五章 強き術を使いし者
「ねえ、可愛い子猫ちゃん。猫の本能が残っているということは、あなた、犬はきっと苦手なんじゃないの?」
華琳は懐から取り出した短冊の束を、猫鬼に向けて投げ付けた。
長さ十五センチ余り、幅五センチ弱のなんの変哲もない白い短冊である。普通の短冊との唯一の違いは、朱文字で小難しい文字が書かれていることだ。この短冊こそが、さきほど華琳が言っていた霊符であった。神道でいうところの御札みたいなものだ。
その短冊の形をした霊符に変化が起きた。何もない空中で透明人間の手によって、折り紙のように何度も折り畳まれていく。そうして出来上がったのは犬であった。
十数枚の犬の形をした短冊が、次の瞬間、本物の犬へと姿を変える。
「折り紙の犬が本物になったぞ!」
ゆきるの目の前で信じられないイリュージョンが巻き起こった
「えっへん、これが
華琳が得意げに教えてくれた。
剪紙成兵術とは文字通り――紙を
霊符から産まれた犬たちは、猫鬼をぐるりと取り囲むと一斉に大声で吠え始めた。
猫鬼の方はといえば、その場に立ちすくみ、あろうことか震え始めてしまった。いくら猫鬼とはいっても、犬を恐れる猫としての本能には逆らえないらしい。
「なあ、相手は本物の化け物だぜ。紙で出来た犬たちだけで大丈夫なのか?」
いっときは霊符から本物と見間違うばかりの犬が産まれるを見て呆然としていたゆきるだが、ここまできたらなんでもこいっといった突き抜けた心境になっていた。
「もちろん大丈夫よ――て言いたいところだけど、あの犬たちはしょせん紙にすぎないわ。猫鬼を倒すだけの力はないから。それにあの猫鬼も、いずれ目の前の犬が偽物だって気付くわよ」
「それじゃ――」
「まかせて次の手は考えてあるわ」
華琳が猫鬼に向かって走っていった。
猫鬼も接近してくる華琳の動きに気付いた。回りの犬たちを警戒しつつ、華琳に前脚の爪を振るってくる。
華琳はその爪の攻撃を芸術的な動きで避けつつ、なんとか猫鬼の懐に潜り込もうとチャンスを狙う。
何度かの攻防の末、不意に猫鬼の爪が一匹の犬に当たった。途端に、その犬は一枚の破れた短冊に戻った。
フギャアアアアアーーーーーッ!
ようやく目の前の犬がまやかしだということに気付いた猫鬼が、怒りの吠え声を張り上げた。
しかし時すでに遅し。
「残念ね。気付くのが少し遅かったみたいね」
華琳は猫鬼の懐深くに潜り込んでいた。そこでトンと軽く地面を蹴り、猫鬼の顔の高さまで飛び上がると、右手に持っていた霊符を猫鬼の額に貼り付けて、今度はストンと軽やかに着地した。
次の瞬間、鬼猫の動きがピタリと止まっていた。
「――もう平気なのか?」
ゆきるは華琳の方にこわごわと近寄って行く。
「安心して。
禁呪もまた仙術のひとつである。簡単に言うと相手の動きを止めてしまう術――つまり、金縛りの術である。もっとも、禁呪には相手を金縛りにかけるだけではなく、他にも様々な使い道がある。
例えば水の力を禁じることによって、沈むことなく水上を歩くことが出来る。あるいは火の力を禁じることによって、火の中でも平気でいられる。
華琳が空中を歩いたときに使った飛空法では、重力を禁じることによって空を歩くことが出来るのだ。
「で、この化け猫ちゃんはどうするんだ? いくら元が猫とはいっても、このデカさじゃ、招き猫代わりにはならないし、かといって、このまま庭に放置しておくわけにもいかないし」
ゆきるは彫像と化した猫鬼の前脚を拳で軽く叩きながら首を振った。
「そうね、本当ならこのあと壺の中に閉じ込めておくのが一番いいんだけど、肝心の壺はさっき割っちゃったからね……」
「蔵の中にある他の壺じゃ代用は利かないのか?」
「しっかりとしたまじないが施された壺でないと、すぐに中から出てきちゃうけれど、それでもいいっていうなら――」
「却下します!」
ゆきるは即断した。あのとんでもない猫鬼の姿は、金輪際二度と見たくない。
「それじゃ、消す以外他に方法はないわね」
華琳はまた懐から例の短冊型の霊符を取り出した。それを動かない猫鬼の体に一枚、ぺたりと貼り付ける。
「今度はなんの霊符なんだ?」
「雷神様を召喚する霊符よ」
「雷神様ね」
さすがにゆきるも『ライジンサマ』というのが、雷様のことであると分かった。
「雷神降臨、
華琳は両手の指を複雑な形に組みあげると、呪文を朗々と唱えた。
晴れ渡った春の青空の一角から、雷鳴を従えた神々しい光の柱が、猫鬼目掛けて一直線に落ちた。春雷などという生易しいものではない。まさに神の怒りの鉄槌といった破壊光である。
猫鬼の体を白光が貫き、その一瞬後には、猫鬼の体は無残にも真っ黒なほこりの塊と化していた。そのほこりも一陣の春の穏やかな風に流されて、庭に落ちていた桜の花びらとともに散り散りになって飛んでいってしまった。
二人が穏やかな眼差しで桜吹雪を見つめていると――。
ニャアアアアアン!
不意に可愛らしい猫の鳴き声がした。
「うそだろう? まだあの化け猫生きているのか?」
ゆきるが驚いていると、小さな黒猫がゆきるの足元にふらりとやってきた。
「あら? この猫って、あの猫鬼に取り憑かれた野良猫よね?」
「ああ、いつも蔵に入ってくる野良猫だよ。でも、どうしてここにいるんだ?」
「あの雷の衝撃から助かるとは思えないんだけどなあ」
華琳が不思議そうに首をひねりながら、その黒猫を両手で抱えあげた。
ミャアミャア!
黒猫はうれしそうに鳴き声をあげる。猫鬼の銅鑼声とはまるで違う、可愛らしい猫本来の鳴き声である。
華琳は黒猫の体全体を観察するように眺める。尻尾に目を向けたときに声をあげた。
「あっ、この子、尻尾が二股に分かれている!」
「どうしたんだ? やっぱり化け猫なのか?」
「化け猫には違いないけれど、尻尾の形から見て、この子は
「猫又?」
ゆきるも言葉だけは聞いたことがあるが、その正体までは知らなかった。
猫又とは、尾の先が二股に分かれている猫の妖怪である。
「そっか、あの猫鬼に取り憑かれて、その影響でこの子は猫又に変成して助かったのかもしれないわね」
華琳は猫又の喉のあたりを優しく撫で上げる。ゴロロと猫又が喉を鳴らす。
そんな姿を見せられては、いくらその猫又が妖怪とはいえ、退治しろとは口が裂けても言えない。
「えーと、その猫又は大人しいんだよな?」
「もちろんよ」
「急に噛み付いたりとかはしないんだよな?」
「当然でしょ」
「夜中にいきなり化け猫に変身しないんだよな?」
「ありえないから」
「じゃあ、最後にもうひとつ――決して人を襲ったりはしないんだよな?」
「――――」
「そこはなんで黙るんだよ!」
思わずツッコミを入れてしまうゆきるだった。
「大丈夫よ……たぶん。この子が人を襲うわけないじゃん……きっと。わたしの言うことを信じてよ……少しだけは」
絶対に信用できない表現方法で述べる華琳であった。
「――分かったよ、分かったよ。その猫又をペットにするなり、君の好きにすればいいさ」
「わーい、ありがとう。大事にしてあげてね」
「えっ、ちょっと待った。その言い方だと、おれに猫又を飼えっていうことなのか?」
「だって、この子はただの猫又じゃないのよ。猫鬼と猫の混血種なんだから。招き猫にはなれなくとも、護り猫にはなれるわよ」
「いや、特別の猫又なんか、余計に怖すぎるだろう?」
「でも、この子はゆきるのことがいたく気に入ったみたいよ」
華琳が猫又を地面に放すと、てけてけとゆきるの足元まで歩み寄ってきた。ゆきるのくるぶしのあたりに、しきりに体を擦りつけてくる。
フニャアア!
ゆきるの顔を見上げて、一声鳴いた。
「ゆきるが飼ってくれないのならば、ゆきるに取り憑いちゃうニャー、て言ってるわよ」
華琳が猫又語を翻訳してくれる。
「…………」
「ゆきるが飼ってくれないのならば、発情期じゃないけど毎晩枕元で朝までニャーニャー鳴き続けるニャー、て言ってるわよ」
「…………」
「ゆきるが飼ってくれないのならば、死なない程度に猫パンチを永遠に当て続けるニャー、て言ってるわよ」
「…………」
「ゆきるが飼って――」
「――はいはい、分かったよ。もういいから。おれが面倒をみてやるから」
フニャアア!
ゆきるの言葉を理解したかのように、猫又がうれしそうに鳴き声をあげた。
「良かったね、ニャンちゃん。優しい飼い主さんが見付かって」
「限りなく無理やりに近いやりとりだったけどな」
ゆきるは華琳には聞こえないように、小声でつぶやいた。
こうして少年と中華少女による、化け物退治の物語は無事に終わ――らなかった。
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