申し出
年が明け、私一人だった研究室に活気が戻ってきた。私一人でも十分に快適なこの研究室だが、時雨君や雨井、冱露木などが来ると研究室よりも談話室という成分が強くなる。研究の邪魔になる程度にはうるさいこの連中だが、私はこのうるささにどこか愛着が湧いていた。しかし彼らの話す内容といえば、「初詣は何をお願いした」だの、「今年のお年玉の出費額は」だの、極めてめでたいものではなかった。
私は彼らに牛乳ドリンクを淹れ、再びパソコンに向かった。少し間が空いたせいか、それとも新年になったせいか、チェックしていなかった本が溜まっていた。
「きょーじゅ、何見てるんですか?」
「資料図書のチェックだ。少し間が空いたから出来てなかった本が大量にある」
「あぁ、年明けですもんね。
でも年明けすぐの本って『今年降りかかる最悪の数々!』とか、
『悪魔がやってくる年』とか、
『世界滅亡のカウントダウン』とかが多くないですか?
教授その中の数冊買ったりしてますけど、
これって人類学や民俗学と何か関係があるんですか?」
「あぁ、あんなものははっきり言ってまったくもって当たらないが、
関係はなくはない。
その人物がその年をそう予想するのは、何かしら根拠があってのことだ。
その根拠は何かの歴史書であったり、統計であったり、
またはその人物個人の思想や宗教、価値観から来ているのであり、
それらは国によって意見が異なる。
つまり、同じような最悪を予想しているものの、
国によって根拠が異なるということは、
そこに文化の違いや民族の違いがあるというわけだ」
「なるほど……
教授はじゃあただのオカルト好きとかそういうわけではなかったんですね」
「オカルトは好きだが、幽霊は信じていないな」
幽霊の存在は今一まだ信じきれないが、妖怪や神の類は信じざるを得ない。事実、目の前にその一種がいるからである。
ふと、ここで私は伝え忘れていたことを思い出した。
「そうだ、時雨君。
来学期から君に私の講義のうち数種類を任せたいのだが、どうかね?」
「え!? そんな、急にですか?」
「あぁ、言い忘れていたのだ。すまない。
まぁ、つまり私の講義を受け持って教授として
働いてみないかという提案なのだが……」
「え、いや、それは嬉しい申し出ではありますけど、
でも、手続きとか色々面倒でしょうし……」
「あぁ、確かに教授の採用試験はあるが、私の紹介状と、あと雨井がなんとか」
「そうですよ!
それに君の才能はこの私、麻鬼がしかと認めていますから、
媛遥君の紹介状だけで採用しちゃえますよ!」
私が口を滑らせてしまいそうになった時、雨井は涙目で私を睨んだ。実はこの時同時に私と雨井は本来やるはずの教授採用試験を公認とはいえわざと飛ばしたのだ。理由はまず結果が分かり切っていたことと、もう一つはどちらも時雨君の答案を採点したくなかったからだ。
我々はてっきり時雨君が喜んで受けてくれるものだと思っていたが、返ってきたのは意外な答えだった。
「身に余る光栄ですが、私は今のポジションの方が……」
「ん? なぜだ?
教授になれば給料も上がるし、自分の研究室で好きなことが出来るぞ?
好きな本も申請すれば大学側の補助金で購入できるし、快適だぞ」
「そうではあるんですが、
私大勢の前で一人で長い時間しゃべるのはまだ慣れていないので、
もうしばらくこのポジションの方がありがたいのですが……」
そう時雨君は手にマグカップを持ちながら言い、言い終わるとマグカップを口をつけないままテーブルに戻した。確かに今まで時雨君に任せていたのは講義の初めの10分程度の復習で、たまに丸々一時間講義をお願いすることもあるが、いきなり3か月後からレギュラー講義をしてほしいと言われても戸惑うだろう。私は彼女の言い分をのんだ。
「そうだな。少し急過ぎた。
では、教授職をやってみたくなったらいつでも相談してくれ」
そういうと時雨君は少し安心したのか、「はい」と笑顔で答えたのち、干しイモとドリンクを口に運んだ。
時雨君の不安そうな顔を見たのは二度目だ。一度目は丁度私が八足と付き合い始めた頃だ。八足が頻繁に私の研究室へ出入りする様子を見て、一度私に言ったことがある。
「教授、あの人本当に大丈夫なんですか? 嫌な予感しかしないです」
あの時の顔と、今しがたの顔がよく似ていたので、あの時本気で心配していたことに私は気づいた。
ちなみに、別れた後の八足だが、私の門下生の呉白一公(くれしろ かずひろ)という男を靑羽さん越しに紹介した。彼は卒業後芸能プロダクションを設立し、有名俳優を選出していたが婚期に恵まれず、よく私に相談に来ていたのだ。八足と呉白は当たり前ではあるが意気投合し、現在結婚を前提に付き合っているという。
話がそれてしまったが、結局時雨君はその年の春学期も私の元で助手として働くことになった。
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