シャボン玉は風に揺られて
宮倉このは
シャボン玉は風に揺られて
あの時も、こんな風が吹いていた。
優しく、けれど遠慮がちな。
温かく、けれど触れてはすぐに離れていく。
そんな風が――。
ススキが、緩やかに凪いでいる。さわさわという音が、小気味よく私の耳に響いた。目を閉じると、まるで海にいるようだ。
そう、誰もいない海。海岸で一人、誰にも邪魔されることなく寄せては返す波をただただ見つめている。
私は人っ子一人いない海が好きだ。子供のようだと言われるかも知れないが、地平線の向こうまで延々と続いている広大な青い平原を独り占めしてしている気がして、嬉しいのだ。
「お祖父さん、ここで良いんですか?」
耳元に声をかけられて、私は目を開ける。
途端に、今度は黄金色の海が視界いっぱいに広がった。
ススキが、優しく温かい風に吹かれて右に左に頭を振っている。寄り添ったり、離れたりして。
広大な黄金色の海に立っている立派な大木の下に、私はいた。緑の大きな手で、私達を直射日光から優しく守ってくれている。
その隙間から漏れてくる日差しは、まるで星の欠片のようだった。
「あぁ……ありがとう」
車椅子を押してくれていた孫に礼を言って、私は手すりに掛けていた荷物の中から小さなプラスチックの瓶と、ストローを取り出した。
瓶の蓋を開けてストローをその中に浸して取り出すと、そっと息を吹きかける。薄い石けん水の膜が球体になり、虹のように七色をまとってゆっくりと離れていった。
私は無言で何度も何度も、小さな玉を作り出しては空へと放つ。だが、柔らかく脆いそれらは風に揺られて空へ舞ったと同時にぱちんと音を立てて消えてしまった。
すると、やはり何も言わずにそれを見つめていた孫がぽつりと言った。
「シャボン玉ですか……僕はあまり好きじゃないな」
「おや。どうしてだい?」
孫は今年でちょうど二十歳になる。大学へ通う傍ら、時折私の所へ来てくれていた。
そう言えば小さい頃から、彼がシャボン玉を作っている所を見た事がない。父親が何度か作って見せた事はあったが、その度に眉間に皺を寄せて俯いてしまうのだ。
今もまた、その頃と同じ表情をしてポケットに手を突っ込んでいる。そうしていると、まるでふて腐れているようだ。
「だって、すぐに消えちゃうじゃないですか。何だか、母の事を思い出してしまうんです」
「あぁ……そうか」
孫の母親――私の娘は、孫を生んですぐに死んでしまった。もともと、あまり丈夫な娘ではなかったのだ。子供を産むのも難しいかも知れないと、医者に言われ続けていた。
それでも、彼女は子供の誕生を願った。もしかしたら、自分にはあまり時間が残されていないと悟っていたのかも知れない。だからせめて、自分が生きた証を残したかったのかも知れない。
「私も、シャボン玉は嫌いだったよ。お前と同じ理由でね」
「今は、好きなんですか?」
「あぁ。昔ここで会った、女の子のお陰でね」
「女の子……?」
私は頷いて、再びストローを石けん水の中に浸した。
淡い七色をまとった小さな宝石たちは、ゆらゆらと不安定に、しかし風に乗って空へ舞い上がる。
そして、透明な飛沫をまき散らして……消えた。
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ちょうど、この場所だった。今と同じように、ここを訪れる人間に優しく大きな緑の手をかざしてくれている大木の下。娘を亡くして意気消沈していた私は、少しでも心が穏やかになれる場所を探してさまよい歩いている時に、ここを見つけた。
そして、一人シャボン玉を作っている少女に出会ったのだ。
真っ白なワンピースと、少しクセのある黒い髪。柔らかい風がそれらをふわりと綿でも舞上げるかのように撫でていた。
黄金色の広大なススキの海に、彼女のその姿はとても生えていた。特に腰の辺りまでのばされた漆黒の髪は、真逆の色だけに余計私の目に焼き付いて離れなかった。
だがさらに私を釘付けにしたのは。
夜の海のように潤んだ、大きな瞳だった。
ススキ野原に呆然とたたずんでいた私を見て一瞬驚いたように目を開いたが、その後すたすたと私の所へ近づいてきたのだ。
「おじさんも、シャボン玉作りに来たの?」
それが、彼女の第一声だった。
私はそれに答える事が出来なかった。いきなり何を言い出すのだろうという驚きと、黒い瞳に見とれてしまっていたためだった。
その位、少女の瞳は澄んでいた。まるで、底が見えるほどの湖のようだった。大きな黒い真珠に映る私は、目を見開いたまま一歩も動く事が出来ないでいた。
だが少女はそんな私を気にもせずに、手に持っていたプラスチックの小さな瓶とストローで、シャボン玉を作り始めた。
七色をまとった小さなシャボン玉は、風に乗ってふるふると震えながら空へ舞い上がり。
そして……消えた。
私は思わず、その光景から目を反らした。
「止めてくれ!」
「え?」
生まれてすぐに儚く消えていくシャボン玉に、若くして死んでしまった娘を重ねてしまい、私は少女に叱咤していた。
少女はもちろん、何の事だか分からずにきょとんと目を見開いている。その黒い目がいきなり大声を出した私に対して、少し怯えていた。
すぐに後悔した。これでは少女に当たっているようではないか。彼女には何の咎もないというのに。
私は自分を落ち着かせるようと深呼吸を2、3度繰り返した。
「すまない。シャボン玉は、あまり好きじゃないんだ」
「あ、そうなんだ。……ごめんなさい」
少し残念そうに俯く少女を、私は見下ろした。
顔は全然似ていなかったが、優しい風のような雰囲気はどことなく娘に似ていた。
「娘を、思い出すんだ」
お父さん。私、どうしても産みたいの。
身体に負担がかかるのは分かってる。でも、そんなの他のお母さん達だって同じでしょう?
命を落とすかも知れないんだぞ。そう言っていくら反対しても、娘は頑として聞き入れなかった。静かに、天からの迎えを待っているだけだった娘が、その穏やかだったはずの目が、熱いくらいに真剣だった。
この子に、こんな感情があるなんて知らなかった。
己の子を、最後まで守り抜きたい。無事にこの世に誕生させてやりたい。母親になるというのは、女性の中の何かを変えるものなのかも知れない。
私は、それ以上何も言う事が出来なかった。
「娘は子供を産んだ後すぐに、死んだ。心の隅の方で覚悟はしていたが、やはりショックは大きかったよ」
この子は、親の私よりも早くに天国へ行かなければならない。長くは生きられないと医者に言われ続けていたから、心の準備だけはしておかなければならないと思っていた。
けれど彼女が成長していくたびに、もう少しだけと願い続けている自分にも気づいていた。
「空に飛んで消えていくシャボン玉を見る度に、早くに天へと昇っていった娘を思い出すんだ」
「……………」
見た目は17、8といったところか。年頃の少女に、この話は重すぎたか。下唇をかみしめて俯いてしまった。
だが。
「おじさん。消えたんじゃないよ」
「……なに?」
ぽつりと小さな声で言った少女。彼女は地面を見つめていた目を、まっすぐ私に向けた。傍の大木から漏れる太陽の光が、少女の黒く濡れた瞳を眩しく輝かせていた。
「シャボン玉も、おじさんの娘さんも、消えたんじゃない。また生まれてくる為の準備をしてるんだよ」
「え?」
「今は、消えちゃったかも知れないけど……けれど、ただ消えたんじゃない。それで終わりじゃない。またおじさんに会う為に、天国で準備してるんだよ」
そう言って少女は、再びシャボン玉を作り出した。
たくさん、たくさん。
小さなシャボン玉は消えてもまた、少女によって生み出される。ふわふわと風に乗って、気持ちよさそうに漂っていた。
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「消えたんじゃない。また、生まれてくる為に……か」
あの時の少女のようにぽつりと呟いた孫に、私は頷いた。
「その言葉を聞いた時から、消えていくのを見るのが辛かったシャボン玉が、希望の光のように見えるようになったよ」
私の作ったシャボン玉は、あの時と同じように風に乗せられて空へと昇っていく。
生まれて……そして、消えていく。それはシャボン玉も人も同じ。
けれどまた、生まれてくる事が出来る。そう信じていれば、娘にも再び会える時がくるような気がした。
それに気づかせてくれたのは、あの少女だった。
「そう言えば、お祖父さん。その時の女の子、一体誰だったんですか? 名前とか、聞かなかったんですか?」
「さてね。シャボン玉に見とれているうちに、どこかへ行ってしまったよ」
「えぇっ?」
本当だ。空とシャボン玉を見上げている私を置いて、いつの間にかいなくなってしまった。
彼女は一体何者だったのだろうか。不思議な少女だった。もしかしたら、落ち込んでいる私を心配して、娘が姿を変えて会いに来てくれたのかも知れないと思った。
もしくは、私を案じてくれた優しい風の、化身かも知れない。
「まあ、そんな事は良いじゃないか。それよりどうだい? お前も」
私は袋の中からもう一つプラスティックの瓶とストローを取り出して、孫に差し出した。彼は少し逡巡した様子を見せたが、やがて口元に笑みを浮かべると私の手の中の物を受け取った。
孫と私、二人分のシャボン玉はゆっくりと空へ昇っていった。ふわふわと、七色をまとって。
娘も今頃、見ていてくれているのだろうか。
優しく、温かい風に吹かれて。
あの少女も、シャボン玉を空へと飛ばしているのだろうか。
シャボン玉は風に揺られて 宮倉このは @miyakura
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