三章  迷子之天女、酒興す。

 立派な門構えの丞福酒造――。


「ここが目的地みたいね」


「そ、そ、そうだね……」


 やっとのていで力なく答える一樹。


「どうしたの? なんか急に老け込んだような、いやに疲れきった表情をしているけど」


 そう見えるとしたら、それは全部きみのせいだよ。


 一樹は言った。もちろん、少女には聞こえない心の中だけで。実際に声にしたのは――。


「心配しなくても大丈夫だから。ぼくは昔からこういう体質なんだ……はは、ははは……」


「そう、変な体質ね。下の世界の人間って、随分と変わっているのね」


 いやいや、変わっているのはきみの方だろう。


 一樹は反論した。むろん、心の中だけで。


 だいたい、さっきのアレはなんだったんだよ。

 

 一樹はさきほど見た衝撃的な光景を頭の中で思い返した。

 少女は男を拳一発で5メートル近く吹っ飛ばしたのだ。男は泡を吹いて気絶してしまった。さらに、男の乗っていた車を拳と足蹴りだけで、廃車寸前になるくらいまでめちゃくちゃにぶち壊してしまった。もはやそれは車というよりは、鉄の塊にしか見えなかった。

 一樹はその場で身震いをしたほどだった。それほどまでの空恐ろしい光景だったのだ。

 そのあとも凄かった。

 道すがらに、喉が渇いたと言っては、自動販売機を拳で壊そうとする少女。仕方なく、一樹は自腹でジュースを買ってあげた。

 朝練の途中と思われるランニングをしていた柔道部の集団に対して、本気で戦いを挑もうとする少女。さきほど気絶させた男との勝負があまりにも簡単についてしまったため、物足りなかったらしい。一樹はその場で土下座をして、必死に柔道部の集団に謝った。

 歩きタバコをしていたサラリーマンに対して、あざやかな旋風脚で口元のタバコを蹴り飛ばす少女。香木の香りは好きらしいが、タバコの煙はお気に召さなかったらしい。一樹は少女の手を引っ張って、その場から逃走をした。

 そして極めつけは、赤信号を無視して交差点に進入してきて、横断歩道を渡っていた小学生を轢きそうになったバイクに向かって、鮮やかな跳び蹴りを一発お見舞いすると、さらに路上に倒れたバイクのハンドルを両手で握り、ジャイアントスイングで豪快に電柱に叩きつけるという荒業を見せた少女。一樹はこっそりと逃げようとしたが、走って追いかけてきた少女に捕まり、今に至る。

 とにかく丞福酒造にたどり着くまでの短い間に、これだけのトラブルがあったのだ。これで疲れない方がおかしいというものだ。だが、とりあえず道案内は終わった。この少女ともようやく離れられる。


「じゃ、ぼくはここで。学校に行かないとならないから」


「そう。ありがとう。おまえのおかげで助かったわ」


 おれはきみのおかげで助からなかったけどね。


 当然、心の中の声である。


「困っている人を見かけたら助けるのは当たり前だからね」

 

 最後は心にもない爽やかな言葉を言い残して、一樹は学校に向かって歩き出した。


 今度という今度こそは、本当にこの歩く人間凶器から逃げられるぞ。

 

 一樹は目に涙を浮かべて、そう思った。

 だが、幸運の女神様は一樹に微笑んではくれなかった。運命という大きな時のうねりは、一樹を再び困難の中へ押し戻したのである。

 丞福酒造の玄関から中に入っていったはずの少女が、外に飛び出してきたのだ。


「ねえ、待ってくれる」


 びくっと立ち止まる一樹。


 これって、空耳だよな。うん、きっとこれは空耳に違いない。そうだ、おれはこの上なく疲れているから、聞こえるはずもない声が聞こえるんだ。

 ほら、今おれの肩に手をのせて、力付くで強引に後ろに振り向かせようとしているのも、きっとまやかしかさ。

 たとえ、そのまやかしの力にあらがえなくて振り向いてしまったおれの目の前に、さきほどの中華服の少女が立っていたとしても、これは夢に過ぎないんだ。そうさ、悪夢なんだ。現実では決してないんだ。


「ちょっとした問題が発生しちゃったわ」


 夢の中の少女が言った。


「せっかくここまで来たんだけど、肝心のアタシが捜している妹が、学校に行っちゃっているらしいの。今すぐ学校に向かってもいいんだけど、ここの家の人がすごい親切で、アタシが姉だって言ったら、少し休んでいったらって言ってくれたの。アタシも崑崙からの長旅で疲れているし、なんでもこの家のお酒までごちそうしてくれるらしいの。でも、お酒ってひとりで飲んでも楽しくないでしょ? だから道案内してもらった御礼の意味もこめて、おまえと一緒に飲もうかと思ったの」


「あの、ぼく、まだ十六歳なんですが――」


「なんで急に年齢のことを言い出すの?」


「この世界には飲酒に関する法律がありまして――」


「つまり、アタシからのお酒の誘いを断るわけなの?」


 少女はにっこりと微笑んでいる。こんなに怖い笑みを見たのは、生まれて初めてだった。もしも、少女の申し出を断ろうものならば――。


 そう、おれは今という瞬間まで『貴方』の存在を信じていた。でも、それも今日で終わりだ。人生というのは、日々新たな発見に満ちているのだ。たとえそれが悲しい発見だとしてもね。おれは十六歳にして悟ったのだ。この世に『貴方』――神様なんかはいないとね。この世にいるのは、可愛い女の子の姿をした悪魔だけなのさ。


「はは、ははは……も、も、もちろん、きみのお誘いを……断るわけなんかないですよ……はは、ははは……」


 一切の表情が抜け落ちた顔でうつろに笑う一樹は、少女に引きずられるまま丞福酒造の玄関をくぐっていった。それはまさに、地獄の門をくぐるのに等しいことであった。

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