ありがとう

 長い春学期も終わりが近づき、梅雨は開け、同胞たちの勢いが増す季節がまたやってきた。やはりこの季節になってしまうと、必ずと言っていいほどやってしまうことがある。


「おぉ、随分羽の艶がよろしいお嬢様ですな。

 よければそこの木で私と……」


「またですか教授」


 本来人間にはわからない細かな昆虫の特徴を、私は分かってしまうのだ。人間になってもうすぐ12年になるが、この癖だけはなかなか抜けない。時雨君にも毎年週1で呆れられてしまう。

 

 しかし、可愛い女性や美しい女性には素直に何を言ってもよいというのが冱露木から教わったことだ。プラスにこそならないかもしれないが、女性を褒めてマイナスになることはないだろう。


 ただ、この持論には問題がある。相手が人間の女性である場合でないと、大抵納得してくれないことだ。一度時雨君にもこの論を展開したことがあるが、ムスッとした顔で「意味が分からない」と嘆かれてしまった。


「ほら、次の講義もうすぐなんだから行きますよ」


「おぉ、あぁ、すまんすまん。すぐ向かう」


 毎度この調子で彼女に急かされてしまう。稀に女学生に私の好きなタイプの女性について聞かれるが、正直に答えても誰も納得してくれないどころか軽蔑されることもあったため、「子供が好きな女性」と答えている。


 期末ともなると生徒の授業への集中度に差が出て来る。この分野に興味のある者は私の板書や発言を逐一ノートにとり、講義の最後には質問もしてくる。逆に興味がなく、単なる単位の埋め合わせで取った者の半分はこの時期あまり出席しなくなる。


 しかし、私は休んでる者が多い回にレポート課題の発表やその他規定を発表することにしている。休みが多い日というのは決まって仲の良いグループがすっぽり抜けているので、私としては興味のない人間が書いたレポートを読む手間を省く手段でもあるのだ。


レポートの課題の発表後、私は必ず生徒に告げることがある。


「この講義で単位が与えられるのは全履修者のうち成績上位3分の2の生徒だ。

 君たちの中に今日休んでいる友がいるなら、

 君が頑張ってとったそのノートを、

 君をのけ者にして今遊んでいる連中に見せる必要があるのか、

 じっくりよく考えてから見せるといい」


 全く関係のない話だが、冱露木の講義の単位はどうかと言えば、あいつが気まぐれに作った数式を解けた者が単位を認められるらしい。簡単そうに見えるが、あいつの作る数式は授業中にチラシの裏に書いているものの複合型だそうで、結果的にはやつの講義をしっかり聞いておかねば解けないらしい。


 続々と提出されるレポートに目を通す日々が始まると、時雨君と夜まで残っていることも少なくはない。22時を過ぎて業務が終わったときは、いつも時雨君にご飯をご馳走している。


 ご馳走と言っても、大抵の場合彼女の好きな丼屋のカツ丼なのだ。彼女にどこへ行きたいか尋ねると大抵そこを答える。初めは遠慮しているのかとも思ったが、毎度飽きもせず美味しそうに食べている彼女を見て、遠慮など一切していないことを知ったのはもう2年も前の話だ。


最後の提出者のレポートに目を通したその日も、私は彼女を食事に誘った。


「お疲れ様。これでレポートの判定作業は終了だ。

 長らく手伝ってくれてありがとう。さぁ、では今日も食べに行こうか」


「はい! ごちそうさまです!」


 最初は食べた後に言ってた彼女も、今では研究室を出る前に言うようになった。研究室の戸締りをしてから大学を出て、行きつけの丼屋へ向かう。いつもの席に座ると彼女が注文する前に店員が料理を持ってきてくれる。


「はいどうぞ~」


「もう! 私がいつもカツ丼大盛り頼むからって注文の前に持ってこなくても!」


「しかし、君はそれを頼むんだろう?」


「頼みますけど!」


「あらあら、ご迷惑だったかしら」


「すごくうれしいですけど!」


「失礼をしてしまったお詫びにからあげのサービスでも……」


「ありがとうございます!」


 接客をしてくれたのは少し年配の女性で、私はこの女性と仲が良く、しばしば時雨君の話で盛り上がっている。彼女にとって時雨君は孫のような存在らしく、よくサービスしてくれるからあげは、お小遣いの代わりらしい。私は毎回同じものを頼むわけではないので、私の注文が届く頃には、時雨君はカツ丼を半分ほど食べている。


ふと、彼女が思い出したかのように話しかけてきた。


「あ、教授教授」


「ん? なんだ?」


「んんっ、これ、どうぞ」


時雨君はカバンから小さな紙袋を出し、私に手渡した。


「これは?」


「いいから、開けてみてください」


 言われるがままに中身を空けていく。小さな紙袋の中にはリボンで包まれた小さなピンク色の箱があり、それを開けると中には小さな鈴とハチミツ色の石がついた根付が入っていた。


「根付じゃないか、しかもこの石は確か……」


「シトリンという石で作りました。

 以前誕生日に教授が手作りで作ってくれたので、私もと思って」


「おぉ、わざわざ作ってくれたのか」


「はい、教授、30歳のお誕生日、おめでとうございます!」


 思い出した。その日は私が以前適当に述べた誕生日だったのだ。適当に述べた誕生日だというのに、彼女はしっかり覚えてくれていた、プレゼントまで用意して。


「あらあら、先生お誕生日だったんですか?

 もう、常連さんなのに、

 そうならそうと早く言ってくれればよかったのに……

 デザート、サービスしますね!」


「あぁ、いや、どうも、ありがとうございます」


 たった3人程しかいない空間が、彼女のプレゼントのお陰で感じたことのない暖かい空間となった。その時、以前冱露木が言った言葉を思い出した。


「妙に心があったかくなる女性が、いつの日かお前の前に現れるよ。

 その女性が、多分お前が大事にすべき女じゃねぇの」


 もしかして、彼女がそうだというのだろうか?自分の考えに、私は少し動揺してしまった。その様子を見た時雨君が、不安そうに言う。


「あの、もしかしてお気に召さなかったですか?

 手作りとかここ最近してなかったので、

 少し不細工になっちゃってますよね……」


「いや、そうではない。

 ただ、こういう贈り物をしてもらうのは初めてでな。

 ありがとう、大切につけるよ」


 私は彼女目の前でその根付を自分の携帯電話につけて見せた。チリンと小さく響く鈴の音は、私の嬉しさを代弁してくれているようだった。


「ありがとうございます!」


「なぜ君が感謝するのだ。

 感謝すべきはもらった私の方だ。


 本当にありがとう、嬉しいよ」


 感謝の言葉を述べれば述べるほど、私の心が暖かくなって行くのを感じた。しかし、その暖かさを信じきれない自分もいた。そう、私はかつてその先にあるものを諦め、捨てたことがあるからだ。その暖かさに謝るかのごとく、私は店員に「ごちそうさま」といい、彼女の分の代金をいつも通り支払った。


 帰り道、小気味よくチリンとなる鈴の音をいつまでも聞いていたかったが、その音に罪悪感を覚えた私はいつの間にか根付を握りしめていた。


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