第五話 Ground zero-グラウンド・ゼロ-

 数週間後。

 僕はアメリカ本土の空の下、ニューヨークの街の一角に立っていた。

 平日昼間でもニューヨークの通りは人が多く、僕はその間を縫うようにして歩く。


 スレイドが殺されたあと、僕はケイトリー捜査官を含めた数名のNCISメンバーと共にアメリカに帰ってきた。

 輸送機に乗せられている間、僕はまるで死人のように何も喋ることはなく、食事も睡眠もろくにとることをしなかった。

 その時の僕の心を覆っていたのは、何かがぽっかりと抜け落ちたようなひどく空虚でな気持ちだ。


 捜査対象スレイドに入れ込んでいたわけでも、家族のように慕っていたわけでもない。

 なのに彼が死んだ時、まるで自分の半身がいなくなったように悲しかったし、彼が撃たれたのと同じところが痛んだ。


 アメリカに帰ってNCISの本部に招かれると、見ず知らずの職員たちが拍手で出迎えてくれた。いつの間にか、僕はスレイドを片付けた英雄として扱われてしまっているらしい。

 それから僕はケイトリー捜査官立ち会いのもと、NCIS局長と面会し、NCISで働かないかとスカウトを受けたが、とりあえずしばらくは休ませてほしいと返事は保留にしていまこの場にいた。


 信号が青になったウェストストリートを渡って目的の場所に足を踏み入れる。

 僕はこの短い余暇の間、ずっとこの場所に通い続けていた。それこそ敬虔なクリスチャンが教会に行くように。


 しかしその理由をいくら考えても、何故自分がそこに行きたがるのかは分からない。

 でも一種の使命感のようなものが僕をその場に向かわせていた。


 まばらに植えられた木々の間を抜ける。

 すると突然視界が開け、巨大な黒い四角形の穴が現れた。

 穴は二つあって、穴の端からは水が下へと流れ落ちている。


 グラウンド・ゼロ――僕の父が狂い、スレイドの最愛の人が消えた場所。


 あの日、二つのノッポのビルが立っていた場所であり、数千人もの命を飲み込んで地獄と化した場所は、今では四角形の大きな池となり、周りを囲いながら空の青さを映し出す黒い石材には9.11の犠牲者たちの名がびっしりと書かれている。


 その二つのメモリアルの間にミュージアムへの入り口であるパビリオンが建てられていて、その周囲には消えたノッポのビルの名を継いだ新たな七つのビルが跡地を守護するように立っていた。


 その光景を見ただけで、僕には消えた二つのビルとそこにいたであろう犠牲者たちの姿を幻視できるような気分になる。

 直接誰かをここで失った訳でもないのに、無意識に手で押さえてしまうくらい胸が痛んだ。

 だがこの痛みは受け入れられなければならないものだ。僕はを一人で逝かせてしまったのだから。

 そう自分に言い聞かせながら、僕はミュージアムへと入る。


 日参しているせいで受付の従業員は僕に愛想よく笑みを見せてくれたが、正直、彼女に苦笑いにも見える笑顔を振る舞うのが精一杯だった。


 ミュージアムの内部には複数の客がいたが、誰もが皆黙って、壁に設置された当時の写真やショーケースに入れられたビルの残骸や犠牲者の遺品を眺めている。

 僕はこの数週間の間に見慣れた写真や遺品の数々を食い入るようにじっと見つめていく。


 そして前半分が焼け焦げた消防車やビルの一部だった鉄の塊たちの後を通り過ぎて、僕はある展示物の前に行き着いた。

 それは金属で出来た十字架で、赤茶色の十字架の左側には銀色の何かが張り付いている。


 この鉄骨の十字架はあの惨劇の跡地から偶然見つかったもので、この跡地や近くの教会など移転されながら最終的にここにたどり着いたものだ。

 左についている銀色のものは消防士の耐火服の一部で、あまりの高熱に溶けて癒着したと解説には書かれている。


 父も絶望的な目の前の惨状に救いを求めてこの鉄骨の十字架を眺め、祈りを捧げたのだろうか。


 そう思うと痛んでいた胸の感情が溢れ出し、それは涙となって自然に頬を伝う。溢れる涙を拭くこともせず、僕は同時に理解する。


 確かに僕は直接誰かを失ったわけではない。でも僕もここで失ったのだ。父親という存在を。


 あの時。幼い僕の目の前で銃を自らの顎に突きつけて死んだのは父ではない。父の形をした、ただの抜け殻のようなものだ。

 僕の目の前で死んだ父はこの場所に置いて一足先に逝ってしまった自分の魂を後追いしただけで、あの明るくて、揺るがない強さを持っていた本当の父はとっくにこのグラウンドゼロで死んだのだ。

 そして


 そのことを意識する、同時に頭の中に少女のような可憐な笑顔を見せる女性の姿が浮かぶ。


 殺される寸前、スレイドは言った。

 僕が私の意思を継ぐ後継者であり、僕の奥底には私が宿っていると。

 ではさっきから頭をよぎる彼女こそが彼の死んだ妻なのだろうか。

 僕の中に彼がいるから心がこんなに痛いのか。


 スレイドは僕に同調して死んだ。精神の混じりあった状態で彼が死んだ時、僕という人間の一部も共に死んだ。


 じゃあここにいるのは誰だ?

 スレイドでも、元の僕自身でもない。


 僕は何に対して涙を流しているのだ?

 自分自身が分からなくなる僕は、救いを求めるように十字架を見上げる。


 そして気づく。


 いまここで僕が涙を流しているのは間接的な犠牲者である父の死を悲しんでいる訳でも、頭にちらつく名前も知らない彼女という個人の死を悲しんでいるからではない。

 そうだ。僕はこの悲劇そのものと、この悲劇を知らない人々が悲しいのだ。


 彼らは知るべきなのだ。

 悲しみを。苦痛を。その先の虚無を。


 十字架の前で人目も憚らずに跪く。

 これは他の誰でもない。意思だ。

 例えこの身と意思がなくなろうとも、この悲しみを世界に伝えることを犠牲になった死者彼らに誓おう。


 そう心の中で自らに告げ、私は十字架に祈りを捧げた。

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