とにかく学校から離れて、いつも散歩する河原へと向かった。
ランニングする卓球部とすれ違い、商店街を抜けて、突き動かされるように走った。走っている間は何も考えられない、やがて息をきらし、足も手もちぐはぐになる。
私は泣いているの?
目をこすってみたけど、顔が濡れているのは汗か涙か分からなかった。
かろうじて河原へ着いた。鼓動が早くなり、呼吸もできなくなって、その場に崩れるように座り込んだ。足が止まると図書館で過ごした記憶が、沸騰した気泡のように浮かんでくる。彼の顔を思い出す度に、目頭がじんとする。
私は泣いているの?
分からない。でも「悲しい」という感情が渦巻いていることは分かっている。彼が咲子を好きだったから? 咲子が私の親友だから?
ーー違う。私は、あの場から、あの空間から、逃げ出したことを悔しく思っているのだ。自分の思いをぶつけられず、情けなくて、みじめな自分がそこにいた。
顔を上げてみると、空は入道雲が夕焼けで染まっていた。空も、川も、橋も、全て赤色になり、その影が濃さを増す。太陽がゆっくり沈んでいくのが目に見えた。
道に沿うように植えられた並木から、一匹、蝉が鳴きだした。それが合図だったかのように、他の蝉が一斉に鳴いた。そこで私は初めて、声を出す。自分でも泣き声なのか叫び声なのか分からないけど、私の涙と声は、蝉しぐれの騒音に紛れた。
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