始まりの前日

 それからというもの、毎夜一人で帰るときは鈴の音を聞きながら帰っていた。空にはたくさんの星々が浮かび、その中にある星座を見つけながら、鈴の音を揺らしていた。鈴の音は、貰った日の罪悪感を少し思い出させるが、私の心の中にある何か暗かったものを少しずつ明るくしてくれているようだった。帰り道にある公園でコーヒーを片手に夜空を見ながら、根付の音を聞くのがいつの間にか日課になっていた。


 そんな日が続いていたある時、

夜帰る準備をしていると研究室に時雨君がやってきた。


「おや? どうしたんだ、こんな時間に」


「あぁいえ、少し探し物を……」


「もしかして、これか?」


 彼女が探しているものは見当がついていた。その日彼女が帰ってしばらくしてから頼んだ覚えのない手芸の本が届いた。私は確かに彼女に根付をプレゼントしてから手芸に興味を持った時期はあるが、それらの本は私の家の書斎に全て入っている。


 箱の宛名を見るとそこには私の名ではなく時雨君の名があった。開封してしまった後で気付いてしまったが、一応わかりやすい場所に置いておいたのだ。


 しかし、まさかここに届いていると思わなかった彼女は、気付かずに帰ってしまっていたようだ。


「あぁ! これです!」


「すまない、私宛の荷物だと思って開けてしまった」


「いいえ、私の方こそ。

 いっつもネット注文するときはクリックを連打してしまうので、

 よそ見しながら連打してたらこんなことに……」


「手芸を嗜んでいるのか?」


「嗜む……というほど大それたものじゃないですけど、まぁ」


「ほう……この本、私の家にもあるが、

 手芸の本が欲しければ私の家から持って行っていいぞ?」


ざっと50冊ほどあるが。


「え、いいんですか?」


「あぁ、なんなら今から来るか?

 あ、いや、しかしご自宅の両親が心配されるか、

 今日は特に何もない日だからな」


「あれ? 教授、私一人暮らしですよ?」


「おや、そうだったのか?」


 彼女との付き合いはもう4年になるが、実はお互いあまり自分のことを話したことはなかったのだ。趣味や思い出を話すことはあったが、どういう生まれで、今何をしているかなどは、ゆっくり話したことがなかった。


「教授さえよければ今からでも本をいただきに行きたいです!」


「そうか、では行くか。

 ついでに飯……カツ丼大盛りでも奢ってやろう」


「先に言わないでくださいよ! 食べますけど!」


 いつもの食堂でご馳走し、時雨君と家路に向かった。ふと、いつもの公園の前で足が止まってしまった。どうしてもここで夜空を見るのが好きなのだ。


「すまないが時雨君、少し付き合ってくれないか」


「え? あ、はい」


 公園にはこの時間だけの私の指定席がある。公園の隅にある、杉並木の下に備え付けられた木でできたベンチだ。背もたれはないが、幅が広いため私はよく後ろに手をついて空を見ている。いつもは広いベンチも、今日は少し狭い。


「ここから夜空を見るのが好きでな」


「おぉ、いいですねここ。すごく綺麗」


「星は素晴らしい。 

 あんなに小さいのに、私の目にも輝いて見える。

 私は星の中でも流れ星が一番好きだ」


「“スペース・デブリ”って言うんですよね?」


「そう。その名前も相まって私は好きだ。

 『宇宙のゴミ』、ゴミと人は呼ぶが、

 そのゴミの光がここまで届いていて、はかなく消える様に人は願い事をする。

 

 ゴミと呼ばれていても、一瞬に輝けば人は感動する。

 そう教えてくれているような気がしてな。

 はは、変なことを言ってしまったな」


 小恥ずかしくなった私は何かで取り繕うとしたが、タバコを吸わない私には頭を掻いてみせるほかなかった。腕の上下とともに揺れる上着のポケットから、上機嫌に鈴の音が聞こえる。


「あ、ちゃんと着けてくださってるんですね」


「あぁ、これか。当たり前だろう。

 貰い物は着けねばどうする。

 今着ている上着だって雨井から貰ったものだ」

 

「アマイさん?」


「……あぁ、近所に住んでいる知り合いだ。

 さ、行こうか、付き合わせてしまってすまないな」


 さっと立ち上がり私は公園の出口へと向かった。ふと振り返ると時雨君はまだ座っており、笑みを浮かべながら空を見上げていた。その姿に私は、私の好きな場所を好いてくれる人がいるのだと、静かに喜んだ。時雨君の名を一度呼ぶと彼女はハッと気が付き、小走りで向かってきた。


いつものように上着に手を入れ、我々は帰路に着いた。


 彼女が私の家に来るのは初めてではない。私の家は少し広く、雨井と私だけでは虚空な空間が多いため、よく雨井が理事長として人を呼ぶのだ。その中には当然冱露木や円花さん。令さんもよく来る。八足も呼んでやってはいるのだが、頑なに来ようとしない。


 時雨君はその中でも研究資料を借りに来るので、よく来ている方だ。その結果、彼女は案内しなくとも書斎の場所をわかっている。ただ、いつもは自由に書斎を見てもらっているが、今回の場合はいつもと借りに来たものが違うので、書斎が分かっていても本の位置を教えてやらねばならない。


「まだそこまで日が経っていないからな、おそらくこの辺に……」


「教授、前々から気になってたんですけど、

 この部屋ってすごい量の大きな本棚がありますよね。

 本全部で何冊ぐらいあるんですか?」


「数えたことがないな。

 ただ、談話室側の下が新しいというのは知っているから、

 一番上の本が何時の本かを見れば大体わかるんじゃないか?」


「……あそこですか?」


 円形に上に伸びているこの部屋は、実は雨井の力で棚が増えるたびに建物そのものの高さが伸びている。本棚一つあたりは私の身長より少し高い、2メートルほどだが、それがまず縦に二つ重なっている。なので、1段目でも上の本は脚立を使う。それが各階層ごとに円形に並べられており、その階層は8にもなる。


 一番上まで行くこともあるので、私はそれほど苦労がないが、時雨君はぐったり疲れていた。


「はぁ……はぁ………、ようやく着いた………。

 あれ? これって……」


「あぁ、ここを私は『赤の階層』と呼んでいる」


 その階層は紛れもなく、私が高校生の頃に集めた赤本で埋め尽くされた階層だった。見渡す限り赤と黒で彩られており、おそらく素人にとっては目がチカチカ混乱することだろう。当然、亜心大学の赤本は一切ない。


 ふと、そのことを考えるとここへ登らずともよいことに気が付いた。そのことに時雨君も気付いたらしい。


「あの、教授、教授が高校生の頃に集めたということは、

 この階層は12年程前ということになりますよね?」


「そういうことになるな」


「登る必要、なかったですよね」


「すまない」


私は彼女にガミガミ怒られながら階段を降り、手芸の本の場所を彼女に伝えた。


「ここらあたりに手芸が集中しているから、好きなものを持っていくといい。

 私は談話室にいる」


「ありがとうございます!」


 そう言って私は談話室へ向かった。私がこの自宅で一番好きなのは談話室で暖炉の光に当たり、みたらし団子を食べながら漱石を膝に乗せ好きな本を読むことだ。夏に暖炉はおかしく思われるかもしれないが、この暖炉はライトアップも可能で、実際に火を焚かなくともインテリアになるのだ。


 ページをめくり、漱石を撫で、みたらし団子を食べる。贅沢というより天国のようなひと時だ。たまにそのまま寝てしまうこともある。


 漱石ももう今年で8歳になる。今では漱石以外にも露伴、鴎外、一葉、雷鳥と、かなり増えている。その中でも漱石は大概私にくっついて行動している。それぞれの猫も各々好き勝手暮らしているが、私が抱き上げるときは大人しくしてくれている。


 予想出来るとは思うが、雨井には「懐いている」というほどではない。強いて言うなら「餌をくれる人」か「遊んであげる人」ぐらいなものだろう。8年も一緒に居る漱石ですら未だにそのポジショニングなのだ、雨井の動物に嘗められる度合いは想像を超える。


漱石を撫でながらそんなことを思っていると、時雨君が書斎の方からやってきた。


「教授、この本いただきたいんですけど、いいですか?」


「かまわんぞ。大体の手芸は網羅したからな」


「流石教授……。

 あ!漱石~!」


時雨君が呼ぶと漱石はちらりとこちらを見てから彼女の方へ向かった。


「漱石~、相変わらずふわふわだね~。

 かわいい~」


 抱き上げられ撫でられ愛でられた漱石は「そうかそうか」と言わんばかりに「にゃ~」と鳴き声を上げた。最初は鳴かれても何も分からなかったが、8年も一緒に居ると大体何を言ってるかは想像がつくようになる。時雨君に抱き上げられた漱石は慣れた様子で彼女に愛想している。まるで仕事のようだ。


「まぁ、座るといい。立ったまま漱石を抱くのはきついだろう」


 なんせ漱石は雄猫でしかも少し肥満気味なので、いくら私の資料運びをしてくれているとはいえ堪えるのだ。時雨君は「お言葉に甘えて」と椅子に座り、差し出したみたらし団子に手を伸ばした。


「不思議なもんですね。イルミネーションなのになんだか温かく感じます」


「空調もきかせているから、夏のせいではないことは確かだな」


「それはそうなんですけど、なんかこう、鬱陶しくない暖かさというか」


「わからんでもない」


 そこから私たちは初めて自分のことを話した。残念ながら私の話はその3割がでっち上げだが、彼女は100%すべてを話してくれた。時雨君には話すときに決まって「聞いてくださいよ教授」という癖があるが、この時の彼女は「聞かせてくださいよ教授」と何度も言ってくれていた。


 私はたくさん聞き、たくさん話した。時雨君の家族のこと、好きな映画、嫌いなお酒。私が好きな景色、好きな本、嫌いな虫。たくさん話しているうちに、すっかり時間が遅くなってしまった。時計の針は新しい日付を伝えていた。こんな時間に帰らせてしまうのも申し訳ないので、この部屋だけは沢山余っている家を有効活用してもらうことにした。


「時雨君、すまない。長く話しているうちにこんな時間になってしまった。

 こんな時間に帰らせてしまうのも忍びない。

 客間だけは無駄に余っているから、泊まっていくか?」


「え? いいんですか? 

 やった! 教授の家一度泊まってみたかったんです!」


「そうか、なら3階の部屋はどこでも使ってくれてかまわない。

 なんなら漱石もつけよう」


 そう言うと彼女はお礼を言い、若干面倒くさそうな漱石の顔とともに談話室から消えていった。そこから私はしばらくひとり考えた。なぜ、彼女と話をしているとこうも長くなってしまうのか。長くあるのに、どうして一つも苦痛ではなく、むしろ足りなさすら感じるのか。どうして彼女がくれたこの根付には、不思議と溢れる何かを感じてしまうのか。星を見ているときに感じた、もっとこの空間を共有したいというあの感覚はなんなのか。そう考えていると、私は考えれば考えるほど鼓動が速くなるのを感じた。



そうか、私は、今初めて人を好きになっているのか。



そう思った瞬間、私の中の時計の針が動き出した。


錆びついていた大きな歯車がゆっくりと回り、一刻一刻穿ってゆく。


しかし、私の時計には、人とは違う歯車が仕込まれていた。


人間として生きる私の中に、蝉だった自分の歯車が混ざっていた。


彼女へ思いを伝えるまで、

彼女と一生を添い遂げる誓いを交わすまで、

彼女と一線を越えるまで、


時間はあと、1週間。

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