一章  布団の中から現われし者

 静岡県の東部にある都市――沼図市ぬまずし。そこに酒蔵を構える丞福じょうふく酒造の長男である丞福ゆきるのその日の朝は、窓から差し込む春の穏やかな日差しを浴びて、爽やかに眼を覚ますところから始まった。

 このあとに起きる、爽やかとはかけ離れた事態のことなど、もちろん、まだゆきるは想像だにしていない。


「ふあ~あ」


 ゆきるは日差しに負けないくらいの穏やかなあくびをしつつ、布団の中でもぞもぞと体を動かした。

 今春晴れて高校生になったばかりの十六歳。両親の遺伝子をほどよくブレンドし受け継いだ容貌は、とりあえずイケメンの部類に入るだろう。


 なんだ、もう朝か。早く起きないとな。いつまでも布団の中にいないで、ほら体を動かして、起きようか……。


 心の中ではそう思うのだが、実際はそう簡単に起きられるものでないことは、誰もが経験上知っていることだ。


 でも、そろそろ朝ご飯の時間だし……。やっぱりここは起きて、朝の支度をしないとな。


 今度こそはとばかりに布団に手を付き、起き上がりかけたゆきるだったが、そこで不意にそのままの姿勢で硬直してしまった。

 布団についたはずの右手に違和感――異物感があるのだ。布団の感触とは明らかに異なる、しかし、布団にとても似た柔らかい感触。

 それを敢えて言葉で表現するとしたら――。


 ムニュ。


 ゆきるは体勢はそのままで、ベッドの周辺をぐるっと見回した。勉強机に本棚にタンスと、視界に入ってくるのはどれもいつも目にしているものばかりである。とくにおかしなものは見当たらない。

 手に感じる『ムニュ』さえなければ。


 やっぱりおれの部屋だよな。間違いない。じゃ、この右手に感じる『ムニュ』はいったいなんなんだ?


 混乱し掛ける思考回路をなんとか落ち着かせて、ゆきるはその『ムニュ』の正体を探るべく、再度右手を動かした。決してその『ムニュ』の正体は分かっているが、もう一度触ってみたかったから、などというよこしまな気持ちがあったわけではない……多分。

 

 その結果――。

 

 右手を通して確かにあの人間の肌に特有の温かく、そして適度に柔らかい感触が伝わってきた。


 ひょっとしたらこれは、男にとってはまさに禁断の果実とも言うべき、例のアレなのか? そうだ。間違いない。これははるか古来より男たちの視線を釘付けにして、かつ、男たちの想像力を極限まで育んできたといわれる、あの伝説のオッパ、オッパ、オッパ――。


 普段使わない単語のせいでゆきるの脳内の考えに著しい乱れが生じる。


「ん、ん、うーん……」


 そのとき、悩ましいとも可愛らしいともとれる声が、ゆきるのすぐ近くであがった。

 ゆきるはまるで潤滑油が切れ掛かった機械のように、ギギギと顔を布団に向けた。

 そこにいた。

 人の形にこんもりと盛り上がった布団。この布団の下にあたしは、い、る、わ、よ。そんな甘い囁き声が聞こえてくるようだった。


 いるぞ。間違いなくこの下に目標はいる。


 ゆきるの心臓が人生最大の鼓動音をあげる。


 焦る必要はないんだ。間違いは起こしていないはずだからな。でも、もしもこの布団の下に想像通りの女の人がいたら……。


 心臓の鼓動がギアチェンジして、早くなっていく。


 ええい、こうなったら、やるしかない。いや、ヤルって、そういう意味じゃないけど。


 ゆきるは布団の端をつかみ、勢いよく布団をめくりあげた。


 布団がフットンだ!


 極限の緊張状態の中でくだらないダジャレが脳裏を駆け巡り、消えていく。そして、ベッドの上には想像通りの――いや、想像以上の存在が横たわっていた。

 そこには、ひとりの少女の姿があったのだ。


「わああああああああああーーーーーーーーーーっ!」


 ゆきるは思わず大声をあげていた。


 なんなんだ。これは夢か幻か。それとも……。


 数秒を待たずして、階下から階段を駆け上がってくる足音がした。ゆきるの大声を聞いた家族が、心配して二階に走ってきたのだ。

 その足音を聞いて、ようやくゆきるの硬直状態が解けた。


 このままじゃ、ヤバイぞ。それもかなりヤバイ状況だぞ。


 一瞬でそう判断すると、とりあえず布団を元に戻し、なんでもないといった表情を作って、家族が部屋に入ってくるのを待った。


「ゆきる、どうしたんだ?」


「ゆきるくん、どうしたの?」


「ゆきる、朝っぱらからいったいなんなのよ!」


 両親と姉の三人が三様に訊いてきた。


「ど、ど、どうしたの? みんなそろって……」


 いかにもあやしいというゆきるの口調であった。


「どうしたのって、あんたが大声を出したから、こうして心配して見に来たんでしょうが」


 姉のえみるがゆきるに言い返す。姉といっても、ゆきるとえみるは双子である。もっとも、ゆきるよりも濃く両親の遺伝子を受け継いだえみるは、ゆきる以上に整った顔立ちをした、まさに美少女と呼ぶにふさわしい容貌をしている。さらに、ゆきるにはない両親のをしっかりと受け継いでいた。


「えっ? 大声? ああ、ちょっと悪い夢を見てうなされてさ……。それだけのことだから、もう大丈夫だよ」


「そうか。それならいいが」


「もう、朝から母さんを心配させないでよ」


 父の俊彦と母の彩子は安心したのか、すぐに階下に降りていった。

 

「えみるももういいよ。朝ご飯の途中だろう?」


「――ゆきる、あんた、何か隠してない?」


 えみるが探るような視線をゆきるに向けてきた。性は違えども、このあたりは双子である。シンクロニシティともいうべきもので、ゆきるとえみるはお互いに感覚を共有することが多々あった。今もえみるは、ゆきるの焦る心の内を知らぬ間に感じ取ったのだ。


「な、な、何言ってるんだよ。お、お、おれが、何を隠すっていうんだよ?」


 ゆきるは額に吹き出た特大の冷や汗を隠すべく、えみるの視線から顔をそらした。


「本当に何も隠していないのね?」


「本当だよ」


「本当に本当ね?」


「ああ、本当だよ。それよりも、おれは今から着替えるから、部屋から出てくれよ」


「そう、分かったわ」


 えみるはまだ不満げな顔をしていたが、ゆきるがこれ見よがしにTシャツを脱ぎ始めると、しかたなさそうに部屋から出て行った。

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