一章  酔狂之天女、登校す。

 丞福ゆきるのその日の朝は、窓から差し込む春の穏やかな日差しを浴びて、爽やかに眼を覚ますところから始まった。


「ふあ~あ」


 ゆきるは日差しに負けないくらいの穏やかなあくびをしつつ、布団の中でもぞもぞと体を動かした。

 今春晴れて高校生になったばかりの十六歳。両親の遺伝子をほどよくブレンドし受け継いだ整った容貌をしているが、酒好きの遺伝子だけはなぜか受け継がれなかった。


 なんだ、もう朝か。早く起きないとな。


 布団に右手を付いて起き上がりかけたゆきるだったが、そこで不意にそのままの姿勢で硬直してしまった。

 布団についたはずの右手に違和感──異物感があるのだ。布団の感触とは明らかに異なる、しかし、布団に似たとても柔らかい感触。それを敢えて言葉で表現するとしたら――。


 ムニュ。


 このムニュはいったいなんなんだ?


 朝からゆきるの思考回路が混乱する。


「ん、ん、うーん……」


 悩ましいとも可愛らしいともとれる声が、ゆきるのすぐ右隣であがった。

 ゆきるは声の発生地点に顔を向けた。

 そこにいた。ぐっすりと心地良さそうに眠っている少女が――。


「うわっ、華琳、またかっ!」


 一声叫んで、今度は慌てて左手を布団についた。

 すると再び――。


 ムニュ。


 先ほどと多少違うものの、たしかに手のひらに柔らかな感触が伝わってきた。


「ん、ん、うーん……」


 艶っぽいとも可憐ともとれる声が、ゆきるの左隣であがった。

 ゆきるは声のした方に視線を振り向けた。

 そこにいた。ぐっすりと心地良さそうに眠っている少女が――。


「えみるもかよっ!」


 再度叫んでしまった。


「なに? まだ寝させてよお……。あたし、まだ眠いよお……」


「朝からうるさいわね……。少しはお姉さんを敬いなさい……」


 布団の下でゴソゴソと体を動かしながら、華琳とえみるはそろって眠りを妨げた声の主に、恨めしげな視線を投げかけるのであった。

 

 この日最初のトラブルはこうして始まった。  



――――――――



 朝の食堂。家族団欒の場。明るい会話――訂正、激しい会話。


「だから、どうしてえみるがおれのベッドで寝ているんだよっ?」


 はじめに口火をきったのは、被害者であるゆきるだった。


「しょうがないでしょ。昨日、華琳の第六回歓迎会の途中で、あんたを呼びに行ったのよ。ほら、あんたは始めにちょっとだけ顔をだしただけで、すぐに会を抜け出して、部屋に戻っちゃったでしょ」


 当然である。歓迎会とは名ばかりで、始まって五分もしないうちに、立派な宴会と化していたのだ。まったくの下戸のゆきるの居場所が、そこにあるはずもない。ゆきるは早々に宴会から脱出して、部屋で寝ることにしたのである。

 そもそも、華琳の歓迎会はこれで六回目であった。ちなみに華琳が丞福家に来てから今日で十日である。つまりほぼ毎日歓迎会は開かれているのであった。もちろん、華琳を歓迎する目的は最初の一回目だけで、その後は、たんに宴会を開きたいがための歓迎会になっているのは言うまでもない。


「それで、わたしと華琳とで、さびしそうにしているであろうゆきるをわざわざ呼びにいってあげたのよ」


 いや、呼びに来なくていいから。おれに平穏な時間をくれよ。


 ゆきるは心の中だけで反論した。


「ほら、わたしって、弟思いの心優しい姉でしょ? この楽しみをゆきると分かち合いたかったのよ」


 分かち合えずに、自分だけで享受してくれよ。だいたい、下戸のおれを呼びにきている時点で、弟思いというよりも、弟イジメにしか思えないけど……。


「でもね、ゆきるってば、ベッドでぐっすりと気持ち良さそうに眠っていたの。だから、頭から垂直に床に落とすか、それとも頭に冷水を掛けるかして、起こしてあげようとしたんだけど――」


 ゆきるの背筋を冷たいものが落ちていく。酔っているえみるならば、そういうことを平気でやりかねないのだ。


「そうしたら華琳が、だったらあたしの仙術の奥義を使って、魂から叩き起こそうかって言うからね――」


 ゆきるの背筋を絶対零度より冷たい何かが落ちていく。


「わたしもさすがにそれはやり過ぎかなって思って、華琳とあれやこれやと議論しているうちに、二人とも眠くなっちゃって、手近にあったゆきるのベッドで眠っちゃったって訳なの」


 えみるは満足そうにうんうんという具合にうなずいている。

 

「なんだ、そういうことだったのか――て、そんなことで納得するわけないだろうっ!」


「えっ、どうして? だってゆきるだって、眠くなるときぐらいあるでしょ? それともゆきるは一生眠らないでいられるの?」


「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて……」


「じゃあ、なんだって言うの?」


「つまり、なんでそこでおれのベッドを使うんだよ?」


「そこにゆきるのベッドしかなかったからでしょ? 当たり前のことをいちいち聞かないでよ」


「当たり前って……」


「あっ、ゆきるはわたしと華琳に床の上で寝ろって言いたいわけ? それって女性差別じゃない? それとも人権侵害ってやつ? わたしの大事な弟がまさか差別主義者だったなんて信じられないっ!」


「どう論理を進めたら、そういう結論に達するんだよ!」


「なによ。それじゃ、頭から垂直に床に叩きつけて起こした方が良かったっていうの?」


 あの、さっきより凶悪度が増している気がするんですが……。


 ゆきるの額に冷や汗が浮かぶ。


「それとも華琳の仙術の奥義で、全身火だるまにして、灼熱地獄の中で目を覚ました方が良かったわけ?」


 それってもはや拷問だろう……。


 ゆきるの全身に強烈な震えが走る。


「それとも――」


「あー、もう分かったよ。もういいよ。この話は終わりにしよう」


 ゆきるはふぅーと嘆息した。もっとも、はじめからこの姉には口では勝てないと分かっていたけれど……。


「えみる。つまりゆきるはね、あなたが布団の中に入ってきたから照れているのよ」


 母の彩子が台所から顔をのぞかせた。


「ぷううううっ!」


 思わず飲みかけだった紅茶を噴き出してしまうゆきる。


「なーんだ、そういうことだったのね」


 えみるがなにやら意味ありげに微笑む。


「な、な、なんだよ、その意味深な笑顔は?」


「別に深い意味はないわよ。ただ――」


「ただ――?」


「今朝、胸のあたりを触られたような気がしたんだけど――」


「あーっ! それは違う。違うぞっ! それはその……つまり、ちょっとした事故というか……不可抗力が発生したというか……おれの手がおれの意思を無視して動いたというか……」


 ゆきるはしどろもどろに答える。


「う、そ、よ!」


 一音一音区切ってえみるが言う。


「へっ?」


 間抜け顔のまま数秒――。


「あっ、えみる、おれをハメたな! いや、ハメたって、そういう意味じゃなくて……」


 ゆきるがえみるの言葉の真相に気付いたときには、すでに遅かった。


「ふーん、ゆきるもそういう年頃になったのね。てっきりまだお子ちゃまだとばかり思っていたんだけど。ゆきるがねえ――」


 えみるは勝ち誇った顔をゆきるに向けた。むろん、ゆきるに言い返す術はなかった。


 フニャニャニャーン。


 リビングのテーブルの下で優雅に朝の食事をしていた猫又が、ゆきるを元気付けるように鳴いた。どうやら、この猫又はゆきるをご主人様と認めているらしい。


 あーあ、お前だけだよ、おれに優しくしてくれるのは。


 猫又はいつのまにか丞福家の新しい家族になっていた。外見こそ可愛らしいが、その正体は妖怪である。名前を『小黒シャオヘイ』という。華琳が名付け親だ。中国語で『チビクロちゃん』というような意味らしい。


「――そうだ、華琳はどうしたんだよ? 朝ご飯の時間だろう?」


 ゆきるは強引に違う話題にそらした。


「華琳なら、今準備をしているところよ。もうすぐ来るから」


「準備? なんの準備だよ?」


「それは見てのお楽しみよ」


「お楽しみねえ」


「――ごめん、遅れちゃった」


 ちょうどそこに、華琳が階段を小走りで降りてきた。


「はあ? これって、もしかして……」


 華琳の姿を見て驚くゆきるを尻目に、えみると両親が華琳のそばに寄っていく。


「うん、ばっちりよ、華琳」


「華琳ちゃん、似合っているわよ」


「さすが未来のお嫁さん候補だ」


 三者三様の絶賛の嵐である。


「ちょっと、えみるも母さんも父さんも、いったいこれはどういうことだよ……?」


 どうやら蚊帳の外になっているのは、ゆきるひとりだけらしい。


「ゆきるにはまだ言ってなかったわね。昨日の歓迎会のときに決めたの。しばらくの間この家にいるっていうから、わたしたちの通っている学校に転入するのもいいんじゃないかと思って。昨日ゆきるの部屋に行ったのも、そのことを伝えるために行ったんだからね。まあ、あんたは眠っていて、伝えられなかったけどね」


「転入って……うそだろう……」


 ゆきるはリビングに入ってきた華琳の姿を呆然と見つめた。

 ゆきるの視線の先には、ま新しい制服を着た華琳がうれしそうな笑顔を浮かべて立っている。


 制服姿の華琳も可愛いんだけどなあ。


 つい、そう思ってしまう。しかし、同時に――。


 でも華琳が学校に来たら、なにか良からぬことが起こりそうな予感がするんだけど……。


 こういうときのおれの勘って、必ず当たるんだよなあ。


 笑顔の華琳とは正反対に、一抹の不安を感じるゆきるであった。

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