二章  空中を歩きし者

「ふぅーっ。とりあえず第一の関門は無事にクリアしたな」


 ほっと息をついたゆきるであったが、本当の問題はこれからである。布団の下には、確かに女の子が横になって眠っているのだ。

 ゆきるは布団を再度めくって、その少女の姿を確認する。

 金銀の色鮮やかな細かい刺繍が施された、真っ赤な中華風の民族衣装を身に付けた少女。歳はゆきると同じくらいだろうか。さきほどのムニュの正体である、服をほどよく押し上げた胸部。白く透き通った肌は真珠そのもの。きれいな黒髪はツインテールに結ばれている。寝顔はまさしく天女のように美しかった。


 でも、この子はいったいどこからきた何者なんだ……?


 ひょっとしたら――十六年間、女の子と付き合ったことのないあわれなおれの為に、親切な神様が遣わしてくれた天女――なわけないか。


 あるいは――実は日本の情勢を秘密裏に探りに来た中国の国家秘密警察のエージェント――てこともないよな、絶対に。


 それじゃ――この子は街で偶然見かけたおれに一目惚れをしてしまい、こうして家まで押しかけてきて、さらには布団の中にまで入り込んでしまった、ちょっとだけ押しの強い恋する乙女――でないことだけは、おれでも分かるよ。


「あー分からない!」


 思考能力がまたたくうちに袋小路に入り込んでしまった。寝起きということもあるだろうが、思考がぼやけてしまい、これ以上思い付く事柄が見付からない。いっそうのこと、姉に相談でもしようかと考えたが、すぐに自らの考えを打ち消した。あの姉のことである。どうせ面白がるに決まっている。

 ゆきるは一旦思考を停止して、ぼんやりと窓の外に視線を向けた。

 朝日の中に庭の様子が見える。酒造元だけあって、庭はそれなりの大きさがある。酒蔵も二棟あった。

 その蔵を見ているうちに、ゆきるの脳裏に昨夜の出来事が不意に思い浮かんできた。

 昨夜は丞福家恒例の行事である宴会が開かれた。狂気と紙一重の狂乱と狂騒に満ちた宴会であったが、ゆきるはとある体質的な理由の為、その宴会を早々に抜け出して、酒蔵の中にひとりでいた。


 そうだ。思い出したぞ! それで蔵の棚に置いてあった『酔狂之天女』っていう壺を見つけて、なんとはなしに栓を開けちゃったんだよな。そしたら、中からものすごいほこりが飛び出してきて、慌てて手でほこりを払い除けてみたら、蔵の床の上に女の子が倒れていたんだよな。それでびっくりして、とりあえずこの部屋に連れてきて、その後でどうしようかと迷っているうちに寝ちゃったんだっけ。

 なんだ。そういうことだったのか。やっと女の子のことが分かった。これで一安心――なわけないって!

 だいたい、どうして壺の中から女の子が出てきたんだ?


 こんな難問は、どんなに頭脳明晰な人間でも答えられないだろう。当然、一般人レベルのゆきるの脳が回答を導き出せるわけがなかった。

 こうなったら、残された手段はただひとつ。本人に直接訊くのみだ。


「あのさ、起きているのなら起きてくれよ」


 ゆきるの著しく文法の誤った日本語に対して、その女の子が反応を示した。けだるそうに体をモゾモゾと動かしながら、ゆきるの方に顔を向ける。閉じていたまぶたが一回二回と開く。三回目に開いたとき、ゆきるの目としっかり合った。

 少女の目が大きく見開かれる。それにともない口も広がっていく。


 ヤバイ。悲鳴か? おれは何もやましいことなんかしてないぞ! いや、二回だけ胸のあたりをムニュっとしたけれど……。


 だが、ゆきるの心配は杞憂に終わった。女の子の口から出てきたのは悲鳴ではなかった。およそこの場に似つかわしくない、あるいは非常に似つかわしいともいえる言葉であったのだ


「ありがとう」


「アリガトウ……?」


 まさか、おれは知らない間にこの子とそういう関係に――。


 ゆきるがあらぬ妄想を元に狼狽していると、少女はピョンと跳ね起きて、ゆきるに抱きついてきた。


「えっ? なに? なんなのさ? どうして抱きついてきたり……。やっぱりおれ、昨夜この子と……」


 女の子に抱きつかれるという男にとってみれば、それも思春期のゆきるにとってみれば、これほどの幸福なことはないのだが、いかんせん、状況がよくなかった。ゆきるはただただ呆然とするのみである。

 一方、女の子の方はといえば、


「ありがとう。助かったわ」


 と言ったかと思うと、あとはマシンガンのような早口でまくしたて始めた。


「あたしね、華琳っていうの。よろしくね。実はね、あたし今まで壺の中の世界に閉じ込められていたの。意地悪な仙人が、あたしのこのとびきり素敵な肉体を狙ってね。ほら、あたしって、見ての通りの美少女でしょ? もう、可愛いってだけで狙われちゃうのよ――なんて、今のは全部うそだけどね。あたしが美少女って部分を除いてね。あっ、壺の中の世界に閉じ込められていたというのも本当だった。でも、あたしを閉じ込めたのは、意地悪な仙人じゃなくて、壺公っていうとっても偉い老師さんなの。あたしが女仙になるための修行中に、ちょっとだけお酒を盗み飲みしちゃったところを、母さんに見つかっちゃってね。あたしの母さんは、崑崙に住んでいる女仙を束ねる西王母っていうんだけどね、この母さんがそりゃ厳しいのよ。それで壺公老に頼んで、あたしを壺の中の世界に閉じ込めたっていうわけなの。そりゃお酒を盗み飲みしたあたしも悪いわよ。でもね、毎日何もせずにお酒ばかり飲んでいる神仙の老師たちはたくさんいるのよ。いくら修行中の身とはいえ、禁酒なんてひどいと思わない? だけど、母さんにはそんなこと通じないの。もう有無を言わさずに壺の中の世界に閉じ込めれちゃったんだから。これって横暴よね? それとも虐待っていうのかな? あるいは育児放棄ってこと? とにかくそういうわけで、あたしは壺の中の世界で反省していたの。でもさすがに二百年近く壺の中の世界にいると飽きてきちゃうのよ。外に出たいと思ったんだけど、あたしの力では外に出られなかったの。それで、なんとかならないかなあって思っていたら、あなたが壺の栓を開けてくれて、こうして二百年ぶりに無事に外に出られたってわけ。――ねっ、あたしって、見かけによらず、結構苦労している可愛そうな女の子だと思ったでしょ?」


 そこまで一気にしゃべると、ようやくその少女――華琳は一息ついた。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれよ。『千人』とか壺の中の世界とか、『ガスコンロ』に住んでいる『西洋』の『おばさん』とか、いったいなんなんだよっ!」


 あまりの話の急展開と、聞き慣れない単語の山を前にして、ついていけないゆきるであった。


「ガスコンロに住んでいる西洋のおばさんじゃなくて、崑崙に住んでいる西王母があたしの母さんってこと。ちなみに崑崙というのは、あたしたち神仙が住んでいる神秘のお山のことよ」


「コンロン? セイオウボ?」


 華琳の説明を聞いてもさっぱり分からなかった。そこまでがゆきるの脳の許容範囲の限界だった。

 頭の中で危険を知らせるレッドランプが点滅をし始める。


コレイジョウのシコウサギョウはキケンです。ジンタイにエイキョウがデるマエに、オヤメください。


 そこでゆきるの脳は自衛手段にでた。目の前の事象を否定することにしたのだ。


 そうか。これは夢の続きなんだ。まだおれは眠っていて、夢を見ている途中なんだ。夢の中なら千人でも一万人でもなんでもありだからな。

 

 じゃあもうひと眠りしようかなとゆきるが瞳を閉じかけた途端、華琳がゆきるの頭をがしっと両手でつかみ、思い切り激しくシェイクした。その小さな体のどこにそんなバカ力が、というくらいのすさまじいものだった。


「こらっ! あたしの話を聞いてんのっ! 寝るんじゃない! 起きろっ!」


「うわ、うわわわわあ、うわっ」


 夢の世界に逃避しかけていたゆきるの精神は、否応なく現実の世界に連れ戻された。再びゆきるが目を開けたとき、目の前には確かに華琳の姿があった。


「どうやら夢じゃないみたいだな……。よし分かった。君の存在も、君が壺に閉じ込められていたというトンデモ話も、コンロンに住んでいるなんとかさんも、すべて信じるよ。――じゃ、そういうことで話はこれで終わりにしよう。せっかく君に会えたばかりだというのに、これでお別れだなんてつらいなあ。でも、おれにもやることがあるんで、それじゃあね」


 ゆきるは部屋から出て行こうとした。夢の中に逃げられないのであれば、物理的にこの場から逃げようとしたのだ。なにせ相手は超強力な電波を発している。これ以上一緒にいては、ゆきるの脳がやられてしまう。

だが――。


「ちょっと、あたしの話をちゃんと聞いてたの?」


 華琳がゆきるの腕をむんずと掴んできた。


「もちろん聞いていたさ。だから、おれは君のことを壺の中から出してあげんだろ? だったら、もうお役御免だろう? あとは自分の家に帰るなり、どこか好きな所に行くなり、勝手にしてくれよ」


「あのね、そういうことを言ってるんじゃないの。あたしは壺に閉じ込められていたって言ったでしょ」


「ああ、そこからおれが出してやって――」


「そうじゃなくて、やっとあたしは壺から出られたの。だから、またそこに戻されないように、その壺を壊さないといけないの。本当は壺から出られたときに、すぐに壊せば良かったんだけど、外に出た衝撃で気絶しちゃったみたいだから……。とにかくそういうわけで、あたしは壺のある場所が分からないの。あの壺の栓を開けたのがあなたならば、壺のある場所は知っているでしょ?」


「なんだ、そういうことだったのか。壺のことが知りたかったのならば、最初からそう言えばいいのに」


 ゆきるは少しだけほっと胸をなでおろした。


「君が閉じ込められていたとか言っている壺なら、ほら、この窓から見えるあの酒蔵に置いたままだよ」


 ふーっ、これでやっとこのファンタジーな夢から解放されるな。さてと、朝ご飯でも食べに行こうかな。


 ゆきるは今度こそ肩の荷が降りたとばかり思ったのだが、そう簡単には物事は進まなかった。


「あそこの蔵ね。分かったわ。じゃ、行くわよ」


「行くって、ひょっとして、おれも一緒に――」


 ゆきるが最後まで言い切る前に、華琳はゆきるの腕を掴んだまま、窓に向かって歩き出した。窓を開けて、窓枠に足を乗せると、そのまま空中に向かって足を一歩前に踏み出す。まるでそうするのがさも当然だという風に。


「おい、待てよ。まさか、飛び降りるつもりじゃ――」


 しかし、ゆきるの予想はまったくの的外れであった。なぜならば、一歩空中に足を踏み出した華琳の体は、空中に浮いていたのである。


「じょ、じょ、冗談だろう? 浮いているって……。えっ、それじゃ、さっきのガスコンロも西洋のオバサンの話も全部本当のことなのか? 重症の電波少女だとばかり思っていたけど……」


 予想だにしない非現実的な展開に、まったく付いていけないゆきるである。しかし、そんなゆきるを放って、華琳は我が道を進んでいく。空中をさらに前進して行くのだ。


「待て待て待て! おれがいるのを忘れるなっ!」


「ちょっと、あなた何しているの?」


 華琳が不思議そうにゆきるを見つめてくる。そのとき、ゆきるの体は空中に浮いていた。いや、より正確に言うのであれば、空中に浮いている華琳の体に、落ちないように必死でしがみついていたのである。


「あのな、君は千人だか万人だかで、空を飛べるみたいだけど、おれはごく普通の高校生なんだよ! 普通の高校生は空なんか飛べないんだよっ!」


 力強く言ってはみたものの、華琳にしがみついたままでは、迫力に欠けるというものである。


「えっ? まさか、あなた飛空法ひくうほうも出来ないの?」


「そんなものおれの行っていた学校じゃ習わなかったぞっ! ちなみに普通科だけどな」


「飛空法が出来ないってことは、あなた地仙ちせんと同じなのね」


「チセン? それってチカンの仲間のことか?」


 もちろん、わざとボケているわけではない。本当にゆきるは分からないのだ。


「地仙は空を飛べない仙人のことよ。空を飛べる仙人は天仙てんせんって呼ばれているの。これでひとつ勉強になったでしょ」


「へえ、そうなんだ――て感心するわけないだろう! とにかく地面に下ろしてくれよ!」


「分かったわよ。そんなに怒鳴らなくても、ちゃんと聞こえているわ」


 空中に浮いていた二人の体に不意に重力が戻ったかと思うと、そのままふわりと地上に舞い降りた。


「いいかい、おれが君に協力するのはここまでだ。壺がある場所は教えたし、あとは君ひとりでやってくれ」


ゆきるは華琳の手を外すと、家の方に歩き出した。


「――ごめんね」


 背中越しに華琳の優しげな声が聞こえた。


「あたし、壺を壊すことばかり考えていたから……。それに地上に住んでいる人たちとあまり接したことがなくて、あなたが空を飛べないなんて知らなかったの……」


 思いもよらない華琳の言葉に、ゆきるのハートがピコピコと反応した。ゆきるとて女の子に興味がないというわけではない。むしろ、女の子に興味がある年頃である。例え、その女の子の正体が女仙で空を飛べるとしても、華琳の可愛らしさに変わりはないのだから。


「分かったよ。蔵の中までは付き合うよ。その代わり、もう空を飛ぶのだけはよしてくれよな」


「うん、分かった」


「それから、おれはゆきる。自己紹介が遅くなったけれど、よろしくな」


「ゆきる、ありがとう!」


 華琳はうれしそうにニコッととびきりの笑顔を浮かべた。


 この手の笑顔に弱いんだよな、男って。


 ゆきるは自分自身のことをよーく把握しているのだった。

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