杉下時雨
私が教授としてこの大学で働いている際、何人もの学生が助手として私の下についた。この大学では助手はアルバイト制であり、それ相応の資格と実績もしくはレポートを大学側に提出し、認可が下りると、正助手として採用される。彼女、杉下時雨(すぎした しぐれ)はその中で正助手として私の下で働いている……のだが、これにも少々長い話がある。
彼女が私の元に現れたのは、この大学に赴任して2年経った頃だ。もともと彼女は言語学を専攻しており、私の人類学はたまたま単位の都合上でとっただけなのだが、私が助手を募集していることを講義内で聞き、応募したそうだ。
この大学で助手のアルバイトを応募する人間は多く、その大半の理由が給料である。一般的なコンビニエンスストアやその他サービス業での給料とはかなりの差があり、1ヶ月の給料で3人家族がなんとか養える程だ。
しかし、彼女が応募した理由は、言語を活かせる職に就きたいからだそうだ。
私の助手に求める業務内容は、授業の補助と、資料の注文、そして通訳だ。大概の学生は授業の補助まではやってくれるのだが、残りの二つの業務を体験しただけで泣きながら帰ってしまう。
というのも、私の言う資料集めと通訳は、英語圏のものだけではなく、全世界のものなのだ。その中には当然英語や中国語はもちろん、フランス語ロシア語、チェコ語や、それこそ未知の言語のものまで扱う。資料代は大学の補助金と私の給料で賄っているが、リアルタイムで最新の書物が欲しい私にとって、世界各国の言語に精通していることが助手に求める資質であり、これは当然通訳でも同じことが言える。
そこで彼女、杉下時雨という女性の能力が発揮される。彼女のいわゆる『天才』は、あらゆる言語に精通しすぎている点である。英語はスラングや一部地域でしか使われていない方言まで網羅し、その他の国の言葉も母語話者のように話せる。未知の言語と出会ったとしても、1週間もすればペラペラに話せてしまう。当然、書く・聞く・読むといったことも完璧にできてしまう。
そんな彼女を、一部生徒の間では『無限母語話者』と表現している。そんな彼女の才能もあり、私は教授としての業務をそつなくこなすことができていた。
しかし、彼女はある日こんなことを聞いてきた。
「教授、そういえば助手の正式採用って、どうなってるんですか?
私もうアルバイトして1年目なんですけど、このまま昇格とかですかね?」
実は、私も正式に助手を採用するための手順や手続きについては知らずにいた。今までのアルバイトが3週間ほどでやめてしまっていたため、覚える必要もなかったのだ。そこで私は早速理事長に聞いてみることにした。
「迷子」
「いやぁ、先生どうですか最近の研究の進み具合は?
論文の提出来週までですよ、守ってくださいね~。
おや、時雨君も、こんにちは」
「あ、理事長、こんにちは!
いきなりで申し訳ないんですけど、
助手の正式採用ってどう申請すればいいんですか?」
「あぁ、正式採用ね。
何? 時雨君この人の助手として正式に働きたいの?」
「はい! アルバイトのままでも生活には困らないのですが、
やはり仕事として自分の能力を活かせる現場に居たいのと、
あと、ここの正式な助手としてのお給料なら将来両親にも孝行できるかなって」
「あぁもうなんと素晴らしい健全な精神か!
どこぞのすぐ誰かを頼る虫けらとは違いますね!」
そういうと理事長は一瞬チラっと私を睨み、私が睨み返すとすぐに目線をそらした。
理事長の説明によると、助手として正式に採用されるには、まず書類による厳正な審査の後、2つある試験を突破せねばならないらしい。
一つはその着任先の教授による試験、もう一つが理事長へ提出する論文だそうだ。教授による試験についてはどんな問題を作ってもよいとのことだったので、冗談半分に私はとても難しい問題を作る気でいた。
「で、論文というのは、どんな物を書けばいいのでしょうか?」
「はい。これもまたあなたの得意分野で結構でございます。
しかし、私もこの学校の理事長ですから、
今まで数々の天才の論文を拝読してきました。
なので、ノルマとしては、それらを覆せるようなあっと驚く論文を、
そうですねぇ……文庫本1冊分くらい書いていただければ面白いですかね」
こいつもまた冗談半分にハードルを上げたようだ。しかし、肝心の彼女の反応はというと、こちらが半ばぎくりとするほど単純な答えだった。
「はい、わかりました! じゃあ書いてきますね!」
そういうと時雨君はルンルンとどこかへ消え去ってしまった。
「いやぁ、なんとも良い生徒ですね……。
それに比べて媛遥さん! あなたね!
いくらなんでもこの場で私を呼び出そうとしなくてもいいじゃないですか!」
「あぁ、すまん。ついいつもの癖でな。
ところで、あの子はどうだ、受かる気配はあるのか?」
「ん~どうでしょう?
資格や実績については多分問題ないというか、むしろ役不足というか……
あとは試験次第ですね。
そういうあなたは? 採用させたいんですか?」
「いや、助手として正式に採用させるのなら、
やはりそれ相応の試験は作らねばならんと思う。
本気で作っていいんだな?」
「いいと思いますよ。
彼女、素質あるでしょうし、きっと合格しますよ」
その言葉にささやかな苛立ちを感じた私は、雨井の服に食べ終えたみたらし団子の串を貼り付け、試験作成に取り掛かった。今思えば、あれほど一生懸命に教授としての職務を務めたのは、他になかったのではないかと思う。
問題は私が講義で言ったか言っていないか、取り扱っているかも怪しい物から、新分野のものまでを様々な言語に翻訳して作成した。中には言語を指定して小論文を書かせる問題まで作成した。ためしに冱露木と雨井に解かせてみたところ、冱露木は
「それよりコンパに行こう」
と問題を投げだし、雨井は笑っていた。
よし、これなら彼女にとってもきっと難しいはず。
試験は90分、さぁ、かかってこい。
「はい!なかなか手ごたえありました! 採点お願いします!」
50分経過したのち笑顔で提出してきた彼女を見て、私は全てを察した。
ちょうどこの時だ。私が初めて敗北の意味を体感したのは。さて、こうなってくると肝心の理事長の方も心配だ。どうやら試験を受けるより前にもうすでに提出したらしい。私は2日かけて試験を採点したのち、理事長の元へ向かった。そこには笑いながら泣いている麻鬼教授の姿があった。
「理事長、杉下君の助手採用試験の採点終わりました。
十分採用に値する点数であったことを報告します」
「あぁ、媛遥君? ご苦労様!
見て、これ。
もう読むのに1週間かかってるんだけど、
どれだけ頑張ってもまだ3分の一も読めないの!
あっはっは!」
どうやら最近発見された民族の文化や生活を、その民族の文字を打てるプログラムを作成・使用し制作されたらしい。
数週間が経った後、腰に白衣を巻きつけた時雨君が研究室に入ってくるなり私に正式採用通知書を見せつけてきた。そこには、雨井の理事長としての名前と判が、一部歪んで記入されていた。こうして彼女、杉下時雨は私の助手として正式に働くようになったのだ。
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