冱露木潤

 亜心大学教授に就職した際、同じタイミングで私と同じ年齢で教授になった男がいる。彼の名前は冱露木潤(こおろぎじゅん)。この名前を見ると、私が初めて彼に発した言葉がなにか、薄々見当がつくだろう。


「おまえ、私と同じか?」


「ん?まぁな。

 お互いこんなに早く人間の上に立つ仕事をするなんて、想像もつかねぇよなぁ。

 お前、確か民族系の教授だよな? 俺、数学教授!

 まぁ、分野は違うけどよ、同じ歳で同じタイミングで教授になったんだ、

 仲良くしような!」


一見、噛み合っているように見えるが、実は彼はれっきとした人間であり、後に分かったことだが、この名前はどうやら彼のコンプレックスの一つのようだ。「冱える露わとなる木」と書いて冱露木だが、試験の名前の欄や、申請書類の名前の記入欄ではしばしば自分が何者なのかわからなくなるそうで、カタカナ記入だと余計に混乱するそうだ。


 彼の才能についてだが、見かけは単なるチャラ男で、髪は茶髪、大学指定の白衣をまとう以外は、教授らしい服装ではない。しかしそれでも律儀に白衣をまとうのは、単に白衣をまとってる自分が、出来る教授みたいでかっこいいからである。


一見バカのようにも見えるが、数学に関してはどの人間にも負けない才能が、残念ながらある。それは、彼が大学に実績を証明するものとして提出した、大量のチラシである。


しかし、それらはただのチラシではなく、裏にフェルマーの最終定理の解法が記載されていた。大学側がこれをれっきとした論文として提出すよう求めると、


「あぁ、やっぱ書かなきゃダメっすか?

 いやそれね? 高校の時にテレビ見ながら解いたやつなんですよ。

 ほら、あるじゃないですか、難しめのやつ解いたら賞金もらえる本。


俺そのとき丁度原付が欲しくて、

まぁ解けりゃあいいなぁとか思いつつ解いてたら、

なんか解けちゃったんすよね。


でも、全部チラシの裏に書いてたから、

今更これちゃんと清書して送るのもなんだなぁと思って、

結局バイトでお金貯めて買っちゃったんですけどね。


でもまぁ一応あとから検索したらぜってぇ解けねぇみたいなこと書いてたんで、

実績? かなぁと思って持ってきたんっすけど……」


と、何とも癪に障るトーンで衝撃の事実を暴露したそうだ。


この男の変わっているところはこれだけではない。この男は、人間の次に数学が好きである。ここまではいいのだ(良くはないが)。しかし、彼の愛する数学とは、定理あるいは公式だけあり、数字そのものには別段興味はないようだ。


現にこの男の数学における最も魅力的な記号は、πだそうだ。理由は様々あるらしい。3.14と続いてゆく割り切れないもどかしさと、しかし時には3とだけしか現れない小悪魔気質を併せ持ち、なにより、これは小学生がよく持ちそうな感想だが、読み方である「パイ」という響きが何とも胸をくすぐるのだそうだ。πの話だけで2日は余裕だと言われ、茶化してみたところ4日間ほどπの魅力を語られた私が言うのだ。彼は本当のπ好きである。


しかし、かといって人間の女性に興味がないのかといえば、当然πよりある。それも、彼は大学内では無類の女好きとして知られるほどなのである。大学で開かれるコンパには大半出席しており、参加した学生よりも多く女学生をゲットするという残念な才能もある。だが彼の本命のコンパは、実は彼主催で行われており、しかも2対2の少数コンパなのだ。残りの一人は誰か、もちろん私である。


私が人間の女にほとんど興味がないことを知っている冱露木は、うまく私と彼の性格のギャップを使い、女を落とすのだ。はじめは「まぁいい、付き合ってやろう」という気持ちだけであったが、そのうち冱露木がろくでもない女と付き合えば、ろくでもない子供が生まれ、ろくでもない人生を歩み、ろくでもない社会になってしまうと考えた私は、冱露木主催のコンパに出席する女によって自分のテンションを多少上下させる能力を身に着けた。しかし、肝心の冱露木はよりにって毎度毎度ふしだらな女と付き合おうとしていた。


 さて、彼の大学内での様子だが、どうやら教授としての冱露木潤は評判が良いらしい。元々数学が0点しか取れていなかった生徒が、彼の講義を受けた後は計算だけで家一つを立てるほどの職に就いたらしい。どのような講義内容かは具体的に聞いたことはないし、そもそも興味を持とうとも思わなかったのだが、生徒からの情報によると、声やしゃべり方が程よく知的快楽を刺激し、板書は全くせず、話す内容を生徒にノートに写させるだけで、あとは自分で用意された問題を解くだけらしい。


一見変わった授業のようにも見えるが、私が想像するに、きっと知的快楽を刺激する声とは、目の前にいる女子生徒を口説いている声であり、板書を全くしないのは「書く」という作業が嫌いなだけ。用意した問題も、おそらくきっと自作のものではなく、私が作ったものだろう。というのも、冱露木とはよく昼食を共にするのだが、その際に彼に


「なぁ、媛遥、この分野で俺が解けなさそうな問題作ってみろ。

 もし解けなかったら、何でも好きな物買ってやるよ」


と、よく賭けを吹っ掛けられるのだ。仕方がなく付き合っていた私の問題を冱露木は一日かけて解いてくるが、おそらく1日もかかってはおらず、コピー・印刷に時間がかかっているのだろう。


忌々しいやつめ。


毎回きれいに全問正解しおって、忌々しいやつめ。


たまに問題を訂正してくることもある。忌々しいやつめ。


 そんな冱露木のプライベートだが、なんと驚いたことにあの数学変質者にはちゃんとした嫁がいる。「ちゃんとした嫁」というのは何もれっきとした人間の女であるということではなく、世に言う「できた嫁」なのだ。私はその嫁と今でもしばしば会うが、毎回冱露木についての悩みはないか聞くと、


「あぁ、大丈夫ですよ岩崎さん。

 そんなに心配しなくても、あの人は大丈夫です。

 それに私は、彼が私を嫁にもらってくれただけで幸せですから」


と、毎度この答えを返してくる。聞くたびにつくづく感心するが、出会いを知っているだけにこの人はそれでいいのかと毎回疑問に思ってしまう。


二人の出会いは何を隠そう、冱露木の趣味である合コンなのだ。もちろん、冱露木主催のものである。しかし、私はこの二人の結婚を不思議に思ったのは、その合コンで冱露木とその女はほとんど会話をしておらず、むしろもうもう一人の女性と冱露木は主に会話をしていたのだ。どうして彼女なのかと聞くと、冱露木は少し真面目な顔でこう答えた。


「なんかわかんねぇけどよ。初めてだったんだ。

 話すのが恥ずかしくなる女って。

 んでさ、普通そういうのって、

 なんとなく付き合いたくはならねぇじゃん?

 でも、あの人だけは不思議に、もっと話してみたいと思ったんだ。

 付き合えるかどうか関係なしにさ。

 わかんねぇよ? 理由はわかんねぇけどさ、

 なんか、他の男に取られたくねぇなぁって、思ったんだ」


意外と真摯なとこがあるじゃないか。


「まぁ、俺の好きなπもあるしな!」


前言撤回。


と、このように二人は出会ったわけだが、冱露木の合コンは未だに続いている。一見理解しがたい行動ではあるが、合コンはあくまで冱露木にとっては趣味なのだ。私ももうあきらめているし、この男のできた嫁はなんとそれを理解してくれている。まったく涙の出る話である。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る