第二話 〜無限の回廊〜

 僕は今、二つの問題を抱えている。


 あれ……? なんか最近同じようなことがあった気がする。

 それはさておき一つ目の問題はこの廊下。一体どこまで続いているのか。

 これについては「まだ先が見えない」ので、まあ答が出るのはまだまだ先になると思う。

 そして二つ目の問題もこの廊下と言えなくもない。一体どれくらい歩いたのか。

 どれくらいの「距離」を歩いたかは、後ろを振り返れば入ってきた扉が見えなくなっているので、相当歩いたと言えるけど、どれくらいの「時間」歩いたかが、何故か漠然とした感覚さえも曖昧になっていた。


 延々と続く絨毯、等間隔に並ぶシャンデリア、柱のそばに置かれた花や彫刻、壁に飾られた風景画。

 この手の調度品についてまったく知識がなく、絵画や置物を見て楽しむという素養がないので、正直退屈していたせいもあると思う。

 そもそもこういった廊下に設置されている品々は、鑑賞用と言うよりインテリアとしての意味合いが濃いんだろうけど、見る人が見ればそれなりに楽しむこともできるのかもしれない。

 なんにしても教養のない庶民なんかが訪ねてきて、あれこれ言うのは失礼というものだろう。

 水筒の水で喉の乾きを癒やし、感想を聞かせる相手が誰もいないけど、壁に飾られた絵画をじっくり見てみることにした。

 絵画にした理由? それは彫刻や花瓶よりは難易度が低そうなので……


 海を臨む丘、木漏れ日の差し込む林道、湖畔に立つ教会、草原を駆ける馬の親子、市場の喧騒、テーブルに置かれた果物、ベッドに横たわる婦人、山々に抱かれたのどかな集落、ポーカーに興じる貴族。

 絵の良さは分からないけどどれもがとても上手く、まるでその瞬間を切り取ったかのような迫力を感じる。

 …………

 でも残念なことにそれ以上の感想が出てこないので、やっぱり僕には向かないんだと早々に諦めることにした。


 気を取り直し歩き出したけど、どうしても座りの悪さというか落ち着かなさと言うか、このもやもやした感じが気になって仕方ない。

 代わり映えのしない景色。まるで先の見えない廊下。どれだけ歩いたか分からない自分。

 まさか実はこれ、夢でしたなんてことはないよね?

 もし目が覚めているのだとしても、知らないうちに妖精の粉でもかけられて化かされているんじゃないだろうか?

 ともするとだまし絵の中に迷い込んでしまったような気になってしまう。


 いつだったか食料調達に訪れたある想区で、夏の到来を祝うカーニバルが催されていて、それを見たレイナの「たまの骨休めも必要よ!」というかなり強引な主張に、みんなが折れて立ち寄ったことがある。

 そこで見つけた「ミステリースポット」というアトラクションが、いろんな感覚をおかしくする錯覚という効果を利用したものなんだけど、方向感覚や平衡感覚、距離感や物の大小など様々な誤解や勘違いを体験できる施設だったのを思い出した。

 今の状態はまさにそれに似ていて、まるで距離感と時間感覚を狂わされているような印象を受けている。

 そういえばミステリースポットを出た後に、タオとシェインに誘われた「ヒホーカン」というアトラクションはどんなのだったんだろう?

 レイナが急に怒り出して行かせてくれなかったけど。

「レイナ達今頃どうしてるかな……」

 再び前を向き直した僕は、ふと口から漏れた独り言に我に返った。

 元はと言えばレイナ達とはぐれて、それから正体不明の怪物に襲われて、逃げ込んだ建物で住人を待っていて、いつまで経っても現われないので探している最中だった。

 当初の目的から次々と遠ざかっているにしても忘れていいことじゃないし、のんきに美術鑑賞しながら歩いてる場合じゃない。

 僕は先の見えない廊下の奥を目指して、少しだけ歩く速さを上げた。


 それにしてもやはり気になる。なんだろう、この違和感は。

 疲れているとか慣れない場所だからといった類いのことじゃなく、何かこう──思考がやたらと脱線する。

 どれだけ歩いたかよく分からなかったり、気づくととりとめのないことを考えていたり、何かおかしい。

 ……駄目だ。

 違和感の正体を探るにしても、僕自身がまともじゃなくなっている可能性も否定できない。

 一応考えたり悩んだりは出来てるみたいだけど、それだって僕が正常であること前提での認識だし。

 こうなってくると、たとえ悪夢でも「夢でした」のほうがマシな気さえしてくる。

 気が付くと全く関係のないことを考えている自分。

 気になりだすととめどなく溢れてくる堂々巡り。

 拭い去れない焦燥感と不安感が否応なしに胸を締め付け、息苦しさと激しい鼓動が警鐘を鳴らす。

 原因の分からない違和感と気持ち悪さに苛まれながら、それでも仲間のことを住人に尋ねるため、住人を見つけるために、先の見えないこの廊下を歩き続けるしかない。

 仲間の無事を信じて、まずは自分が今できることをやるしかないのだ。



 ──時としてさんざん考えても分からなかった答が、ふとしたきっかけで出てくることがある。

 周りの景色に目もくれず、ただ無心に廊下の向こうを目指し一人黙々と歩き続けていた僕は、喉の乾きを癒やそうと水筒に口を付けた瞬間、それまでつっかえていたのがまるで嘘のように、なんの抵抗もなくあっさり答に行き着いた。

 半ばムキになって思い出そうとしていた時は、ヒントや頭文字すら浮かんでこないのに、日向ぼっこしていたら突然出てきた、何ていうパターンだ。

「違和感の正体はこれか……」

 普段想区から想区へと旅を続ける僕達は、命綱とも言える水の管理を徹底している。

 落ち着いた状態でしか開くことの出来ない箱庭の王国での給水は、可能な限り定期的に行い常に8割以上を維持する。

 生理現象としての水分補給を原則とし、不要な消費は避ける。

 人間飢えてもすぐには死なないけど、脱水症状になるとあっけなく死ぬ。


 これはいつでも水の飲める定住者にはピンとこないけど、旅を続ける者としての基本的な心得であり、身体に叩き込まないといけない鉄則だ。

 つまり「喉が渇いたから」水を飲むのではなく、「水分が不足しているから」水を飲む。

 不要に水を飲みすぎると、ミネラルや塩分と言ったものまで汗と一緒に排出してしまい、また血液が薄くなることで身体に酸素を送るためにいつも以上に心臓を動かさなければならなくなるので、かえって身体に負担を掛けてしまうことになる。

 体調管理も含めて、無駄な水飲みを減らせるようになるまで大分掛かったものだ。

 普段なら冗談の一つも織り交ぜそうなシェインもタオも、僕が水分管理を体得するまで真剣そのもので、それだけ重要かつ必要なことなんだって肌身に感じたのを覚えている。

 と言うより骨身にしみるスパルタ教育だった。


 そんな大切にしている水が、今水筒の半分も残っていないという事実。

 僕が欲求に任せてガブガブ飲んでしまったのかとも一瞬思ったけど、その割に大量の汗をかいている様子がない。

 厳しい指導の甲斐あって旅の水分管理術は完全に体に染み付き、ごく自然に生理現象としての水分補給を実践出来ていたことになる。

 運動量など考慮しても水の減り方と釣り合いの取れていないもの。

 それはつまり時間だ。

 この建物に入ってから、もっと言うと黒い霧の中、大扉の前で気づいてからどれぐらい経ったのかまるで思い出せない。


 確かに過去の出来事になってしまったちょっと前の事でも、記憶には漠然としたものであっても時間感覚が付随する。

 記憶された当時の年齢や月日、陽の傾きや月の満ち欠け、刻限や体内時計からくる経過時間の感覚などが同時に記憶されるために、ある出来事を思い起こした際に、何時のことだという時間軸も同時に思い出されるものだ。

 それが何故だか出来事しか思い出せない。

 出来事の順番に混乱がないことから、やはり長さが把握できなくなっていると見るべきだろう。

 いつからこうなったのか、それすらも判然としないけど、確かなことは今居るこの廊下も時間感覚を奪う何かがある、ということだ。

 まさに後悔役に立たず。

 初動にミスがあったとは思いたくないけど、とりあえずこの廊下からの離脱を最優先にしよう。

 建物の高級感とか雰囲気に気圧されて、お行儀よくしないといけない、迷惑かけちゃいけないと思って行動してたけど、もうそんなこと言ってられない。

 これだけ手入れが行き届いている以上誰かがいるのは間違いないし、この場に不釣り合いな大騒ぎをしてれば、この惨めな闖入者に気づいてくれる人がいるはずだ。

 みんなと合流するために、早くこの状況から抜け出すために、やることは一つ。


「すいません! 誰かいませんか!」

 僕は大声を張り上げながら廊下を走り、握りしめた拳で壁をガンガン殴りつけた。

 ──流石に美術品を壊すのは気が引けるので辞めにしたけど。

 なんせ幾らするのか分からないし、とても弁償できる物とも思えないので。

 形振り構っていられないと言った割には気が小さくてバツが悪い──

 ドタバタと走りながら壁を殴り散らし、大声を上げている姿はかなり滑稽だと思う。

 でもそんなこと気にしてもいられない。

 ありったけの声を張り上げ壁を殴り続けているせいで喉と拳が結構痛くなってきた。

 間違って壁じゃなく絵を殴っちゃいけないので、めちゃくちゃやっているようでそれなりに気を付けてもいる。

 雄大な雪山にかかる雲、噴水で戯れる少女と子犬、台所で食事を作っている主婦、水平線に沈む夕日、公園で読書する老人、喝采を浴びる大道芸人、水辺に佇む真っ白な鹿、花売りの女性、海を望む丘、木漏れ日の差し込む……林道?

 廊下を走る足も、壁を殴り続けた手も、張り上げていた声も、自然と止まった。

 ジンジンする拳を擦りながら、壁に掛けられた絵画を見直す。

 これはついさっき(だと思うけど)何枚かじっくり見たときにあった絵だ。

 その隣には湖畔に立つ教会、そのまた隣には草原を駆ける馬の親子。

 順番はよく覚えてないけど間違いなくここに来る途中の廊下で見た。

 もしかしてずっと同じところを歩いてたのか?


「すいません! 誰か、誰かいませんか!」

 よくわからない状況に置かれている恐怖と、みんなとはぐれている焦りと、今の今まで気づかなかった自分に対する怒りとが綯い交ぜ状態になって、感情すらまともに言い表せられないでいる。

 こんなとこで混乱の極みを体験することになるとは夢にも思わなかった。

 まずいことにまた喉が渇いてきている。

 大声を上げているせいもあるけど、時間感覚が狂っているからどれだけ経過してるのか見当もつかない。

「すいません! 誰かいま──」「そこに誰かいるの?」

 びっくりした!

 やけっぱち気味に張り上げた自分の声に重なるように、突然すぐ近くから少女と思しき声が聞こえてきたので、条件反射で思わず身構えてしまった。

 心臓から口が飛び出すかと思った……

 周りを見回してもどこから声がしたのか分からないけど、この建物に入ってからようやっと誰かと接触できたんだ。

 この機会は絶対に逃しちゃいけない。

 よし、出来るだけ丁寧に、誠意を込めて答えよう。と思ったけど、そもそもどこから聞こえてきたかも分からないし、どこに向かって話しかければいいのか見当がつかないので、なんとなく天井の方を向いて呼びかけてみることにした。


「えーと、勝手に入ってすいません。旅の途中で仲間とはぐれちゃいまして、誰か見かけてないかと思ってお邪魔させてもらったんですけど、何だか廊下で迷っちゃいまして、それでえっと……」

 声が近くからするのに姿が見えないせいで、天井を見上げてぐるぐると回転しながら一生懸命説明しようとするんだけど、やっぱり見えない相手にちゃんと話すのは思った以上に骨が折れる。

「迷ったの? 廊下で?」

「慣れないもので……。あの、ここから出してもらったりって……」

「どうしようかなー」

「迷惑かけないようにしますから」

「うーん……でもさっき大騒ぎしてたし」

「あ、いや、その……参ったな」

 まあ当然の反応だろう。何せ物音どころの騒ぎじゃなかったし、勝手に上がり込んでる訳だしね。

 これがもしも自分の家だったら、自警団に突き出すかそのまま閉じ込めておくだろう。

 僕が将来こんな立派なお屋敷に住めるかどうかは別として。


「えっと、僕はエクスといいます。この廊下で何故か迷って出られなくなってしまったので、住んでる方に気づいてもらおうと少し騒ぎました」

「すこし?」

「いえ大変お騒がせしました。ごめんなさい」

「フフ……それじゃ、質問に答えて」

「はい、よろこんで!」

「アナタはどろぼうさん?」

「違います、ただの旅人です」

「もう暴れない?」

「おかげさまで気づいてもらえたので、もう暴れる──騒がなくて良くなりました」

「それじゃあ、今回だけ特別に許してあげる」

「は〜……ありがとう」

「ここ開けるからちょっと待って」

 やった、ようやくこの悪夢のような廊下から出してもらえそうだ。でも開けるってどこを開けるんだ?

 壁に隠し扉があるのかな? それとも天井からはしごが降ろされてくるとか。

 結局すぐ近くから声が聞こえてきた仕組みも分かってないけど、この無限に続く廊下といいからくり屋敷と言うやつだろうか?

 あるいは本物の魔法使いの住む館とか。


『よっこいしょ……』

 バチン──先程より小さな声が聞こえたかと思うと、突然廊下が暗闇に包まれた。

 まさか罠! と一瞬頭をよぎったけど、あんなやり取りしておいて今更どん底に叩き落とすとか、そんな趣味の悪いことはしないだろう。そう信じたい。

 また大騒ぎして機嫌を損ねちゃマズイし、ここは大人しく待つことにする。

 しかしなんで扉を開けるのに明かりを消す必要があるんだろう?


 程なくしてガチャリという音と共に、暗闇に光が差し込んできた。

 逆光でよく見えないけど、小柄な少女のシルエットが見える。

 予想通りやはり隠し扉でもあったんだろう。それもなぜか廊下の先があった方に。

 僕が歩こうとしていた空間に突然扉が現れたということか?

「出たかったんじゃないの? そこに居たいんなら別にいいけど」

 僕が身じろぎせずにその場に立ち尽くしていると、どうやらさっきの声の主である少女から催促されてしまった。

「出ます!」

「当屋敷へようこそ、まねかれざるお客さん」

「あはは……お邪魔します」

 なんだか随分楽しそうだ。今のはやっぱり嫌味だよね。

 年の頃は10代前半と言った感じだけど、背が低いので幼く見える。

 見た目や声の感じと些か釣り合わない大人びた話し方、お姉さんぶって背伸びしたいお年頃なんだろうな。

 おしゃまな女の子と言ったところか。まるでちっちゃいレイナを見てるみたいだ。


 僕はどれだけ居たのか分からない廊下から、はるばる大広間へと辿り着いた。

 部屋を見回していると少女が扉を閉め、僕の向かいに回り込み腕組みしながら話しかけてきた。

「エクス君、だっけ? さっそくだけどちょっとお願いしてもいいかしら?」

「その前に聞きたいことがあるんだけど──」

「ワタシはクレアよ。本題に入っていい?」

「はい……ぼくにできることなら」

 聞きたかったのは断じて君の名前ではない。

 心の中で悪態をつきながら、それでも主導権を握られている立場上、決して口には出せないこの情けなさ。

 悪夢の廊下の次は女の子のお願い。

 果たして仲間の情報を得られるのは何時になることやら……

 僕は一抹の不安を感じながらも、ここは話を聞くべきだと自分に言い聞かせた。

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