三章 壺を破壊せし者
酒蔵の中は昨夜となんら変わりはなかった。華琳が閉じ込められていた壺もすぐに見付かった。床の上に無造作に転がっていたのだ。見た目はごく普通の壺である。しいて言うならば、少しだけ汚れが付いていて年代を感じさせるが、高価な貴重品には見えない。
「あった、あった。この壺よ」
華琳はその壺を拾い上げると、それを高く持ち上げて、躊躇することなく、勢い良く床に叩きつけた。
壺はけたたましい破砕音とともに、ものの見事に千々の欠片と化して砕け散った。
「やった! これで一安心できた!」
「壺の件はこれでいいんだよな?」
「うん。壺公老の創った壺さえ壊せば、もう壺の中に閉じ込められることもないからね」
壺公とは仙人の名前である。
「じゃあ、おれはこれで部屋に戻るから」
「あたしはもう少しここにいてもいい?」
「それは構わないけど、なにか他に問題でもあるのか?」
「そういうわけじゃなくて、この蔵の中って、面白いものがいっぱいあるから、少し見ていきたいの」
華琳は蔵に備え付けられている棚の列に、興味津々の視線を向けている。
「それなら、おれももう少しだけ付き合うよ」
嫌々そうに言いつつも、内心では、華琳のそばにいられることを喜んでいるゆきるであった。
「本当にいっぱい年代物の骨董品が並んでいるけれど、これってどうしてここにあるの?」
「死んだ爺さんがアンティークマニアでな、フリーマーケットで骨董品を見付けちゃ、蒐集していたみたいなんだよ。あっ、君が閉じ込められていた壺も、きっと爺さんが由来も知らないで、どこかで買ってきたやつなのかもしれないな」
「ふーん、そうなんだ。ま、あたしが住んでいた崑崙の宝物庫ほどではないにしても、なかなかのコレクションよ」
「そういってもらえると、今頃、天国の爺さんも喜んでいるかもしれないな」
「あれ? あんな物まであるんだ?」
華琳が棚の上の方を指差した。
「何かお値打ち物でもあったのか?」
「これよ、これ」
華琳が棚からほこりが山のようにかぶった古い壺を手に取った。壺の表面には絵が描かれている。禍々しい模様で、これを描いた人間の執念を感じさせた。
「なんかその壺、薄気味悪いな」
ゆきるは率直に感想を述べた。
「ふふ、当然よ。だって、この壺は
華琳が意味深に笑った。
「蠱毒? それって何なんだよ? なんか気のせいか、嫌な予感しかしないんだけど」
「まあ、簡単に言うと、呪いの道具ってところよ」
華琳は事もなげにそう言うと、ゆきるが頼んでもいないのに、蠱毒の説明を懇切丁寧にしてくれた。
蠱毒とは爬虫類や昆虫、あるいは動物などの魂を使い魔として使役する
道教の
「…………」
華琳が嬉々として語る蠱毒の説明を聞き終えたとき、ゆきるの背中になにやら薄ら寒いものが、つぅーと流れ落ちていった。
「おい、そんな危ない物なら手になんか持っていないで、さっさと棚の奥の方にしまっておいてくれよ!」
「そんなに怖がることないじゃん」
「ば、ば、ばか言うなよ。だ、だ、だれが、怖がってるかよ……」
「大丈夫よ。この壺にはしっかりと『護符』が貼ってあって、封印がしてあるから」
「本当に大丈夫なのか?」
「この壺が割れでもしないかぎり、中の使い魔は外に出てこられないわ」
華琳が安心とばかりに壺の蓋を軽く叩いて見せた。
「お、お、おい……。わ、わ、分ったから、早くそれをしまってくれ」
「分ったわよ。もう少し観察したかったんだけどなあ」
華琳が手にした壺を棚に戻しかけたそのとき――。
黒い物体が酒蔵の床を疾風のごとく駆け抜けて、華琳の目の前でタンッとジャンプして、棚に飛び乗った。
ゆきるの目には、その物体が蔵に時々入ってくる野良猫であると判別することが出来た。おそらく開けっ放しにしておいた入り口から、蔵の中に入ってきたのだろう。
だが、いきなり目の前でそれを見た華琳は、冷静ではいられなかった。キャッと一声悲鳴をあげると、その拍子に持っていた壺を床に落としてしまったのである。
今度はゆきるが驚く番だった。詳しいことは分からないが、華琳の持っていた壺の中には、蠱毒とかいう使い魔が入っているのだ。その壺が割れてしまったら、当然中からその使い魔が出てきてしまう。
瞬間――。
ゆきるが決して聞きたくはなかった、壺の割れる音が蔵の中に響き渡った。
ゆきると華琳が為す術もなくただじっと立ち尽くす中、残骸と化した壺の破片の間から、瘴気にも似た黒煙が床の上を這うようにもれてきた。ただのほこりでは断じてない。その黒煙はあたかも意志があるかのように蠢き、徐々に濃度を増していったのだ。
だが、そこで黒煙の動きは唐突に終わった。ピタリと動きを止めたのだ。
「使い魔って、ひょっとしてこれで終わりなのか? おれが想像していたものと、かなり違うんだけど……」
ゆきるは少々拍子抜けをしていた。てっきりバケモノでも現われるのかと思ったのだ。なにせ空中を歩く少女を実際に見ているので、それ以上のものが起こるとばかり思っていたのである。
「あれ、おかしいな? 確かに壺には蠱毒の但し書きがあったんだけど……」
華琳はしきりに首をひねっている。
「でも、なんかもう動いていないんだけど」
「うーん、そう見えるね。もしかしたら、あまりにも長い年月の間置きっ放しにされていたんで、壺の中の使い魔が死んじゃったのかもしれないわ」
「死んだか……。そういうことならそれでいいや。とにかく一旦外に出よう」
「うん、そうだね」
二人は若干後ろ髪を引かれつつも、そろって蔵の外へと出た。二人同時に大きく息を付く。知らないうちに、二人とも息が詰まっていたのだ。
「よし、気持ちも切り替えたし、部屋に戻るとするか」
ゆきるが三歩ほど歩いたとき、蔵の中でガタゴトという物音があがった。
「た、た、多分……あの野良猫だよな?」
「き、き、奇遇ね……あたしも、そう思ったところだけど……」
二人はお互いに顔を見合わせた。
さらに二人が三歩ほど進んだとき、今度はフギャーという威嚇するような猫の鳴き声が聞こえてきた。
「ははは……さ、さ、最近の猫は、元気がいいみたいだな、ははは……」
「そ、そ、そうよね……まるで何かに怯えているみたいな鳴き声だったけれど、きっとあたしの気のせいよね……」
さらに二人が前進しかけたとき、バリバリともベキベキともとれる破壊音が背後でした。
二人とも振り返らなくても分かっていた。その音は、蔵の戸が引き裂かれる音だということに。
「まさかとは思うけど、あの音は使い魔のしわざなのか?」
「そ、そ、そうみたいね。てへへ」
「こんなときに、てへ笑いで誤魔化すな!」
「だって、もう笑うしかないでしょ!」
「だいたい、さっき君は使い魔は死んだって言わなかったか?」
「えっ? あたしが? そんなこと言ったかな?」
「…………」
「ほらあたし、二百年ぶりに外の世界に出てきたから、まだ頭がちょっとぼんやりしているみたいで、よく覚えていないんだけど……」
「ははは……。この状況下で、それだけの冗談が言えることだけは褒めてやってもいいよ」
「やだー、褒められちゃった。てへへ」
「――それで、このあとどうするんだよ? このまま振り返ることなく、無視して部屋に戻ってもいいのか?」
「そこはほら、ちゃんと確認したほうがいいと思うけれど」
「確認するって、正体は分かっているのか?」
「たぶん、あの使い魔は力がほとんど残っていなかったけれど、まだ生きていたのよ。そこにたまたま野良猫がやって来て、その野良猫に取り憑いて、実体化しちゃったのかもしれないわ」
「聞きたくはないけれど、一応聞くぜ。――実体化したその化け物は次にどうすると思う?」
「当然――」
「当然?」
「あたしたちのことを襲ってきちゃったりしてね……」
「――だと思ったぜ。だったら、今すぐに逃げよう」
ゆきるの頭の中には、化け物の対策マニュアルは入っていない。逃げる以外の方法は見当がつかなかった。
「――分かったわ。ゆきるはすぐに逃げて。あたしがなんとかするから」
華琳が真剣なまなざしをゆきるに向けてきた。
「――あのな、こういうときにそんなこと言われたら、君だけを置いて逃げるわけにはいかないだろう!」
「――ありがとう。それじゃ、二人で協力してなんとかするしかないわね!」
「先に言っておくけれど、おれは空は飛べないからな」
「この状況下で、それだけの冗談が言えることだけは褒めてあげるわよ」
ゆきるの冗談に、華琳が冗談で返した。
二人は互いにうなずきあうと、ゆっくりと蔵の方に振り返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます