二章  迷子之天女、舞い降る。

 沼図駅の北口前にその少女は勇ましく立っていた。ちょうど学校の登校時間に重なっているため、駅から制服姿の少年少女たちが次々に出てくる。その大半の者がいったん足を止めて、その少女に好奇の目を向ける。平たく言うと、その少女は目立っていたのだ。いや、異質であるといった方が適切だろうか。

 ショートカットに切り揃えた髪といい、色白の肌といい、力を感じさせる鋭い瞳といい、掛け値なしの抜群の美少女といっても過言ではなかった。

 しかし、皆の視線を集めているのは、その美貌だけではなかった。その少女の奇抜な服装にこそ、むしろ視線は集中しているといってよかった。

 漆黒の生地に、金銀の華麗な刺繍が施された中華風の衣装。

 今の日本では日常生活の場において、まずはお目にかかれない服装である。その特殊性ゆえか、少女の美貌に目を奪われる男子高校生たちも、声を掛けるまでにはいたらずに、遠くから眺めるだけであった。

 そうしている間にも人の数は膨れ上がっていき、今や駅前は大混乱、大渋滞といった有様である。

 一方、ことの張本人はといえば、周囲の喧騒を一切気にすることなく、なにやら手に持った紙切れを見つめたまま、ぶつぶつとひとりつぶやいている。

 そんな非現実的な空間に果敢にも侵入を試みる愚か者――もとい、勇気ある少年がいた。茶髪のいかにも今風といった感じの少年だ。

 

「周りの連中は見て見ぬ振りかよ。どうやらここは、おれの出番らしいな。」


「おい、一樹かずき。やめといた方がいいぞ」


 ゆっくりと少女に歩み寄っていこうとする少年の背中に、連れの少年が声を掛ける。こちらは銀縁の眼鏡を掛けた、真面目そうなタイプである。


「なんでだよ、せっかく美少女と仲良くなれるチャンスじゃないか?」


「チャンスっていうけど、あの格好を見てみろよ。どう考えても尋常じゃないぜ」


「おい、比呂夢ひろむ、おれは親友として悲しいぞ。おまえは人を見た目や格好だけで判断するのか?」


「いや、そういうわけじゃないけどさ……」


 口ごもる比呂夢。


「先生だって言ってただろう。困っている人を見かけたら、率先して手助けするようにって」


「それはそうだけど……。ていうか、あの子、困っているのか?」


「当然だろう。きっと中国からこの沼図市の高校にやってきた留学生なんだよ。でも、学校までの行き方が分からずに、ここで途方にくれている純情な子なんだよ」


 一樹はなぜかあさっての方にまぶしげな視線を向けながら、夢見るような表情を浮かべている。


「途方にね……。おれの目には、単に道に迷ってイライラしているようにしか見えないけどな」


「ふん、なんとでも言えばいいさ。おれはこのチャンスをモノにしてみせるからな。あとで紹介してくれとか言っても紹介しないぞ」


「おまえの方こそ声をかけたことを、あとで後悔するなよ」


「ありがたい忠告だけど、おれはあとで後悔するよりは、今行動を起こすタイプなんでな」


 一樹は少女のそばまで歩み寄る。


「あの、もしもお困りのようでしたら――」


「あっ、ちょうど良かった。道に迷ってイライラしていたところなのよ」


 少女の方から話を切り出し始めた。


「なんだかこの地図だと、今目の前に建っているビルのことが書いてないのよ。いったいどうなっているの? まったく不親切なんだから。でね、アタシも少し頭を働かせてみたんだけど、どうも母さんが持たせてくれた地図が、少し古いものみたいってことに気が付いたの」


「古いって、どれくらいかな?」


 一樹はようやく話に口をはさめた。


「そうね、たぶん、二百年くらい前のものだと思うんだけど」


「二百年っ!」


「うちの母さんも、崑崙のことは詳しいんだけど、下の世界のことはあまり知らないんだよね。崑崙のことで手がいっぱいなのかもしれないけど、だからといって、こんな古い地図を渡されてもねえ……。おまえもそう思うでしょ?」


「えっ? なんて言ったの今?」


 いきなりおまえ呼ばわりである。しかも言っていることは、半分以上理解出来ないことばかりだ。一樹はこの少女の元から離れようとした。いや、はっきりと危険を感じて、逃げようとしたのである。


 しかし――。


「なにじゃないわよ。人の話をちゃんと聞いてたの?」


「いや、その……なんかイメージと違うというか……」


「はあ? イメージ?」


「つまり、その、道に迷った可憐な留学生だとばかり思ったので……」


「なに訳分かんないこと言ってんの。とにかくこの地図は当てにならないから、おまえがなんとかしてよね!」


 少女が勝手に決めてしまう。


「あの、ぼく、このあと学校が――」


 一樹の声は当然のように無視された。


「えっと、この『丞福酒造』って場所に、アタシは行きたいんだけど」


 少女の言葉に一樹はぴくっと反応した。


「あ、それでしたら知ってますよ。クラスメイトの家ですから」


 自分でも知らぬ間に、すっかり丁寧語になっている一樹であった。


「道だけ教えますから――」


 よし、道だけ教えたらさっさと逃げよう。この子にこれ以上関わるのは危険すぎるからな。


 だが、一樹の願いが受け入れられることはなかった。


「それならばちょうどよかった。そこまでの道案内を頼んだわ」


「えっ、ぼくがですか? ぼくも大事な用事があって――」


「さあ、さくさくと行くわよ!」


 少女は慌てて断ろうとする一樹の手をぎゅっと掴むと、前に向かって歩き出した。

 一樹は助けを求めるために、比呂夢の方に目を向けたが、返ってきたのは残念そうに首を左右に振る比呂夢の姿だった。

 

 ふっ、友情なんてはかないものさ。


 そんな人生訓を胸に刻みながら、半ば強引に引きずられるようにして少女の後を付いていく一樹である。

 だが、比呂夢の困難はこれで終わりではなかった。このあともまだ続くのであった。


 まずはじめに、目の前の道路を赤信号にも関わらず堂々と渡ろうとする少女。次に、盛大にクラクションを鳴らしてきた黒色の高級外車に向かって、喧嘩腰そのものの視線を投げつける少女。さらに、怒って車から降りてきた、危なさそうなダークスーツ姿の男に食って掛かろうとする少女。

 一触即発かというとき――。


「おい、あんちゃん。この勇ましいガキはきさまの連れか?」


 男の視線が少女の背中に隠れていた一樹の姿を捉えた。


「あ、あの、そのですね……これには深いわけが……その、ありまして……」


「だったら、女の責任は男にとってもらうぜ」


 一樹の弁解の言葉の途中で、男の渾身の右ストレートが一発、一樹の左頬にクリーンヒット。

 一樹、たまらずにダウン。ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ――ナイン、テン!

 1ラウンド、五秒。ノックアウト。

 試合終了。


 しょせん、おれの人生なんてこんなものさ……。


 ほろ苦い青春の思いとはかけ離れた痛みを胸に抱きながら、一樹はリング上――ではなく、アスファルトの上に沈んだ。

 男が肩を怒らせながら車に戻ろうとする。


「ちょっと、待ってよ」


 少女が男を呼び止めた。


「アタシの大事な――」


 えっ、大事って、まさかおれのこと……?


「――大事な道案内人を殴った御礼をさせてもらうわよ」


 道案内人か……だよな……。


 アスファルトに頬をつきながら、がっくりとする一樹。


「はあ? おまえ、本気で言ってるのか? 女だからと思って、わざと男の方を殴ってやったんだぜ」


「だったらなんだっていうの」


 少女が空手か拳法のような構えをとる。どうやら、本気でこの男と勝負するつもりらしい。


 そんな、せっかく、おれが犠牲になったというのに……。


 しかし、そのあと、一樹の視界の中で目を見張るような奇跡が起こった。 

 それは、男にとっては悲劇であったろうか――。

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