四章  邪悪なる姿を現わし者

 それは確かに猫だった。いや、猫の形をかろうじてしている、と行った方が正しいだろうか。


 やっぱり格好つけないで、さっさと逃げていれば良かったかもな……。


 ゆきるは蔵の入り口の前に姿を見せた化け猫を目にして、切実にそう思った。

 その猫は全長五メートル近い体格を有していた。瞳は爛々と鮮血色に光り輝いており、カッと威嚇音をあげる口は、人間ならばひと飲み出来そうなほど大きく開かれており、薄汚く涎がしたたった牙は、たやすく人間の骨などバリボリと噛み砕いてしまいそうなほど鋭く尖っていた。日本の昔話に出てくる化け猫を数十倍凶暴にしたら、きっとこういう怪物染みた化け猫が生まれるだろう。


「なあ、もちろん、何か策はあるんだよな?」


「決まってるじゃない……今、全力で考え中よ!」


「おい! ボケてる場合じゃないだろうが! もっと真面目に考えてくれよな。頼りは君だけなんだぜ」


「分かっているわよ。この緊張をほぐすために、ちょっとだけお茶目しただけだから」


「お茶目って……」


 ゆきるは今度こういう場面に出くわしたら絶対に逃げてやる、と心に強く誓った。


「とにかくコイツの正体だけははっきり分かったわ。この化け猫は猫鬼びょうきよ」


「ビョウキ? 病気の間違いじゃないのか? いっそうのこと、目の前の現象がおれの頭の病気のせいだと思いたいぐらいだよ」


「こんなときに現実逃避しないでよ! 猫鬼というのは猫を使った蠱毒のことよ」

 

「正体が分かっているのなら、もちろん、弱点とかも分かるんだろう?」


「百点? ゆきるは試験が得意なの?」


「百点じゃなくて、弱点だよ! ていうか、絶対分かっていてボケただろう!」


 今度こそ本当にゆきるは逃げ出そうとしたが、その前に華琳の言葉に止められた。


「とりあえずこの剣でアイツのことをしばらく食い止めておいて」


 華琳はどこに隠していたのか黄金色に輝く剣を取り出して、ゆきるに手渡してきた。


「なんだよ、この剣は?」


 ゆきるは手渡された剣をしげしげと見つめた。柄には微細な細工が施されており、刀身には宝石が七つも埋め込められている、まるで美術品のような剣である。


七星宝刀しちせいほうとうよ。北斗七星が意匠された破邪の剣で、力の弱い者でも剣自身の力で簡単に扱えるから」


「簡単に扱えるっていうけど……。それで君はどうするんだ?」


「あたしは準備があるから」


「準備って、なんの?」


「アイツを仕留める為の霊符れいふを書かないとならないの。いつもは用意しているんだけど、壺の中じゃ使う機会がなかったから手持ちがないの」


「レイフ? なんだそれ? ナイフの間違いじゃないのか? ま、このさいなんでもいいや。とにかく早く準備してくれよな。こんな化け猫をいつまでも食い止めておく自信はないからな」


「分かってるわ」


 華琳は懐から短冊と筆を取り出すと、何やら短冊にさらさらと書き始めた。俳句をしたためているのでないことだけは確かだろう。


「よし、こっちもやるしかないか」


 ゆきるは七星宝刀を握り締めて、猫鬼と対峙した。自慢じゃないが、剣道の経験は一切ない。もちろん、化け猫退治の経験は皆無だし、祖先が化け猫退治の英雄という話も聞いたことがない。無い無いづくしである。

 しかし、現実に目の前に猫鬼が存在しているのだ。泣き言を言っても始まらない。


でもなあ、相手は化け猫だぜ。どの世の中に化け猫相手に剣を振るう高校生がいるんだよ――て、ここにひとりお気の毒な高校生がいたか。


 内心で愚痴とも弱音ともつかないことをぶつぶつぼやきつつ、七星宝刀を見よう見真似で構えてみる。


「フギギャーーーッ!」


 猫鬼が鼻息も荒く威嚇してきた。


 そして――。


 来るっ!


 ゆきるの体に緊張が走った。

 猫鬼の前脚が風とともにゆきるに向かって伸びてくる。

 ゆきるはとっさに七星宝刀を強く握り締め――。


ギュイイインンンーーーーッ!


 耳障りな不快極まる甲高い金属音があがった。七星宝刀が猫鬼の前脚の爪を受け止めたのだ。

 同時に、ゆきるの両手に痺れが走り抜けていく。いくら剣の質が良くても、その剣を持っているのはただの高校生であるゆきるなのだ。猫鬼相手にただで済むはずがなかった。


「おい、これじゃ、そう何度も持ちこたえられないぞ!」


「分かったわ! もうすぐ準備が終わるから!」


 華琳はまだ短冊に筆を走らせている。


「もうすぐって、いつだよ……」


 ゆきるがつぶやいた一瞬の隙を突いて、猫鬼の第二撃がやってきた。


「――――!」


 完全に隙を突かれたゆきるは、猫鬼の攻撃を受ける体勢ではなかった。ただ、右手一本で握った七星宝刀を、なんとか体の正面で力なく構えるだけでいっぱいだった。


ギュギギィンンンーーーーーーッ!


 ゆきるの右手が猫鬼の爪の勢いに押されて、体の外側へと引っ張られていく。慌ててゆきるが体勢を整えようとしたときには、猫鬼の返しの一撃が来ていた。痺れが残るゆきるの右手に七星宝刀を握るだけの力は残されていなかった。猫鬼の前脚の爪が七星宝刀の刀身に引っかかり、そのまま剣は遠くに弾き飛ばされてしまった。


「くそっ!」


 思わず言葉が口をついて出た。


 フギャアア!


 反対に猫鬼は喜びの声を張り上げる。そして、まるで狙った獲物をいたぶるかのようにゆっくりとした、しかし決して逃がしはしないという足取りで、ゆきるに近付いてくる。


 ゆきるのいる場所から飛ばされた七星宝刀までは、ゆうに五メートル以上の距離があった。手が届く距離ではない。華琳はさらに遠くにいる。


 これがいわゆる絶体絶命ってやつか。


 自嘲気味にゆきるがそう思ったとき、庭に転がるバスケットボールが目に飛び込んできた。ゆきるが暇なときに遊びで使っているものだ。


 こうなったら、やぶれかぶれだ! これを使ってやる!


 ゆきるはバスケットボールを拾い上げると、猫鬼目掛けて思い切り強く投げつけた。

 だが、猫鬼は前脚で無造作にボールを払うと、ゆきるに再度赤い眼を向けてきた。

 ボールが転々と地面の上を転がっていく。まるでゆきるの希望が転がっていくかのごとく。

 猫鬼が前脚を大きく頭上に振り上げた。ゆきるにはもう為す術がない。万事休すの状態だ。


 もうダメか……。


 ゆきるが目を閉じるのと同時に、猫鬼の前脚が振り下ろされた。


 ゆきるではなく、地面に転がるバスケットボールに向かって!


 最悪の事態が起こらないことを不思議に思い、ゆきるが恐る恐る目を開けると、そこにはバスケットボールにじゃれ付いている猫鬼の姿があった。


「な、な、なんなんだよ……?」


「どうやら、猫としての本能がまだ残っていたみたいね」


 いつのまにかゆきるの隣に華琳が立っていた。


「ああ、なるほどね。猫の本能か。それなら分かるよ――てなわけないだろうがっ! もしも猫の本能が無くなっていたら、おれはどうなっていたと思っているんだっ!」


 ゆきるは猛然と抗議活動を起こした。


「まあ生きているんだから良かったじゃない」


「生きているって……。おれはそいうことを言ってるんじゃなくてだな――」


「ほら、あたしの後ろに回って。アイツがこっちに気付いたみたいよ」


 華琳の言うとおり、ボール遊びに飽きた猫鬼が、二人の方を爛々と光る目で睨みつけてきた。


「じゃ、じゃ、じゃあ、あとはよろしく頼む」


 ゆきるはすぐに華琳の背後に回った。化け猫退治はもう懲り懲りだ。


「おれはここまであの化け物を引き止めたんだから、あとは君の番だぜ。ほら、行った行った。可愛い子猫ちゃんが、鎌みたいな牙を光らせて待っているぜ」


「はいはい、お任せ下さい」


「おっ、やけに強気じゃん」


「まあ、そこで見てなさい。あたしが仙術の極意を披露してあげるから」


 華琳は猫鬼に向かって勇ましく進んでいく。


 フギィーーー!


 猫鬼の方も、相手を華琳に決めたらしい。

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