きっかけの誕生日
八足の一件からしばらく時が過ぎて、季節は冬。また寂しさを感じてしまう季節が来た。どうも冬だけは苦手だ。もう人間になって十一年になるが、それでもこの季節には慣れない。
青かった木々は細々とした枝だけが残り、うるさかった仲間の声も聞こえない。静寂だけが似合う季節。私には到底想像もつかなかった季節。
研究室もとうとう石油ストーブが活躍するようになっていた。なぜこの時代で石油ストーブなのかとよく聞かれるが、暖も取れてその上では物を温める・焼くことができる機械など便利以外の言葉では形容しがたい。
「おつかれさまでーす。
はぁ寒い寒い……」
普段は腰に巻く杉下君も、この季節はちゃんと白衣を着こんでいる。しかし、その白衣は普段袖口が縛られているので、少し伸びており、何か作業をする際は一回袖からしっかりと手を出してやらないといけなくなる。しかし、彼女はこの季節が嫌いというわけではなく、むしろ好きなのだという。理由は、彼女が好いている食べ物が、この季節でしか味わえないものだからだ。
「おはよう、杉下君。アレは買ってきたのか?」
「もちろんですとも! ばっちり入手しましたよ!
石油ストーブとこの組み合わせは外せないでしょう!」
そう言うと杉下君は袋いっぱいに詰め込んできた干しイモを数個取り出し、ストーブの上に乗せた。残りの干しイモは小分けにして冷蔵庫に入れ、また休み時間などで食べるのだ。
普段は私の好物でいっぱいの冷蔵庫だが、冬になるとみたらし団子は味が落ちてしまうので、そんなに買い溜めはしないのだ。それに私もここ数年でこの干しイモの魅力にひかれてしまったこともあり、冬になると冷蔵庫の中段の中身はみたらし団子と干しイモが半々になる。
冬に限って毎朝ストーブの上で干しイモを焼き、あらかじめ温めてあったそば茶か、牛乳にきなこと蜂蜜を少し混ぜたものをいただくのが、この研究室では日課になる。普段は杉下君と私だけなのだが、時間があるときは冱露木や理事長、たまに円花さんも一緒にごちそうすることがある。
「ほれ、岩崎特製ホットドリンク」
「おぉ、今日はこれなんですね!
私これ大好きなんですよ! 毎日これにしましょうよ!」
「馬鹿言え、これは作るのに割と手間がかかるのだ。
毎日作っていられるか」
「媛遥君、そんなこと言わずに毎日作ってくださいよ」
ふと声のした方に目をやると理事長が私の分の特製ドリンクを飲んでいた。
「理事長、それは私の分のカップなのだが」
雨井がギクリとした顔をし、静かにテーブルにカップを置いた。
「これは失礼。では今日も講義がんばってくださいねぇ。
あ、別にどうということはありませんが、
もうすぐある人の誕生日ですねぇ……。
いやぁ、たのしみだなぁ……」
そう理事長は意味ありげでもない言葉を残して去って行った。
「あ、そっか。理事長もうすぐ誕生日でしたっけ」
「気にするな。気にするだけ無駄だ」
「まぁまぁそう言わず。
去年は確か……猫の首輪を買ってあげたんでしたっけ?」
「あぁ、ひどく喜びすぎて
2、3時間泣き止まなかったな」
ちなみにその猫は私の家で太々と育っている。名前は『ない』。雨井が面白いだろうとつけた名前だが、次第にこの名前が呼びにくいことに雨井は気づいた。私はその猫のことを『漱石』と呼んでおり、漱石は呼んでいる雨井よりも黙っている私の方へやってくる。
少し変わった猫で、普段は白と黒のぶち猫なのだが、月の光が当たると黒い部分が紺色に見える猫なのだ。好きな食べ物は私がたまに作るサワラのソテーで、雨井も漱石の好感度を上げようと作るのだが、私のものと比べると何か違うのか、大抵半分までしか食べない。
「じゃあ今年は何をあげましょうか」
「そうだな……。時計なんてどうだろうか」
「でも理事長立派な時計持ってますよね」
「じゃあ鳩時計をやろう」
「そうしましょっか」
毎年雨井へのプレゼントはこんな調子で適当に決まるのだ。なので去年のプレゼントがたまたまヒットした時は二人して引いたほどだった。
ふと、ここで私はあることに気付いた。
「そういえば杉下君。私は君の誕生日を知らないのだが……」
「あ、そういえば私も教授の誕生日知らないです」
私は誕生日がないので、誕生日を聞かれても答えようがない。
「杉下君は……誕生日は?」
「私ですか? 私は三月八日です!
教授は誕生日いつですか?」
「私は……八月一日だ。
どちらももう少し先か……」
「ですね。
まぁ、来年も私多分ここで働いてるんで、
覚えていたら何かプレゼントしますよ!」
適当に言った誕生日など覚えなくともよいのに、杉下君はしっかりとメモ帳に書いてくれていた。誕生日などという概念は虫にはないため、どうして祝うのか甚だ理解できなかった。
一回ずつ確実に寿命が縮まる日、それが誕生日のはずだ。しかしその中に人間は喜びや幸せを感じるのだというから、人とは不思議な動物である。
「ささ! 教授!
干しイモが焼きあがりましたよ~」
「あぁ、少し待ってくれ。私の分の牛乳を今淹れなおすから」
自分の分のカップを持って戻ると、テーブルには焼きあがった干しイモ、ストーブには次の干しイモが置かれていた。私は、寂しい冬のこの何気ない朝が、今思えば心の支えになっていたのかもしれない。
寒くない部屋の中で、大好きな甘いものを食べながら、体温まる飲み物を飲み、何より、どんな朝でも一人ではなかった。そんな環境が、私を孤独から救おうとしてくれていたのかもしれない。甘く焦げた干しイモを口に運びながら、私はふとそんなことを思っていた。
「今年は雪降りますかね~」
「あぁ、そういえばここ数年雪が降っていないな」
「そうなんですよね~。
去年はちょっと降りましたが、積もるほどじゃありませんでしたもんね。
いつかみたいにソリで遊べるくらい降らないかなぁ」
「杉下君は、雪が好きなのか」
「そりゃもう大好きですとも!
子供の頃よくお父さんに雪だるま作ってもらったり、
お兄ちゃんに雪玉投げられたり……」
「ほぉ、いい思い出だな」
「教授はどうなんです? 雪」
「私は……どうだろうな。
好きかどうかは別として、雪にそこまで興味を示したことがないな」
人間になって始めのころはよく驚いたものだ。雨には慣れていたが、土の中では雪は目に見えず、雨以外に空から降るものといえば雷意外に知らなかったのだ。初めて見た時はそれはもう驚いた。
それは雨よりも軽く、どんな白よりも白く、手に乗せると雨になり、放っておくと積もる。これほどに美しく理不尽な自然現象があろうか。そんな風に感じた時期もあった。
「そうなんですね。じゃあ、雨も興味はないですか?」
「雨か……雨は好きであり、嫌いでもあるな」
「というと?」
「雨の音を聞いていると、なぜか心が落ち着くのだ。
そして雨の時は、自分が動かないでいても、
それが許されているようで心地よいのだ。
晴れの日は外へ出かけ、
自分を取り巻く環境の中で新たな発見と出会わないといけないが、
雨は、過去の自分の発見と再び向き合うことができるいい時間ができる。
嫌いなことといえば、私のいまいち紹介したくならない知り合いの名に、
『雨』という字が使われていることだ」
「へぇ……。教授ってやっぱり考えていないようでいろいろ考えてるんですね。
そんな考え方する人初めてかもしれないです」
「案外皆そうだと思っていたのだがな。杉下君はどうなのだ?」
「私は雨は好きになれませんね。
雨だとやりたいことが出来なくなってしまいますし、
洗濯物も乾かないし。
誰かと一緒に出掛けたくても、
傘を差さないといけないから距離が遠くなっちゃうじゃないですか。
あ、そういえば教授、
私そろそろもう教授の下で働いて3年ですよ。
そろそろ『杉下君』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでくださいよ」
「あぁ、そうか、もうそんなに経つか。
しかし私は人を下の名前で呼ぶのは慣れていなくてだな。
冱露木でさえ長い付き合いではあるものの下の名前では呼ばんのだ」
「気持ちは分かりますが、
毎学期教授が『杉下君』って呼ぶと同じ苗字の生徒が返事しちゃうんですよ。
もう3年もそれ繰り返していると嫌になってくるので、
ちゃんと下の名前で呼んでください」
「あぁ、なるほど、そうか。
では、今日からそうするとしよう、
時雨君」
「はい!」
そう言うと彼女は皿の上の干しイモを2、3本口に放り込み、新しく焼きあがった干しイモを皿に並べた。
この日から私は彼女のことを『時雨君』と呼ぶようになった。この頃の彼女の業務は助手というより半ば准教授に近いものがあった。以前は復習の部分だけ講義をお願いしていたが、急用で講義を欠席せねばならない時は時雨君に講義の代行をお願いしていた。その学期の講義では時雨君と呼んだおかげか勘違いする生徒がいなくなり、以前の学期よりも講義の効率が上がった気がした。期末に大量に提出されるレポートの嵐も、3年目の時雨君にサポートをお願いすると早い段階で評価が付けられるようになっていた。
この3年間で彼女は確実に成長し、もう自らこの学校の教授になってもよいほどの資質になっていた。そんな彼女の成長に驚かされながら、私の20代最後の学期が終了した。
ちなみに、この年だけである。私と時雨君のどちらも雨井の誕生日プレゼントをすっかり忘れていたのは。
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