最強魔王の前日譚

地雷原

全一話




 砂丘のように緩やかに起伏する草原を、一人の男が歩いていた。身長は人の平均よりも頭一つ以上高い長身、鍛え上げられた体躯からは何者をも恐れぬ力強さを醸し出している。黒髪に黒目、纏うのは旅の過酷さを物語る黒いローブ。


 そんな男が歩く大地――その大陸を、そこに住む者たちはヘイム大陸と呼んだ。


 未開の大森林と様々な資源が眠る険しい山脈、ヘイム大陸に住む者たちはその自然と共に暮らしていた。

 そして、ヘイム大陸と海を隔てて南に位置する場所に、ヘイム大陸とよく似た大陸があった。


 ヘイム大陸同様に未開の大森林が広がり、険しい山脈の代わりに広大な大平原が広がるその名を――ミルズ大陸。

 そのミルズ大陸に住む者たちを人族、ヘイム大陸に住む者たちを魔族とお互いに呼んだ。


 だが、両大陸に住むのは姿形が似た二つの種族だけではない。様々な動植物――さらには、通常の生体から大きくそれた異形の魔物……魔獣と呼ばれる巨獣たちだ。

 その体躯は自然に生きる二つの種族はおろか、どの動物よりも大きく、そして凶暴だった。


 現に今も、草原を進む黒ずくめの男の前に一匹の黒い犬型魔獣が立ちはだかり、人の大きさ程はあろうかという鋭く巨大な牙を剥きだしにし、まるで滝が流れるかのように垂れ落ちる涎は、思わず鼻を塞ぎたくなるほどの悪臭を放っている。


「マーザドゥー……」


 黒ずくめの男がその魔獣の名を呟く――同時に、それに応えるようにマーザドゥーが咆哮を上げた。


 大気を振るわせ、草原の草花を吹き散らすほどの音圧が黒ずくめの男を襲う。それに耐えるかのように男は右手を前に出すが、圧力に押されて両足は後ずさり、ボロボロの黒いマントは激しくはためく。

 男の動きが固まった隙を狙い、マーザドゥーが互いの距離を一瞬で無にするほどの跳躍で空高く舞い上がった。


だが、黒ずくめの男に焦る様子はない。むしろ、突き出した右手の指二本を織り込み、三本の指を立てて呟く――。


『我は錬成する――』


 その呟きと共に、突き出した右手の先に赤い輪環状の魔法陣が浮かび上がる。


『三指の理を持って構成せよ――』


 立てた三本の指に光りが灯る。


『一つは砲弾、一つは爆炎、全てを撃ち砕く砲門を開け――』


 続く言葉と共に光る指を輪環魔法陣の中心へと差し入れると、そこに三つの魔法紋が浮かび上がり、一つの魔法陣が完成する。

 赤い魔法陣は炎のように揺らぎ、燃え上がり、渦を巻いて砲塔を形作り――。


『――業火の砲弾フレイム・バスター!』


 最後の一節を唱えた瞬間、炎の砲塔から轟音と共に撃ち出されたのは巨大な火球。それが上空より襲い来るマーザドゥーの頭部へと着弾――その爆音と共に吹き荒れる炎風は周囲の草花を燃やし、炎に包まれたマーザドゥーは男を飛び越えて後方へと燃え落ちた。


 黒ずくめの男が放ったのは〈魔法〉の砲弾。それはヘイム大陸に住む魔族だけが行使できる、強大な魔力によって自然の摂理を曲げ、力を具現化する奇跡の法だ。

 

 草原に流れていた草花くさばなの甘く爽やかな香りは吹き飛び、代わりに漂うのは草花が燃える臭いと、マーザドゥーの巨躯が焼ける臭い。

 男が後方に振り替える――そこには頭部だけではなく、上半身までもが〈業火の砲弾〉で吹き飛んだマーザドゥの胴体があった。


 黒ずくめの男はゆっくりとマーザドゥーへと近づいていく。燃え落ちた草花を踏みしめ、煙立つ焼けた地面をモノともせずに歩き、〈業火の砲弾〉が着弾した部分へと回り込んだ。


「さて、獣核ビストは残っているかな?」


 獣核――それは魔獣の心臓とも言える臓器。しかし、その形は内臓とは全く違う。それはまるで――巨大な赤水晶の原石。


 焼けた巨躯の内部から僅かに見える赤水晶を掴み、引き抜く。拳ほどの大きさしか見えていなかったが、その終わりがすぐには見えない。

 拳ほどの大きさが腕ほどに、さらには人の子ほどの大きさとなった獣核を引き抜き、やっと胴体から取り出すことができた。


 抜き出した獣核を焼けた大地に突き立て、黒ずくめの男は屈み込むようにして鑑定を始めた。

 獣核は歪んだ水晶の形をしていたが、臓器と呼べるほど赤くもなく、大部分が白く濁っていた。


「これは酷い質だ……」


 そう男が呟くと、獣核に手を当てて魔力を通す。触れている部分が僅かに光り、その輝きが内部へと浸透していく――それに呼応するように、獣核が光りだす。


 だが、白く濁った部分はその輝きが鈍い。

 

「これは使い物にならんな」


 獣核は僅かな魔力に反応し、それを増幅し、新たに魔力を生成することが出来た。

 その使い道は多岐に渡る。新たに生成される魔力に法則や方向性を与えることにより、様々な道具となって生活を助け、武具となって争いの力となった。

 さらには、〈魔法〉を行使することができない人族にとって、それに代わる力を求めるために必要不可欠な素材でもあった。


 しかし、そんな人族の都合など黒ずくめの男にとっては関係ない。地に立てた獣核へと無造作に拳を突き入れ――人の子ほどの獣核は粉々に砕け散った。


 黒ずくめの男は砕いた獣核から赤い結晶だけを拾い上げ、腰に吊るしていた小袋へと入れていく。

 そして、再び草原を歩き出す。進む先が決まっているのか判らないが、その足取りに一切の迷いはなかった。






*****






 ヘイム大陸に住む魔族という種族は、一〇〇〇年とも言われる長命の種族。だが、その長命を生かして大陸全土を支配しているかといえば、そうではない。

 魔族は長命ゆえに、血を紡ぐ本能が希薄。また、子を宿す能力が低いこともあり、積極的に家族を作り、子孫を残すことはしなかった。


 だが、生きていくためにはある程度の人数で集落を作り、生活を共にする方がより良い環境で生きていくことが出来る。

 長命ゆえに一カ所に留まり続けることもまたない魔族であったが、集落を構成する空き家屋は、魔族であれば誰でも自由に使うことが出来た。


 そして、ヘイム大陸の南に小さな集落があった。家屋の数は二〇ほど、住む魔族の数はその倍もいない。

 だが、夕刻にもなると集落に唯一ある食堂にその殆どが集まり、一日の疲れを癒していた。


 そこには、草原で巨大な黒い犬の魔獣、マーザドゥーを狩った男の姿もあった。


「あんた、見ない顔だね。旅の途中かい?」


 円卓で一人食事をする黒ずくめの男に、給仕の女魔族が声を掛けた。その手には麦酒の瓶が握られており、空になったカップへと注ぎ足していく。


「あぁ、北東より南部に咲く薬草の採集にな」


「北東! それに薬草採取って、あんたも錬金術師かい?!」


「錬金術を研究して二〇〇年だ」


 カップになみなみと注がれた麦酒を零さないように持ち上げ、そっと一口、二口と喉を潤し、給仕の問いに答える。


 魔族は長い人生の中で、一つの生きがいを見つける。それは個人によって様々だ。戦うことであったり、この男のように錬金術であったり、はたまた給仕の女魔族のように食堂で働くことに生きがいを見つける者もいる。


「あんたも凄そうね。でも、新しく北東の集落で誕生した十三代目魔王様は“錬金術の王アルケイン”なんて呼ばれるほど、錬金術に精通されているんでしょ?」


「……そうらしいな」


 魔王とは、国を持たぬ魔族たちまとめ上げ、統括する資格を持つ者。種族の中で最強を示し、受け継がれていく唯一の座だ。


「はぁー、一度でもいいから魔王様にお会いして見たいわ。この集落にも巡回に来ないかなー」


 そう言いながら、女魔族はテーブルから離れていった。てーぶるに一人残された黒ずくめの男は、麦酒が注がれたカップを傾けながら食事を続けた。

 だが、どこからか見られている気配を感じて周囲を見渡すと――少し離れた席に、一人で食事しながら黒ずくめの男を見つめる少女がいた。


 子が生まれにくい魔族には珍しい、まだ幼い銀髪の少女。


 少女と視線が重なり、見ていることを気づかれたことに少しばつが悪そうに視線を外したが、どこか悩む表情を浮かべながらそれでも何かを決意して席を立ち、銀髪の少女は黒ずくめの男に近づいてくる。


「何か用か?」


「錬金術師だと聞こえました。本当ですか……?」


「本当だ」


「なら……父様の失った足を治すお薬を作れますか?」


 魔族の〈魔法〉は万能であるが故に、奇跡を行使するには相応の魔力とそれを扱う事が出来る技量。そして――自然の理に関する深い知識が必要だ。


 中でも、傷を癒し病を治すといった生命に関する〈魔法〉は複雑だ。擦り傷、かすり傷、ちょっとした切り傷程度ならば治すことは難しくない。

 しかし、四肢を欠損するほどの大怪我や、体全体を覆う火傷など、自然治癒が見込めないほどの怪我を治せる魔族は少ない。

 だからこそ、病気や怪我に対する治療には錬金術師が調合した薬や、〈魔法〉と組み合わせた魔法薬が必要となる。

 とはいえ、調合薬や魔法薬であっても完全に失った足を再生するほどの薬を作るのは容易ではない。


 この銀髪の少女は、見ず知らずの錬金術師にそれほどの妙薬を求めていた。


「失ってどのくらいだ」


 しかし、黒ずくめの男は安易に不可能だとは言わないが――まるで、欠損した足を取り戻せるかのように問い返した。

 それが銀髪の少女にも伝わったのだろう。不安げな表情が打って変わり、歳相応の可愛らしい笑顔を浮かべ――。


「は、半年です!」


 元気よく返した。その声に思わず口元が緩んだのは黒ずくめの男だけではないだろう。食堂で夕食をとる他の魔族たちもが笑顔となり、少女と男のやり取りに耳を傾けていた。


「なら、これで十分だろう」


 黒ずくめの男は黒いローブの内側へと手を入れ、小瓶を一つ取り出しテーブルへと置いた。透明なガラス製の小瓶の中には、紫色を基調とし虹色の輝き宿した液体が半分ほど入っており、さらには紅い宝石がそこに沈んでいる。

 小瓶全体や内底には魔法紋が刻まれていて、この小瓶と中の液体が何かしらの魔法的効果を宿していることは誰の目にも明らかだった。


 そう――その小瓶をテーブルに置いた時から、食堂中の魔族が集まり小瓶を見つめていた。


 小さな集落だ。誰もが少女の父親を知っているし、足を失うほどの大怪我をしたのも知っている。

 母親は父親の介護をするため離れることが出来ず、少女が日々の食事を食堂で一人寂しくとっているのも知っている。


 この集落には四肢欠損を再生させるほどの〈魔法〉を使える者はいなかった。出来ることといえば、痛みを和らげ、死なないようにすることくらいだ。

 だが、自らを錬金術師と言った黒ずくめの男は、四肢の再生をこともなげに受け入れ、傷薬を出すように小瓶を出して見せた。

 それは、集落の魔族たちが驚き集まるのも無理はないことだった。


「これで――父様の足治るの?!」


「この液体を一日一回飲むといい、三日もすれば体力が回復し、五日もすれば失った足も元通りだろう」


「ほんとにっ!?」


「あ、あんた……そんなに凄い魔法薬を簡単に出して……対価に何を望むつもりだい」


 魔法薬に喜ぶ少女とは対照的に、いつの間にか給仕の女魔族まで傍に立ち、不安げな一言を呟いた。


 それほど多くない人数で集落を作り暮らす魔族の社会では、人族と違って商品交換の媒介物を貨幣に頼ってはいない。もちろん貨幣は存在するが、小さな集落の中ではむしろ物々交換が主だ。

 この食堂でも、料理の対価は直接的な食材や獣核などで支払うことが主となっていた。


 だが、目の前の魔法薬はそう簡単ではないだろう。四肢を再生させるほどの妙薬を得るために差し出すものが、まだ幼い少女に――また、その家族に出せるとは到底思えなかった。


「そうだな……この集落に空き家屋はあるか?」


「あるよ! あたしの家の近くにある!」


 少女は円卓に両手を突き出し、ピョンピョンと跳ねながら男の質問に即答した。


「なら、そこを一晩借りよう。お前には家屋までの案内と、荷物持ちをしてもらう――それが、対価だ」


 黒ずくめの男が出した条件に、周囲の魔族たちは言葉を失った。あまりにも安すぎる対価……魔法薬と言うのは冗談か嘘なのではないかと思うほどだが、黒ずくめの男は薬草採集後に集落へ立ち寄り、様子を見に来るとまで言っている。


 魔法薬の効果に自信があるのだ。そして、銀髪の少女に嘘をつく理由もない。


 黒ずくめの男は立ち上がり「ご馳走になった」と、一つ礼を呟いて食堂の外へと歩いていく。その後ろには、銀髪の少女が半年ぶりに見せた心からの笑顔と歓喜を体全体で表しながらついていく。


 食堂に残された者たちは、ただただその背中だけを見つめていた。






*****






 空き家屋に案内して貰う代わりに、四肢欠損すら回復させる魔法薬を銀髪の少女へと渡した黒ずくめの男は、翌日の朝には集落から姿を消していた。


 そして数日後、その姿は集落のさらに南の海岸線にあった。


 砂浜に立ち、はるか南を見つめて佇んでいる。おもむろに右手を顔の前付近で握り込み、目を閉じて何かに集中していくと――赤い光が右こぶしから溢れ出る。

 次に右手を開いた時には、魔法薬の小瓶に沈んでいたものと同じ紅い宝石がそこにあった。


 魔族が生み出す紅い宝石――それは魔力を結晶化させたものであり、用途は多岐に渡る。たとえば――黒ずくめの男が紅い宝石へ左手をかざし、三指を艶めかしく動かしながら魔力をさらに注入していくと、紅い宝石に五重の輪環魔法紋が現れる。


 自転と周転する青い魔法紋に満足したのか、黒ずくめの男は一つ頷きそれを海へと投げ入れた。


「来い、ヘリアル」


 その呟きに呼応するように、紅い宝石が落ちた場所が海よりも青く輝きだすと、海水が盛り上がりながら人に近い形態を形作り始めた。

 僅かな時間で海水が固定化した姿は――下半身が魚類の尾、上半身は魔族と同じ人型だが、頭部はない。首の部分が肩まで盛り上がり、その中央に赤い単眼が光る――魚人型ヘリアル。


 黒ずくめの男が生み出したものは、無機生命体ゴーレムと呼ばれるものであり、魔族たちはそれをヘリアルと呼んだ。

 核となった紅い宝石を生み出した人物を主人マスターとし、命令には絶対服従。その性能は主人の戦闘技術や知識に比例し、形態も主人の思うがままに作ることができる。


 その特徴は人族の行使する奇跡と似ているが、それと張り合えるほどのヘリアルを生み出せる魔族は少ない。


 黒ずくめの男は海上に立つヘリアルに満足すると、同じように紅い宝石をもう一つ生み出し、今度は空高く投げて再びヘリアルの名を呼ぶと、今度は上空に緑色の光が輝く――上空から舞い降りたのは、一体の海鳥型ヘリアルだった。


「南に行け。見たもの聞いたものを全て俺に伝えろ」


 男が二体のヘリアルに命令を下すと――魚人型は海中へ、海鳥型は空高く舞い上がり、共に南へと移動を開始した。


 空と海に消えていくヘリアルの姿を見つめていた黒ずくめの男は、後ろに振り返ると三つめの紅い宝石を生み出し、今度は砂浜へと投げた。


「ついてこい」


 黒ずくめの男は新たに生み出したヘリアルを見ることもせずに海岸線から離れ、視線の先に見える林へと向かって歩き出す。その後ろには、砂で構成された中型で赤い単眼を持つ犬型へリアルが追随していた。


 魔族が生み出せるヘリアルの数は内包魔力に左右されるが、シンプルな命令だけで動かすだけならば、一〇体でも二〇体でも生み出すことができる。

 その代償としてヘリアルの性能は一段と低下していくが、黒ずくめの男が生み出したヘリアルの動きに、性能が低下している様子はない。


 林の中を進んでいくと、女魔族の給仕に話していたように、黒ずくめの男は木の根に生える薬草の採取を始めた。犬型へリアルは付いているのかわからない鼻で、その補佐をしている。


 だが、犬型ヘリアルが嗅ぎ分けたのは薬草の香りだけではなかった。薬草採取を続けて数時間が経ったころ、地面を嗅いでいた犬型へリアルが不意に林の奥を見つめ、黒ずくめの男から離れてその先へと駆け出していく。


 黒ずくめの男が犬型ヘリアルの動きに気付いた様子はない。しかし、薬草を採集する手をとまり――。


「……人族か」


 一言呟く――だが、視線は手元のピンクの花をつける薬草に向けたまま。とまった手も再び動き出し、薬草を摘んでは腰の小袋へと入れていく。


「数は四――いや、五か。何日も体を洗ってもいないのか、臭くて叶わん」


 薬草の採取を続けながらも――黒ずくめの男はどこかを見て、何かを感じていた。


 それらは全て、ヘリアルが見て、感じているものだ。


 主人とヘリアルは視覚・聴覚・嗅覚などの感覚を共有することができ、どれだけ離れていても、大気中に漂う魔力に情報を載せてやり取りすることができる。


 黒ずくめの男は今、目の前の薬草のほかに脳内でヘリアルの視界を共有している。そこに見えているのは五人の男たち、薄汚い毛皮のコートに布切れを繋ぎ合わせただけの粗末な衣服。

 手には粗雑な片手斧、小さな斧刃にこびり付くのは黒い血の跡に錆ばかり、刃物として使うつもりがないのだろう。

 相手を殺すだけならば、斬り刻む必要はない。ただそれを頭に叩きつければことは済む。


 人族の男たちは何かを探すように林を彷徨っていた。探す先は地面でも林の樹々でもない。その先にある何か……どこかにあるはずの何かを探していた。


 その後ろを追随する犬型へリアルには気づいていないようだが、人族はヘイム大陸に住んではいない。すべて南のミルズ大陸から海を渡り上陸し、目的が達成されれば再び海を渡って自分たちの領土へと帰還する。


 人族がヘイム大陸にやって来る目的とは――いや、それよりもだ。


 黒ずくめの男は木の根に生える薬草を採取するのをやめて立ち上がり、人族の男たちが進む方向へと振り返り、後を追うように歩き出した。




「本当にこっちか?」


「あぁ、方位は合っている。この林を抜けた先にあるはずだ」


「喋るな、どこに魔族のゴーレムがいるか分からん。本隊が来る前に見つけられなければ、胸を裂かれるのは俺たちだぞ」


 人族の男たちは言葉少なく足早に林の中を進んでいた。だが、その後方には中型犬ほどの犬型へリアルと、その場に追いついた黒ずくめの男の姿があった。


「奴らの気を引け――行けっ」


 黒ずくめの男の呟きに呼応し、犬型へリアルが走り出す――その動きに、人族の男たちはすぐに気づいた。


「何だ?!」


「ゴーレムだ!」


「魔族が近くにいるはずだ、探せ!」


 犬型へリアルの動きに気づいた男たちの反応は素早かった。即座に散開し、姿勢を下げて錆びた斧刃の片手斧を強く握る。

 そして、継ぎはぎだらけの汚れた上着に手を入れ、引き抜いた時には手に赤い結晶――獣核の結晶を握っていた。


「来い、ドール!」


 人族の一人が獣核の結晶を掲げて吠えた。


 その叫びに呼応するように獣核は赤く瞬き、その光が映し出す人族の影が不自然に膨張し、蠢くように形を変化させて実体化していく。

 そして、獣核を取り出して掲げたのは一人ではない。五人全員が何かを呼び、それに応えるように影が蠢いた。


 気づけば、五人の男たちの背後には五体の何かが佇んでいた。


全身に鋼鉄製の鎧を纏った巨躯の戦士。


馬ほどの大きさの、見たこともない狼。


全身が毛に覆われ、四本の腕を持つ大猿。


大きな翼に鋭い嘴を持った怪鳥。


そして、自然界の生物とは全く違う異質な形状――宙に浮かぶ瞼が閉じた大目玉。


 五人の男たちが行ったのは、人族が生み出した奇跡――〈召喚〉。


 魔獣より採取された獣核を媒介とし、自身の精神・欲望・記憶などを反映して形作る人形ドール。その形態は人型、鳥獣型、それに妄想の産物ともいえる異形の形態を持つものと様々だ。

 魔族の生み出すヘリアル同様に視覚・聴覚・嗅覚などの感覚を共有し、召喚者の命令を自動で実行するだけではなく、召喚者の意思で自由に動かすこともできた。


 五対二だった状況は瞬く間に一〇対二へと変わったが、増援を呼んだのは人族の男たちだけではない。黒ずくめの男もまた、両手に赤い光を灯らせて紅い宝石を準備していた。


「起き上がれ、ヘリアル」


 左右に投げられた紅い宝石が林に落ちると、土色の光が周囲の土と木を巻き込んで包み込む。地より起き上がったのは、土と木が混ざり合って出来た人型へリアル。

 黒ずくめの男の倍はあろうかという身長に、巨大な四肢。やはり頭部はなく、盛り上がった首に赤い単眼が光っていた。


「いたぞ、あそこだ!」


「ゴーレムを増やしやがった、大物だぞ!」


「こりゃぁいい、あいつから奪えば発見がどれだけ遅れてもお咎めはなしだ」


「犬のゴーレムはグレッグ、お前が相手しろ! ピッチャー、周囲を探索して他に隠れていないか探せ。トルマ、ゲイツは大型ゴーレムだ。魔族は俺が仕留める!」


 人族たちのリーダーと思わしき男が四人に指示を飛ばすと、それに応えるように声が上がり、ドールと共に動き出した。


「護れ」


 黒ずくめの男も人型ヘリアルに命令を飛ばし、右手を前に出す――同時に、二体の人型へリアルと鋼鉄の戦士、四つ腕の大猿がぶつかり合う。

 犬型ヘリアルは馬ほどの大狼と間合いを計りながら睨み合っていた。


 人族の男たちは一歩下がった位置でドールとヘリアルの戦闘を見ている。ドールを召喚した本人が前に出ることは稀であり、人の力を遥かに超えたドールとヘリアルの戦いに介入するのは危険極まりない。

 ドール召喚中の召喚者の役割は、自身の身を守ること。逆に人族との戦闘において勝利を収めるには、ドールを仕留めるよりも召喚者本人を仕留める方が容易い。


『我は錬成する――三指の理を持って構成せよ、一つは豪雨、一つは刃――』


 黒ずくめの男が〈魔法〉の詠唱を開始したのを見ると、魔族の相手をすると豪語した人族の男が横に浮かぶ大目玉へと命令を飛ばす。


「ドール、詠唱を完成させるな!」


 その一言に大目玉は即座に呼応し、閉じられた瞼の周囲から幾本もの触手が伸び出し、瞼がゆっくりと開く――その奥にあるのは金色に輝く縦に長い瞳孔。

 その輝きが収束していき、殺意と暴威を持った光線となって黒ずくめの男へと照射された。


『我は錬成する――』


 大目玉の動きに黒ずくめの男が瞬時に反応する。自由になっていた左手を腰の前に出し、二つ目の〈魔法〉を同時に詠唱する。


『三指の理を持って構成せよ、一つは鏡、一つは盾、迫る脅威を跳ね返す屈強なる盾となせ――鏡の盾アイギス!』

 

 詠唱が完了した瞬間――男の前に清流の渦が生まれ、水鏡のように周囲を映し出す鏡の盾となった。そこへ大目玉の光線が直撃し、反転――光線は大目玉へと照射され、絶叫を表すかのように触手が激しく蠢き、大目玉は眼球を焼き抜かれて地へと落ちた。


「なっ?! そんな一瞬で〈魔法〉の詠唱が完成するはず――」


 大目玉の召喚主は自身のドールが倒されたことよりも、黒ずくめの男が瞬時に二つ目の〈魔法〉を行使したことに驚いていた。


『我が前に死出の雨を降らせよ――刃の暴雨ブレイド・スコール!』


 そして右手の〈魔法〉が行使される。


 上空にドス黒い雲が生まれ、雷鳴にも似た数多の金属音が鳴り響く。黒雲には剣閃のような閃光が走り、瞬く間に戦闘区域上空に広がった。


「ドジル、まさかやられたのか?!」


「お、おい! こんな広範囲魔法聞いてないぞ!」


「ドールを戻せ! 何か来るぞ!」


 後方でドールとへリアルの戦闘を見守っていた人族の男たちも、上空に広がった黒雲に気がついた。


 だが、すでに抗う術も時間もない。


 男たちが見上げる黒雲から豪雨の如く降り注ぐ輝く刃は、林の葉を舞い散らせ、樹木を切り倒し、ヘリアルたちをも巻き込んで動く者すべてを斬り刻む。


 鋼鉄鎧のドールには何本もの刃が突き刺さり、四本腕の大猿はその六肢を斬り飛ばされていく。大狼のドールは降り注ぐ刃を回避しようと跳ね回っていたが、犬型ドールの体当たりに体勢を崩し、動きがとまったところに降り注ぐ刃によって地に刺しとめられていく。

 召喚者である人族の男たちもまた、無事では済まなかった。輝く刃に貫かれながらも迫る人型へリアルによって殴り倒され、投げ飛ばされ、押し潰された。


「ひぃ、ひぃぃぃー」


 生き残ったのは怪鳥のドールを召喚した男のみ。周囲を索敵するため、戦闘区域から離れていたおかげで生き延びることができた。


 いや、そう断言するのは早計かもしれない。


「どっ、どっ、ドール‼」


 目の前に降り注いだ悪夢、そして広がる惨劇に恐怖し、最後の一人は腰から地に座り込んで後ずさりしていく。唯一の助けとなる自らのドールを呼び寄せ、上空から急降下してきたドールの足にしがみ付き、空高く舞い上がった。


 黒ずくめの男はその逃亡劇を黙って見ていたが、焦る様子はない。むしろ、上空から見下ろす人族の男の方が明らかに焦っていた。


「あいつはヤバイ……早く知らせないと……」


 しがみ付く怪鳥の足から黒ずくめの男を見下ろしたのはほんの僅かな時間だった。すぐに進路を南の海上にとり、ドールは速度を上げて飛び去って行った――かに見えた。


「落とせ」


 そう呟いたのは黒ずくめの男。


 上空を飛行する怪鳥は、その速度よりも遥かに高速で飛翔する何かによって両断され、人族の男は助けを失って地に落ちていった。


 人族の男が間違いなく絶命すると判断したのだろう。黒ずくめの男は輝く刃が降り注いだ方へと振り返り、人族の死体からは獣核の結晶を、倒れたヘリアルからは素となった紅い宝石を拾い上げ、上着の中へと仕舞っていく。


 獣核の結晶と赤い宝石は一時的に魔力の生成能力を失っていたが、時間をかけて自然界に満ちた魔力を吸収するか、直接魔力を流し込むことで使いまわすことが可能だった。


 人族のドールに対し、魔族のヘリアルの方が非常に優秀に見えるかもしれないが、本来ならばここまで一方的な戦闘になることはない。


 〈召喚〉は〈魔法〉を使えない人族が魔族を狩るために生み出した技術。まだまだ荒削りな技術だったが、魔族と比べて高い繁殖能力をもつ人族は、数の暴力とドールによって個体数が少ない魔族を襲う。


 魔族は人族の襲撃によって、その数を確実に減らしていた。


 黒ずくめの男は人族たちの体を順番に調べていた――その後姿を見守るように、怪鳥のドールを両断した海鳥型へリアルが静かに地へと舞い降りる。


「やはり、先遣隊か」


 黒ずくめの男は人族たちが皆同じ紋章を体に墨入れしているのを確認すると立ち上がり、遥か南を覗くように振り返る――。


 その意識は海上を南下している魚人型ヘリアルと共有していた。へリアルの目を通して海上を探索するが、懸念していた影は見当たらない。


「ちっ、まさか来るのが遅かったか」


 人族がしがみ付く怪鳥が逃げることには全く焦らなかった男が、海上で何も見つけられないことに焦りだす。


「集落へ飛べ」


 後方に控えるように静かに待機していた海鳥型ヘリアルに指示を飛ばすと、黒いローブを翻して林を通過するために走り出した。






*****






 黒ずくめの男は林道を駆け抜け、南部の海岸線に立つ前に寄った集落へと急いでいた。だが、集落まで数時間で到着できるような距離ではない――少なくとも数日は掛かる。

 今は先行させた海鳥型ヘリアルの視界を見ながら、集落が見えてくるのを待っていた。


 しかし、突如その視界が揺らぎ、ヘリアルとの視界共有が途切れ――その反応自体が消失したことを感じとった。


 消失した理由は明らか――撃墜されたのだ。


 先を急がせたあまりに、周囲の警戒を疎かにしていた。それでも攻撃を仕掛けられる距離に何かがいれば、ヘリアルが気づかない筈がない。

 つまりそれは、ヘリアルの感知範囲外から仕掛けられた攻撃だということだ。そんなことができるドールは……。


「不味いな。本当に来ているのか……勇者」


 黒ずくめの男は少ない仲間からある情報を得ていた。ヘイム大陸と海を隔てて南にあるミルズ大陸――そこに存在する人族のとある国家が、〈召喚〉を超える奇跡を成功させた。


 それが〈勇者召喚〉。


 本来極僅かな魔力しか持たない人族が、この世界とは別の場所から同族を召喚する。その結果、召喚された者には魔族をも上回るほどの大魔力が宿った。

 そして、その者が獣核よりも〈召喚〉に適した媒介を手にしたとき、奇跡は神変となって更なる力を人族に与えるという。


 その力を手にした勇者が、軍を率いてヘイム大陸に向かっている。


 その真偽を確かめるために、黒ずくめの男は南部の海岸線へと向かった。ミルズ大陸からヘイム大陸に渡るには海上を船で移動するしかない。

 場合によっては逃げ場のない海上で仕留めるつもりだったが、魚人型と海鳥型ヘリアルを海へ向かわせた時には、すでにヘイム大陸へ上陸していた。


 偵察は空振りに終わり、先手を取るつもりが後手に回った。その結果がもたらすものは――。




 数日後、集落までもう一時間も歩けば到着するところまで戻ってきた。


 黒ずくめの男は人族に集落が発見される前に戻ってこられたと一瞬安堵したが、次の瞬間には集落がある方角から黒い煙が何本も立つのが見えた。


 間に合わなかった。


 犬型へリアルと鳥型へリアルを新たに生み出し、周囲に人族が残っていないかを確認させつつ、黒ずくめの男は集落へと急いだ。


 集落は燃えていた――いや、正確には巨大な何かに踏みつぶされ、ガレキの山となった家屋が燃えた後だった。

 家屋を破壊した何かは二つ、どこか馬車の轍にも見える地面を抉るような痕跡を残し、集落の中央へと続いていた。


 崩壊した家屋に燻る火種が黒煙を立たせ、周囲には死の香りが充満している。瓦礫の山を一つずつ覗き込むが、魔族の姿はない。食事をした食堂にも、一晩の宿をとった空き家にも、どこにも――だれも――。


 決して広くはない集落を、黒ずくめの男は彷徨いながら歩いていた。


 人族の狙いはわかっていた。だからこそ、黒ずくめの男は探し回った。人族にとって、魔族を生きて連れ去る理由はない。見つけ次第殺す、そして――。


 やがて、集落の奥にある集会場が見えてきた。同時に見えたのは、何本も打ち立てられた十字架。それは死者を弔う墓標――ではない。生者を死出の旅路へと誘う道標。


 その一本一本に、この集落で暮らしていた魔族たちがはりつけられていた。両手両足を縛られ、男も、女も、同じように上半身をさらけ出し、首から腰までを真っ直ぐに切り開かれていた。


 人族と同じ赤い血を流し、内臓物を垂れ落とし、明らかに体内を弄った後……そこには、魔族としてあるべきもの――魔核マテリアルがない。


 魔核――それは人族がヘイム大陸に渡り、魔族を狩る最大の理由。


 魔獣を狩って獣核を手に入れているのは、手に入りにくい魔核の代替品でしかない。

 人族の行使する〈召喚〉という奇跡は、魔核を媒介にすることで最高の結果を得ることができる。

 だからこそ人族は獣核を手に入れ、軍を率いて多数の兵士とドールによる数の暴力で地力に勝る魔族を狩る。


 黒ずくめの男は磔にされた魔族を一体一体、丁重に十字架から下していく。しかし、魔族の魂は魔核に宿っている。魔族の伝統にのっとり火葬で送ったとしても、その魂が次の輪廻へと向かうことはないだろう。


 やがて、すべての魔族を丁重に弔う準備ができた。後は弔いの火を灯すだけ、右手をかざし――動きが止まった。


「……いない?」


 集落に入ってから一言も発しなかった黒ずくめの男が不意に漏らした言葉。


 並べられた遺体の中には、集落に住むすべての魔族が狩られたのならば、当然あるべき遺体がなかった。

 右から左、左か右、並べた遺体には間違いなくいない。集会場の別の場所にあるのかと、周囲を見渡すが他のどこにも十字架はない。


「ヘリアル、少女を探せ!」


 そう――磔にされていた魔族の中には、あの食堂で出会った銀髪の少女の姿がなかった。主人の命令に犬型へリアルが集落へ駆け、鳥型ヘリアルが空高く舞い上がった。 


 捜索の結果がヘリアルの視界を通して黒ずくめの男に伝わるまで、そう時間はかからなかった。その光景が見えた瞬間――足元から魔力の奔流が噴き出し、黒いローブが激しくはためく。

 自ら発した魔力の奔流を煩わしそうに右手を振ると、その流れは暴風となって突き立てられた十字架を吹き飛ばした。


「欲に溺れた愚か者どもが……」


 黒ずくめの男は魔族の遺体から振り返り、犬型へリアルが見つけた少女のもとへと向かった。




 銀髪の少女が倒れていた場所は思った以上に近かった。集会場を囲む樹々の影――ぽっかりと空が開いた僅かな空間に、無残な姿で横たわっていた。


 着衣はその役割を二度とこなすことが出来ないほどに破れ、まだ幼い体には欲望の残滓がこびりついている。胸は裂かれていない、この少女の魔核はまだ成長しきっていない。取り出したところで、獣核以下の魔力しか生成できないだろう。

 だが、その白い体には赤く膨れ上がった痣がいくつもあり――この体が、あらゆる欲望の捌け口として使われたことは明らかだった。


 短命の人族など、長命の魔族から見れば取るに足らない存在――多くの魔族がそう考えていた。黒ずくめの男も、ほんの少し前まではそう考えていた。自分の人生を掛けた錬金術への傾倒さえ邪魔されなければいいと……。


 銀髪の少女の周辺に漂う不快な臭いに顔をしかめながら、黒ずくめの男は遺体も運ぶために近づいていき、突然走り出した。


 僅かに上下した白い胸、痙攣する指――銀髪の少女は生きていた。


『我は錬成する、二指の理も持って構成せよ、一つは治癒、一つは浄化、在りし日の姿を取り戻せ――治癒の光ヒール・ライト


 黒ずくめの男は銀髪の少女の傍らに膝をつき、すぐに回復の魔法を唱えた。右手にかざされる白光の輪環魔法陣から暖かな光が降り注ぎ、欲望に傷つき、穢された体を包み込んでいく。

 体中の痣や傷は光が瞬くたびに再生していき、怪我など最初から全くしていなかったかのように、綺麗な白い肌へと変わっていく。


 破れた服まで再生することはなかったが、体中にこびり付く不快な残滓も消え去り――体だけは、傷一つない姿へと戻すことが出来た。


 上下する幼い胸の鼓動が安定し、弱々しい呼吸も落ち着きを見せた。だが、銀髪の少女の意識はまだ眠ったままだ。

 黒ずくめの男は銀髪の少女を優しく抱き起し、黒いローブを脱いで包み込むと、周囲に漂う不快な臭いが届かない場所へと運んだ。


 集会場の入り口付近の木陰に、銀髪の少女を寄り掛からせるように降ろし、黒いローブの下にも黒塗りの軽装レザーを着ていた男は、すでに〈魔法〉でも癒すことのできない魔族たちのもとへと戻った。


「魂の輪廻からは外れてしまったが、せめて体だけはそこへ送ろう」


 黒ずくめの男は指先一つに炎を灯すと、その火種を弾いて魔族の遺体に火をつけた。

 純粋なる炎属性の塊は瞬く間に並べられた遺体たちに燃え移り、灰も残らぬほどの豪火となって燃やし尽くした。


 ほんの僅かな時間だったが、黒ずくめの男は微動だにせずにその炎を見つめていた。だが、その表情に先ほどのような激しい感情の色はない。同族の死を悲しむわけでも、哀悼に暮れるわけでもない。

 ただただ炎を見つめ、燃やし尽くしたことを見届けて振り返り――銀髪の少女と視線が重なった。


 少女は木に背を預けたまま、無表情に男を見ていた。その大きな体越しに、同じ集落で過ごしてきた家族たちが焼かれていくのを見ていた。

 

 青い目は白く濁り、長命の魔族が僅かな時しか持たない若さの輝きは消え失せ、小さな唇は彫像のように固く閉じられていた。


「目が覚めたようだな」


 黒ずくめの男が銀髪の少女に問いかけるが、僅かに目が動いただけで返事はない。


「何か覚えているか?」


 銀髪の少女は黒ずくめの男を見つめ続けている。


「治っていない傷はあるか?」


 銀髪の少女からは返答はおろか、首を振るだけのゼスチャーすらない。自然と黒ずくめの男の言葉も続かなくなり、二人は黙って見つめ合うだけとなった。


 沈黙が流れる中、黒ずくめの男は銀髪の少女がどういう状態にあるのかを考えていた。


 豪火で焼いた魔族の遺体の中には、銀髪の少女に頼まれて失った足を癒した父親と母親の姿があった。


 食堂で毎日のように顔を合わせていた給仕の女魔族の姿があった。


 父親の傷が治ることを共に喜んだ魔族たちの姿があった。


 その全てを一瞬で失い、魂の宿る魔核は奪われた。取り戻したところで、そこに親の――仲間の魂はもう存在しない。

 自らの体は欲望の沼に沈められ、引き揚げて傷を癒したところで心までは癒せない。

 まだ魔族としての生き甲斐を見つけていない銀髪の少女の心には、余す処なく絶望が満たされているのだろう。


 心を失い、感情を失った無表情の少女に、自分は何がしてやれるのだろうか?


 そんな義理も必要もないはずの自問に対して出した答えは――。


「人族に復讐をするか?」


 その一言に、白く濁った無表情の少女の目が僅かに光ったように見えた。


「ならば、俺がそのすべを教えてやろう。だが、タダでは教えない。代価はそうだな……後で決めるとしよう」


 少女は何も言わなかったが、僅かに顎を下げて頷いた。






*****






 数日後、黒ずくめの男と無表情の少女は焼けた集落を出発した。


 集落を襲った人族に復讐を果たすのならばすぐにでも出発するべきなのだが――今後の生活を考えると、集落に残された日用品などを回収しておく必要があった。

 それに、人族の行き先を見失う心配もない。集落を抉るように続く轍の跡――この先に目指す相手がいることは明らかであり、ヘリアルを送り込んでその位置も捉えていた。


 今は集落に残っていた荷馬車を馬型ヘリアルに引かせ、黒ずくめの男は荷台で無表情の少女に〈魔法〉に関する講義をしていた。

 というより、親が子供に絵本を読み聞かせるように、黒ずくめの男が無表情の少女へ魔導書グリモアを読み聞かせていた。


 本来、子に〈魔法〉を教えるのは親の役目であり、基本を教え終わった時が、子の巣立つ時でもある。

 まだ両親に何も教わっていなかったと思われる無表情の少女は、まだまだ愛情を注ぎ込まれている多感な時期だったはずだ。


 それが今はどうだ。少女の表情は一切変化せず、食事のときも、寝るときも、起きたときにも変化はない。

 読み聞かせている魔導書の内容も、頭に入っているのか、いないのかは黒ずくめの男にも判らない。


 だが、黒ずくめの男は淡々と読み聞かせ、時には実演し、むひょうよう少女に挑戦させた。


 人族を追い始めて三日目の夜。目標との距離は目前にまで縮まっていた。明日の日中にはその姿を見ることが出来るだろう。

 大森林の樹々をなぎ倒し、地を抉る二本の轍の傍で野営の準備をし、無表情の少女にはたき火の上に鍋を掛けて夕食を作らせている。

 

 作らせているといっても、無表情の少女は料理が出来るわけではない。

 干し肉や乾燥野菜を鍋に入れ、水と僅かな調味料を混ぜ合わせただけの簡素なものだ。無表情のまま鍋の中をゆっくりとかき混ぜ、底が焦げないようにだけ注意させている。


 その間、黒ずくめの男は少し離れたところで魔力の結晶である紅い宝石――”魔核のプルト”を生み出し、ヘリアルを創造するときと同じように手をかざし、魔力を込めた指を動かしながら細工をしていく。


 黒ずくめの男が行っているのは生涯を掛けて研究し続けている錬金術の技――彼は便宜上、それを〈紋章術〉と呼んでいた。

 それはまだまだ研究段階の技だが、”魔核の種”を媒介にヘリアルを創造するのではなく。魔力を込めた”魔核の種”に〈魔法〉を封じ込め、僅かな魔力で即座に発動する道具として作り変える技術だ。


 ”魔核の種”に細工をし終えると、集落で拾った宝石が取り外されたペンダントに嵌め込む。大方、人族が宝石だけを盗っていったのだろうが、そのフレームも貴重な魔法銀ミスリルで出来ているペンダントだった。

 ”魔核の種”と合わせることで、体から発する僅かな魔力が”魔核の種”へと伝わり、刻み込んだ〈魔法〉が行使されるだろう。


 目の前に吊るして出来栄えに満足していると、その視界の先に木の椀と匙が差し出された。


 視線を横に向ければ――無表情の少女が何も言わずに椀だけを差し出して立っていた。中には今夜の夕食がたっぷりと注がれ、白い湯気とほのかに甘い香りを漂わせている。


「出来たか、なら食事にしよう」


 椀を受け取り、代わりに今作ったばかりのペンダントを少女へ投げ渡した。


 突然投げられたペンダントを両手にもたつかせながら受け取った無表情の少女だったが、目の前に吊るして眺めた後、視線だけを黒ずくめの男へと向ける。


「肌身離さず身に着けておけ」


 黒ずくめの男はそれだけ言い、椀の中身を軽くかき回してから口へと運ぶ。その様子を、無表情の少女はペンダント越しにじっと見ていた。

 そして、黒ずくめの男の眉間に皺が寄るのを目撃したが、黒ずくめの男は何も言わずに椀の中身を食べ続けていた。


 無表情の少女の視線がペンダントの紅い宝石へと戻る――頭から首にかけ、もう一度宝石を確認して上着の中へと入れた。

 黒ずくめの男の横に座り、無表情の少女も自分の椀を持って中身を口に入れ――極僅かに目元が震え、眉間が寄ったのを黒ずくめの男は見逃さなかった。


「くっくっく、早く上達することだな。食事は生きる活力であり、幸福を感じる一時だ。不味い食事はそれすなわち不幸であり、生き地獄とも言える。俺は地獄の亡者に食事を頼んだ覚えはないぞ」


 黒ずくめの男の言葉に一瞬視線を向けた無表情の少女だったが、夕食は不味くないと言わんばかりに椀の中身を口へ運び、空にするや否や黒ずくめの男の椀も奪いとって片づけに立った。


 その姿を見て、再び黒ずくめの男が苦笑した。


 翌日、黒ずくめの男と無表情の少女はまだ日の出を迎える前に出発し、大森林を削り取る轍に沿って進みだした。


「お前にはコレを渡しておく」


 轍の伸びる先を見つめている少女に、黒ずくめの男は三つの”魔核の種”を渡した。どれも細かく文字が刻まれており、その文言は〈魔法〉を詠唱する時の魔文マジックスペルと酷似していた。

 これもまた、黒ずくめの男が研究している〈紋章術〉の一つ。本来ならば口頭で唱える必要がある魔文を”魔核の種”に刻むことで、声に出さなくとも〈魔法〉を構成できるようになる代物だ。


 集落で無表情の少女を拾ってから四日、彼女はここまで一言も話すことはなかった。感情の起伏は乏しく、人族による襲撃のショックで心と言葉を失っているのは明らかだった。


「いいか、前準備は俺がやる。お前は冷静に、丁寧に魔法陣を構成して全ての魔力をつぎ込め……恨みも、怒りも、悲しみも、全てをその一発に込めろ」


 無表情の少女は三つの”魔核の種”を受け取ると、小さな手に余るほどの大きな紅い宝石をじっと見つめ――やがて、黒ずくめの男の言葉に応えるように視線を上げた。

 白く濁った瞳には、復讐を果たすことを誓った僅かな光が灯っている。その眼光を見れば、黒ずくめの男には無表情の少女の返答など必要はなかった。


 そこからは二人とも無言――少女はもともと言葉を失っていたが、黒ずくめの男も口が軽いタイプではなかった。

 馬型へリアルによって引かれていく荷馬車の上で、もう目の前にまで迫った目標を見据えてその時を待つ。


 そして、それが視界に入った――大森林を掻き分けて進む、巨大な木造戦艦の船尾だ。


 鳥型ヘリアルの視界を通してそれを見たときは、黒ずくめの男は見えているものが信じられなかった。

 高木が立ち並ぶヘイム大陸の大森林を進む木造戦艦は、海を航海する戦艦と似ているようで違った。


 巨大な魔獣にも匹敵する大きさもさることながら、その甲板に帆はなく。代わりに船首から船尾にまで続く巨大な建造物が載っていた。

 果たして、どのようにして大森林を航行しているのかと鳥型ヘリアルを使い調べてみると、戦艦の両側舷に巨大な車輪が計四つ付いており、それこそが集落をつぶし、大森林を削り取る轍の正体だった。


 これほど巨大な水陸両用の戦艦を人族の手だけで造り上げることが出来るはずがない。それは魔族にしても同じ――錬金術の粋を集めたとしても、現在の知識と技術では造ることは不可能。


 となれば、あれは人の手で造られた物にあらず、人の想像によって生み出された物――〈召喚〉だ。


 あれほどの物を生み出すには相応の媒介が必要になる――つまりそれは、魔核だ。そして、その貴重な魔核を与えられ、尚且つこれだけのものを召喚できる者と言えば、その人物は間違いなく勇者だろう。


 だが、黒ずくめの男に尻込みする気配はない。荷台に仁王立ちとなり、両手を赤く光らせ不敵に笑う。


「復讐開始だ。まずはその動き、止めさせてもらおう」


 巨大木造戦艦とはまだ距離があるが、黒ずくめの男は次々に”魔核の種”を作り出し、空へと投げる。

 中空に放られた”魔核の種”は周囲の気体を取り込み、鳥型ヘリアルへと姿を変える――そしてその体が炎に包まれ、炎鳥型ヘリアルとなって飛翔していく。




*****




「てっ、敵襲―!」


 最初に炎鳥型へリアルを見つけたのは、後部甲板で見張りをしている人族の戦士だった。

 群れを成して近づいてくる燃える鳥を即座に敵性生物と判断し、警鐘の手持ち鐘をこれでもかと打ち鳴らす。

 だが、つぎの瞬間には上半身を消失させ、残った足元に鐘が落ちて最後の警鐘を鳴らした。


「おいっ! 警鐘の鐘は何で鳴った?! いや、どうして止まった!」


 巨大な甲板に建てられた箱型の巨大建造物。その一階部分の扉より新たな人族が顔を出し、すぐに中へと引っ込んだ。


「燃えてる鳥が箱舟ノアの周りを飛び回っていやがる! ありゃきっと魔族のゴーレムだ!」


「おぅ、勇者に知らせろ! 砲台を側舷に出させろ、魔族がくるぞぉ!」


「戦闘準備!」


「戦闘準備だぁ!」


 大森林を航行している巨大木造戦艦の名は“箱舟ノア”。黒ずくめの男の読み通り、それは人族が呼び出した勇者によって〈召喚〉されたものだった。


 甲板の上に建つ建造物の一階は兵舎になっていたのか、大勢の人族が動き回り、手には斧を、槍を、盾を持って戦闘準備を行っていく。

 だが、その準備が整う前に炎鳥型ヘリアルからの攻撃は始まった。


 炎鳥型ヘリアルはその嘴を開くと、口内から炎弾を吐き出して箱舟の車輪を狙っていた。その一撃が着弾するごとに箱舟全体が微振動し、炎は木造の車輪を焦げ付かせてダメージを与えていく。


「おい、この振動はなんだ!」


 箱舟の艦橋ともいうべき指揮所で一人の男が叫んだ。


「甲板長より入電! 箱舟の周囲を多数の燃える鳥が旋回し、攻撃を仕掛けてきているとのこと!」


「側舷の砲台を展開してくれとの要請も入っています!」


 指揮所の中心部に据えられた椅子に座るのは、この巨大木造戦艦の船長ともいうべき男――いや、召喚主だ。


 茶系の長髪を何本ものロープ状に絡ませ、無精髭は汚らしく首元までに伸ばし、頭頂部には骸骨が描かれた布を巻いた海賊風の熟年男性。

 左手で赤く光る魔核を転がし、右手には鞘に納められた細剣を杖のように突き、左膝から下は義足らしき木製の棒でしかない。


 この男こそが、人族が召喚した勇者だった。


「箱舟よ! 両舷の張出砲門を開け!」


 勇者は船長席から立ちあがり、左手で弄ぶ魔核を掲げて誰に言うでもなく、箱舟自体へと命令を下した。


 それに呼応するように、両側舷上部が何十と開き、小型砲が載った砲座が突き出される。その一つ一つに人族の船員が座っており、砲座を回転させながら簡易照準で旋回する炎鳥型ヘリアルを追い――黒煙を吹かしながら放たれる砲弾と、途切れることなく撃ち鳴らされる射撃音が大森林に響き渡った。


 張出砲門に載せられた砲台の口径は小さいが、発射間隔は短く連射も効く。威力もそれ相応なのだが、〈召喚〉された箱舟に弾数の概念は存在しない。

 魔核から生成される魔力と、勇者が持つ莫大な内包魔力によって砲弾が生成される。


 だが、炎鳥型へリアルの飛行速度は速い。砲座による対空射撃になど慣れていない人族の船員たちには、その素早い動きを捉えることが出来ず、中々数を減らせないでいた。

 そして、撃ち漏らせば当然反撃を受ける。隙を見て炎鳥が吐き出す炎弾によって張出砲門は次々に破壊され、その爆発が箱舟をさらに揺らす。


「まだ落とせねぇのか下手くそども! 見張りからの連絡は?! 魔族の位置はまだわからねぇのか!」


 指揮所では、船長席に座る勇者が吠えていた。


 すでに炎鳥が魔族によるゴーレムだと判っている。ゴーレムが戦闘を仕掛けてくるということは、間違いなく近くに魔族がいる。

 人族の知識では、魔族のヘリアルに遠距離偵察が出来ることをまだ知らなかった。


 だが、その知識は今必要ではない。現に黒ずくめの男は荷馬車から一人離れ、大森林を疾走しながら炎鳥型ヘリアルをさらに増やしていた。

 箱舟の周囲には数え切れないほどのヘリアルが飛び回り、同時に張出砲門と激しい撃ち合いをしている。


「そろそろだな」


 足を止めた黒ずくめの男は樹々の切れ間から空を見上げ、一際大きい巨木の幹に”魔核の種”を押し当てると、泥に沈むかのように”魔核の種”は巨木の内部へと浸透していく。


「これもいい――さぁ、立ち上がれへリアル! 我が敵の足を止めろ!」


 黒ずくめの男は”魔核の種”をもう一つ巨木へ埋め込み、両手から魔力を放出して二本の巨木へさらに注ぎ込む。


 巨木の根元から何かが割れ、千切れる音が鳴り響き、無数の枝は生物のように蠢いて周囲の樹々を引き寄せて取り込んでいく。地を割り姿を現した太い根は、土を取り込み、石を取り込んでいく。


 形作るのは木と石と土の無機生命体ゴーレム、頭部のない一つ目の巨人型ヘリアルとなって大森林の樹々よりも遥かに高く、太く、屈強な戦士となって立ち上がった。




「見張り台より入電! 箱舟後方に巨大なゴーレムが二体出現!」


 船長席の前方で人族の通信士が声を上げた。それを聞くと勇者は席を立ち、再び魔核を掲げて箱舟に命令を下す。


「箱舟よ! 船尾の映像を映し出せ!」


 勇者の命に呼応し、指揮所前面に張られた窓に船尾の映像が映し出される。


「でかい……」


「あんなゴーレム見たことがねぇ」


「ゆっ、勇者、あんなのやれんのか!?」


「ビビってんじゃねぇ! 船首を一八〇度回頭させろ!」


 船長席の前に置かれた誰も操舵していない舵輪が勝手に回りだし、箱舟は大きな半円を描きながら二体の巨人へと回頭していく――。


「船首砲門開け! 見ていろ魔族がぁ、俺の箱舟がちゃちぃ砲門しか持っていないと思ったら大間違いだぞ……」


 箱舟の船首には頭部がない羽を持つ女性型の船首像があり、その下部が大きく開いて巨大な砲塔が姿を現した。


「回頭完了しました! 前方に巨人のゴーレム二体が視認できます!」


 船員が恐怖に声を引きつらせ、悲鳴交じりに声を上げる。


「おめぇら衝撃に備えろ! 箱舟よ! 俺様の魔力を存分に喰らえ、狙いは目障りな巨人だ、ぶっ放せ――“滅亡の大洪水イルード・デ・チューロ”!」


 箱舟の主砲に青白い光が渦を巻くように輝き収束していく。そして放たれる暴威は一筋の帯となって巨人型ヘリアルの上半身を撃ち砕いた。

 やがて、途切れることのなかった青白い帯は大森林を沈めるほどの大雨となり、黒ずくめの男をずぶ濡れへと変えた。


「さすがは勇者のドールだ!」


「巨人の体が吹き飛んだぜぇー!」


 指揮所内では人族の船員たちが勝利の勝どきを上げていたが――。


「油断するんじゃねぇ! 巨人はもう一体いる、魔族の居場所はまだ判らねぇ、箱舟の周囲にはウザいハエどもが飛び回っているんだぞ!」


 ――勇者の一声によって静まり返る。


「甲板に弓隊をだせ! 主砲が発射可能になるまでの時間を稼ぎやがれ!」


 箱舟の主砲は連射できる代物ではなかった。無尽蔵とも言える勇者の魔力を吸い上げ、全てを破壊し押し流すほどの一撃へと転換するには時間が必要なのだ。


 勇者の命令は瞬く間に伝えられ、一階兵舎より弓隊が出撃して甲板へと並ぶ。主砲の次弾装填までは張出砲門の威力も下がり、弾薬の装填も遅れる。

 巨人を一体破壊したとはいえ、まだ箱舟の周囲には多数の炎鳥が飛び回っている。それを落とさなければ、木造の箱舟にとって痛手となるは間違いなかった。


「構え!」


 甲板に並ぶ弓隊の隊長が声を上げた。両舷に並ぶ弓隊が弦に矢をかける――。


「狙え!」


 空へと向けられる弓矢を引き絞り、次の一声を待つ。


「放てぇー!」


 一斉に放たれる矢が炎鳥型へリアルを何体か撃ち落としたが、その全てを無力化することは出来なかった。二の矢を継いで次の攻撃に備えるが、それよりも炎鳥型ヘリアルの反撃が早かった。

 縦横無尽に飛び回っていた多数の炎鳥型ヘリアルは中空で合流すると、編隊を組むように並んで飛び、上空から炎弾の雨を降らせた。


「おい、あれを見ろ!」


 炎鳥の排除が思うように進まない報告に苦い顔をしている勇者だったが、船員の叫びに反応して外を見る――。


 そこに残るのは巨人が一体だけのはずだったが、箱舟の主砲によって上半身を失ったはずの巨人が倒れもせずに進み続けていた。

 しかも、樹々が成長するかのように腹部から上が再生していき、目の前に迫るころには完全に修復されていた。


「こ、こんなゴーレム聞いたこともねぇ。まっ、まさか、まお――」


「ちぃ、魔力の充填が終わっていねぇが構わねぇ! アレに触らせるな!」


 狼狽える船員を無視して、勇者が不完全な状態で再び主砲を発射した。


 初弾とはその輝きが明らかに違ったが、箱舟に手を伸ばす巨人を撃ち倒すだけの威力はあった。


「おおっ!」


「やった!」


 目の前に迫る巨人の一体が仰向けに倒れていく姿に、船員たちが興奮して声を上げたが勇者はまだ安心していなかった。


「箱舟! 巨人から距離をとれ、急速後退!」


 もう一体の巨人が伸ばす手から逃れようと勇者が箱舟へ命令を下すが、箱舟は何かに引っかかるように振動した後、その動きを止めた。


「なんだ?! どうして動かん!」


 



「やっと取りついたか」


 黒ずくめの男は大森林をずぶ濡れのまま疾走していた。


 ここまで、炎鳥型ヘリアルを多数投入し、巨人型ヘリアルも二体投入した。

 魔族は〈魔法〉という奇跡を行使することができるが、その戦闘方法は〈魔法〉頼みではない。詠唱を必要とする〈魔法〉は隙も多く、どれだけ安全を確保して詠唱できるか、発動までの時間を稼げるかが生き死にを左右する。


 特に魔核を媒介としたドールを相手にするときには注意が必要だ。獣核によって召喚されるドールよりも遥かに大きく、〈魔法〉にも似た能力を幾つも備え持つ。

 魔族の身体能力は人族のそれを根本的に超えているが、数の暴力や強大なドールに対抗するためには、ヘリアルを駆使して戦闘を有利に運ぶのが必須であった。


 巨大な木造戦艦の目前にまで近づいた巨人型ヘリアルであったが、苦し紛れにも見える巨砲の一撃で再び倒された。

 だが、すでに脚の根はその大きな車輪を絡めとり、動きを止めることに成功していた。


「さぁ時間を稼げ、ヘリアルたちよ」


 黒ずくめの男は速度を緩め、大森林に刻み込まれた轍へと姿を現した。


 その姿を人族も捉えたことだろう。だが、それでいい――。


「我は錬成する――」


 ゆっくりと歩きながら右手を突き出すと、その先に闇色の輪環魔法陣が現れる。


「二指の理をもって構成せよ、一つは濃霧、一つは迷い、我が敵を閻霧の牢獄に捉えよ――閻霧の迷宮ミスト・ラビリス


 歩きながら発動した〈魔法〉は動きを止めた木造戦艦を中心に発動し、見る見るうちにその巨体を漆黒の濃霧が包み込んでいく。


 漆黒の濃霧が木造戦艦を完全に包み込むのを確認すると、黒ずくめの男は後ろを振り返り、無表情の少女がいるであろう丘を見つめた。


 準備は整った。黒ずくめの男が渡した〈紋章術〉を施した”魔核の種”を使いこなすことが出来るかは、少女の内包魔力次第。

 家族を――仲間を殺され、魔核を奪われた恨みを自身で晴らすことが出来るか否か、その時は間もなく訪れるだろう。


 だが、人族とて黙って漆黒の濃霧に捉われているはずもない。濃霧を突き破り、一体の巨大な騎士が黒ずくめの男の眼前へと降り立った。


 その大きさは先遣隊と思われた人族が召喚したドールとは比べものにならぬほどに大きく、巨人型へリアルに匹敵するほどの高さ――。

 その姿は騎士鎧に包まれているが、腕部、脚部、その全てが精巧な細工が施された美術品のように美しく細い――だが、その立ち姿は威厳に満ち溢れ、力強さが満ち満ちていた。


 巨人の騎士――それもまた、人族の行使する〈召喚〉によって創造されたものであり、これこそが人族の求める魔核を媒介とした〈召喚〉の結果であった。


「手に入れたばかりの魔核を使ったか」


 〈召喚〉は、使用してみるまでは何が創造されるかは判らない。召喚者に都合のいい形態、性能を持ち合わせて創造されるとは限らないのだ。


「ヘリアル! 生まれたばかりの幻想など、非情なる現実をもって叩き伏せろ!」


 濃霧に包み込まれた木造戦艦の手前で、動きを停止していた巨人型へリアルが再び動き出す。

 召喚された巨人の騎士も腰の大剣を引き抜き、まずはヘリアルからと言わんばかりに振り返る。


 巨人の騎士が持つ大剣の構えを見れば判る――相当な手練れ、木造戦艦が勇者による〈召喚〉であるならば、この巨人の騎士は人族の戦士たちを纏める人物による〈召喚〉なのだろう。


 大剣を脇に構えて腰が落ちる。


 そして超加速――大森林の樹々を吹き飛ばし、地を抉り舞い上がらせながら振られた一刀は、巨人型へリアルを腰から上下に両断した。


 だが、それだけでは巨人型へリアルは沈まない。大剣を振り切った巨人の騎士はその場で足を止め、唯一動く両腕をバタつかせながらもがきだした。

 大森林の樹々に隠れ、黒ずくめの男からはしっかりと見えていないが、巨人型へリアルの下半身は巨人の騎士の足に根を張るように絡まり、しっかりと捉えていた。


 振り抜かれた大剣によって斬り飛ばされた上半身は、巨木の剛腕だけで身を起こし、足で歩くよりも早く両腕だけで動き出すと――巨人の騎士の手前で跳躍し、両手を組んで振り下ろした。


 ぶつかり合う衝撃と、地の底にまで抜けそうな重みのある一撃が重低音を響かせる。

 回転しながら巨人の騎士の背後へと着地した巨人型へリアルの上半身は、そのまま剛腕を振って背後より巨人の騎士の首元を強打した。


 その衝撃により足に絡まる根は引き千切れ、巨人の騎士は前のめりに殴り飛ばされて大森林の樹々をなぎ倒していく。


 なぎ倒した樹々に巨体を埋め、巨人の騎士はその動きを止めたかに見えたが、すぐにまた動き出す――。

 ゆっくりと起き上がり、大剣を支えにして立ち上がる――振り返るその姿にはほとんど損傷がなく、大剣を持たない左手を上半身だけのヘリアルに向けると、その左手首が機械的に折れて、椀部から砲塔が顔を出した。


 轟き始めるのは連続する砲音――魔核が生成する魔力を砲弾に変え、へリアルの上半身を撃つ、撃つ、撃つ。

 噴き上がる火柱と舞い上がる土煙に混ざり、巨人型へリアルを構成していた土と樹も粉々に撃ち砕かれていった。


「剣と砲の騎士か、近遠両方望むとは欲深い人族らしい能力だ」


 黒ずくめの男は空にいた。


 飛行の〈魔法〉によって中空に浮き、巨人の騎士と同じ目線の高さで新たな〈魔法〉を準備していた。


 魔核を媒介にして召喚されたドールは強大であり、〈魔法〉にも似た絶大な力を持つ。

 木造戦艦が見せた巨砲もそれだ。黒ずくめの男も、元より巨人型へリアル一体で倒せる相手だとは思っていなかった。魔核によって召喚されたドールを相手にするのは魔族の役目――ヘリアルだけで倒し切ることは難しい。




「魔族のゴーレムがあれほど動くとはな」


 未だ漆黒の濃霧に包まれる箱舟の甲板で呟くのは、美しい艶のある毛皮に身を包む大柄の男。その手には一際赤く、鼓動のように瞬き光る魔核が握られ、果実酒の満たされたグラスを愛でるかのように、艶めかしく指を動かして弄んでいた。


「大隊長、炎鳥と車輪に絡みついた根の排除はもう少しで完了です」


「急がせろ、勇者の気は短いぞ。この箱舟にはもっと大陸奥地まで進んでもらわなくては困る。それとあの魔族だ、これほどの数のゴーレムを同時に生み出す奴は聞いたことも……いや、まさか……」


「魔核の使用数を増やしますか?」


 大隊長と呼ばれた男の背後には、同じように毛皮に身を包む人族の戦士たちがいた。彼らは皆、大隊長直属の戦士たち――本国の命により、勇者と共に大陸を渡った男たちだ。


「王が許したのは緊急時の一つのみだ」


 そう言いながら、魔核を通してドールと共有した視界で空に浮いている魔族の男の姿を見つめる。


「アレの魔核を納めれば、王もお喜びになるだろう。お前たちも仕事に戻れ」


 黒ずくめの男から視線を外さない大隊長の背後で、部下たちが黙って頭を下げ、振り返って濃霧の中を飛び回る炎鳥の排除と、車輪に絡まる根の排除を指揮しに戻っていく。


「さぁ、ドールよ。まずはその黒い蠅を地に叩き落せ」


 大隊長の命に、魔核が赤く瞬きを見せて応じた――。




 巨人の騎士の折れた左手首が元に戻り、再び大剣を脇に構えて腰が落ちる。


 黒ずくめの男も中空に浮遊したまま右手を差し向け、輪環魔法陣の中に魔力を籠めた指を入れて魔法陣を完成させていく。


 先に動いたのは巨人の騎士だった。超加速からの横斬り――黒ずくめの男を両断すべく振るわれた大剣が迫るが、黒ずくめの男に焦る様子はなかった。ただ一言、準備しておいた魔法名を呟き行使する。


『――雷霆神の槍ヴィジャヤ・ランス


 黒ずくめの男の左右に出現したのは二つの雷属性魔法陣。刻まれた魔文に紫電が回転するように走り、瞬時に眩いばかりの輝きを放ち――それが撃ち出される。


 雷鳴を轟かせて放たれた雷撃の一つは大剣に吸い込まれていくように着弾し、その衝撃が振るわれた軌道を変化させ、黒ずくめの男の頭上を通過していく。


 もう一つの雷撃は巨人の騎士の頭部へと直撃した。


「ぐわぁぁぁ!」


 箱舟の甲板で一部始終を見ていた大隊長は、雷撃の放つ光のすべてを見ていた――いや、見せられた。両目を抑え、甲板に跪いて叫び声をあげた大隊長は、黒ずくめの男が次の〈魔法〉を唱え始めたのを見ることができなかった。


 ドールと視界を共有しているからこそ、雷撃が着弾した以上の効果があることを黒ずくめの男は知っていた。


 対ドール戦において、その召喚者である人族本人へ攻撃を加えるのは最も有効な手段の一つだ。それが直接的な攻撃でなくとも、間接的にドールとの共有を分断し、大きな隙を生むことが出来る。


 さらには、これから行使しようとする〈大魔法〉を邪魔される心配もない。


『我は命ずる――』


 それまで唱え続けていた魔文とは違う言の葉で始まったそれは、黒ずくめの男の姿までをも変えて紡がれていく――。


『八指の理を持って型と成せ――』


 一際大きな輪環魔法陣に両腕を近づけていく黒ずくめの男――いや、今や黒髪は溢れでる魔力によって真紅の赤髪へと、冷然な光が差す黒目は激情の赤目へと変化していた。


『一つは大地、一つは雷雲、顕現するは双竜、天を貫く大剣つるぎよ、大地を貫く轟雷いかづちよ、我が前に立ちはだかる敵を喰らえ、その依代たる魂の器ごと、我が前より滅殺せよ――』


 八本の魔文が輪環魔法陣の中へと描かれ、同時に動きを止めた巨人の騎士を挟むように、足元と頭上に二つの巨大な魔法陣が浮かび上がる。

 遠目からでも判るほどに大魔力を放出する足元の土属性魔法陣と、雷鳴轟かす頭上の雷属性魔法陣が巨人の騎士を魔力の檻へと閉じ込める――。


『――双竜の雷剣ダブドレイク・ブリッツ


 そして宣言された魔法名と共に、足元の魔法陣からは土と岩で構成された竜が天に昇る勢いで巨人の騎士の巨体を削り、頭上の魔法陣からは雷の塊とも言える竜が巨人の騎士に巻き付くように降臨する。

 二つの魔法陣によって閉じられた空間の中で、巨人の騎士は二匹の竜によって何度もその巨体を削り、抉られ、破壊されていく。轟く雷鳴と響き渡る地鳴りからも、その〈大魔法〉の威力が凄まじいことを物語っていた。


 本来、魔族が〈魔法〉に籠める理の数は多くても三つ、それ以上の理を籠めるには魔族の長命から見ても長年――と呼べるだけの修練が必要だった。


 だが、黒ずくめの男は八つの理を籠めて〈大魔法〉を構成した。それだけの奇跡を行使するためには、自身の魔核を活性化させて大量の魔力を生み出す必要がある。


 黒目黒髪が赤目赤髪へと変化したのは、魔核を活性化させた反動だ。身体的変化を引き起こすほどの活性化は魔族ならば誰にでもできるわけではない、極一部の上位に位置する者たちだけがその境地へたどり着き、魔族の中で唯一の座を争う権利を得る。




「ま、まさかあれは……」


 部下に支えられながら起き上がった大隊長は、徐々に回復していく視界を通して〈大魔法〉によって消滅していくドールの最後の視界を共有し、その姿を見ていた。


「大隊長、この物凄い音は一体……」


 轟く雷鳴と地鳴りに顔を引きつらせながらも、部下たちは大隊長が召喚したドールの勝利を信じていた。


 未だ漆黒の濃霧によって動きを止められている箱舟だったが、すでに車輪に絡みついた木の根も、周囲を飛び回る炎鳥の排除も完了していた。

 〈魔法〉による濃霧が晴れるまでは、どれだけ箱舟を進めようと車輪を回しても、濃霧の中から脱出することはできなかった。

 唯一脱出できたのは、魔族と対等に戦える魔核による〈召喚〉のみ、そして侵攻を妨害している魔族さえ狩れば、この漆黒の濃霧はすぐにでも晴れるはずだった。


 ドールの勝利によって、そうなるはずだった――。


「今すぐ勇者に箱舟の移動を開始するように伝えろ……」


「えっ? ですが、この濃霧は……?」


「いいから早く伝えろ! 赤髪だ、赤髪がそこにいるんだぞ! ドール一体で狩れる相手じゃないんだ!!」


 赤髪――その一言で部下の表情は一変した。赤髪が示す意味を、長い闘いの歴史の中で人族も理解していた。


 人族と魔族の戦いは、言いかえれば量と個の戦いだ。如何に魔核を媒介とした強力なドールを手に入れようとも、それ一体だけでは赤髪の魔族を狩ることは難しい。

 人族はドールと戦士による人海戦術を用いてやっと魔族と対等になる。それが不可能な状況では、そもそも侵攻したりはしないのだ。


 顔を青くした部下の男は甲板から兵舎へと走り、通信室へと駆け込んでいく。




「この霧はまだ晴れねぇのか! 貴重な魔核を投入したんだぞ、いつまでかかってるんだ!」


 指揮所から周囲の様子を見ていた勇者は、いつまで待っても晴れない漆黒の濃霧に対し、イラつきを露わにしていた。

 指揮所に就いている船員たちも勇者のイラつきに当てられ、誰もその問いには答えずに口を閉ざしたままだった。


 だが、その空気を一変させる絶叫が指揮所に響き渡る。


「兵舎より入電! 大隊長が外で――あっ、赤髪を確認したとのこと!」


 通信兵の叫びに、勇者を始めとしたすべての船員が言葉を失った。


「あっ、赤髪だと……? 見間違いじゃねぇのか?!」


「見間違いではありません! 赤髪は大隊長と戦闘中の魔族です!!」


 勇者は通信兵を睨みつけて再度確認を取るように指示しながらも、自身も現在までの状況を考えてその可能性が高いことを悟っていた。


「炎鳥と車輪はどうなっている……」


「すでに排除が完了、いつでも動けるはずです」


「甲板に出ている兵を全員収容しろ……箱舟! 魔力の出力を全開にしろ! 今すぐこの大陸を脱出して本国へ戻るぞ!」


 勇者が召喚するドールならば、一対一でも赤髪の魔族を狩ることが出来るかもしれない。しかし、それはドールの能力と特性に大きく左右される。

 とくにこの箱舟は移動手段としての能力に長けており、船首の巨砲や張出砲台を完備しているとはいえ、赤髪の魔族と本格的な戦闘をするには戦闘能力に偏りが大きすぎた。


 故に逃げる――いや、退却する。これはそう、戦術的撤退というやつだ。


 勇者の心中は逃げの理由を満たすことで一杯だった。だが、そうさせないための漆黒の濃霧。

 箱舟の車輪がゆっくりと回転し始め、徐々にその回転を速めていくが、車輪は地を捉えることが出来ずに空転し続けている。




「さぁ、そろそろ決心はついたか?」


 黒ずくめの男は誰に言うわけでもなく呟いた。そして、〈大魔法〉によって消滅していく巨人の騎士から視線を外し、無表情の少女が向かったはずの丘へと振り返る。


 魔核の活性化による赤目赤髪への変化は次第に治まっていき、魔力の残滓を放出しながら徐々に黒目黒髪へと戻っていく。


 視線の先に少女の姿は見えない――距離的に見えるはずもない。だが、あの少女には見えているはずだ。目印となる巨大な木造戦艦を包み込む漆黒の濃霧が――。


 黒ずくめの男が無表情の少女へと渡した三つの”魔核の種”は、〈紋章術〉の研究成果の一つともいえる代物だ。

 僅かな魔力で発動し、黒ずくめの男が籠めた大魔力を魔文と共に開放する。三つの”魔核の種”に刻み込んだ魔文は一つの〈魔法〉を発動し、無表情の少女の決心一つで、箱舟を含め乗船している多くの人族を死に至らしめるだろう。


「渡した三つの”魔核の種”を使い、復讐を果たすか? それともそこを離れ、悲しみに身を委ねて長い年月が忘れさせてくれることを願うか? 俺はどちらでもいい、決断を下すのが一〇〇年先でも、五〇〇年先でもいいだろう」


 黒ずくめの男は中空に浮遊し続け、さらに言葉を紡ぐ。


「その時まで、お前に必要なものをすべて用意しよう。〈魔法〉に関する知識、戦闘技術、この世界の理、お前を魔族の高みへと到達させるために必要な全てを教えよう。それまでの衣食住も用意する――その代価として……」


 黒ずくめの男は中空で黒いローブをはためかせ、両手を大きく広げて宣言した。そこまでする理由も義理も必要もないはずなのに――そして不敵に笑う。


「そうだな、俺の身の回りの世話でもやってもらおうか、食事に洗濯、それに掃除だ」


 それは、代価と呼ぶには余りにも拍子抜けする、個人的な私生活に寄ったものだった。貴金属を要求するわけでも、生ある限りの隷属を要求するわけでもない。黒ずくめの男の口調はとても軽く、メイドの募集でもするかのように囁く。


「さぁ、どうする? もうすぐ霧が晴れるぞ?」


 僅かな沈黙のあと、その問いかけの応答が発動した。




 無表情の少女は黒ずくめの男の声を聴いていた。胸元にしまった、紅い宝石の嵌まったペンダントを通して。


 少女は胸元から取り出したペンダントを右手で眼前に吊るし、そこから聞こえる声を聴きながら黒い濃霧を見ている。左手には三つの”魔核の種”を握りこんでいた。

 

 そして――”魔核の種”に光が灯る。


 無表情の少女は持てる魔力のすべてを三つの”魔核の種”へと注いでいく。

 両親を、仲間を失った絶望を――自身の心を犯す厭世を――唯一感じる復讐心を”魔核の種”へ注ぎ込む。


 その思いがどれほど醜く、禍々しいものだとしても、どこまでも悲しみに満ち溢れたものであったとしても、その全てを吐き出さねば希望の光が姿を現すことはない。


 だから魔力を注ぎ込む――今一度、心を空にするほどの感情を籠めて注ぎ込む。


 そして最後に残るのは、とても些細で小さな約束。やがて少女の心を満たす、どこか暖かい一つの誓約


 三つの”魔核の種”が眩いばかりの光を放ち、無表情の少女を中心に三つのの輪環魔法陣を出現させ、何重もの魔文が踊るように走り、立体的な魔法陣を描き出していく。


 無表情の少女はペンダントを胸元に引き寄せ、右手を漆黒の濃霧へ向けて目を閉じる――。




 木造戦艦を包み込む漆黒の濃霧の真下に、さらに巨大な魔法陣が展開された。その真下、地中奥深く――地獄の底より響き渡るのは魔獣の咆哮。

 地獄の蓋が開くが如く箱舟の真下に地割れが起こり、地の底より何かが昇ってくる。


 同時に、長らく箱舟の動きを封じていた漆黒の濃霧が晴れていく――。再び姿を現した箱舟は大きな四つの車輪を空転させ、この場からの脱出を図ろうともがいていた。


 だが、もう遅い。


 地面を掴んだかと思われた車輪は広がる地割れにバランスを崩し、箱舟は傾きながら地底へと堕ちていく。

 その先に居るものは――箱舟をも上回る巨大な蚯蚓ワームだった。頭部全体が大きな口となっており、鋭い牙が何重にも重なり蠢いている。

 その巨大な蚯蚓が箱舟に取りつくと、木造の船体は容易く噛み砕かれ、破砕音と人族の悲鳴が入り混じりながら地の底へと引きずり込まれていった。


 そして、再び響き渡る地鳴りと共に巨大な地割れは閉じていく――。


 終わったな。


 黒ずくめの男がそう判断した直後――今まさに閉じようとしていた裂け目から、一体のドールが飛び出した。

 その形態は甲冑を纏う巨大な鳥。その両足には召喚主と思われる男と、茶系の長髪を何本ものロープ状に絡ませ、無精髭は汚らしく首元までに伸ばし、頭頂部には骸骨が描かれた布を巻いた海賊風の熟年の男が掴まっていた。


 大空高く舞い上がり、何かを探すように上空で旋回すると、真っすぐに南へ向けて飛び去って行った。

 迷いのないその動きに、黒ずくめの男もその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


「逃がしたか……」


 小さくなって消える後ろ姿を追いながら一言漏らした黒ずくめの男は、ゆっくりと地上へ降りていく。

 そこには馬型へリアルに引かれて移動してきた馬車と、それに乗る無表情の少女の姿もあった。


「どうやら、二人逃したようだな」


 黒ずくめの男同様に、無表情の少女も飛び去った方角を見つめていた。


「人族の大陸へ逃げたのだろう……追うか?」


 少女の背中に問うが――少女は背を向けたまま、僅かに首を横に振った。


「これでお前の復讐は完了したのか?」


 その問いにも、首は横へと振られた。


「では、その時はいつか来るわけだな」


 そこで少女は黒ずくめの男へと振り返り、僅かにだが首を縦に振る――そして、馬車から降りて男のもとへとゆっくり歩いていく。


 黒ずくめの男は僅かに口元を緩めると、黒いマントを片手で広げるようにし、無表情の少女を懐へと向かい入れた。


「ならば、魔族を統括する唯一の座に就く、第一三代魔王ラグナ・レイ・レドウィンの名において誓おう」


 そして宣言する。


「お前の家族を、そして仲間を滅ぼした人族を討つ手助けをしよう。それまでは我に仕え、我のために尽くせ」


 無表情の少女はその名に一瞬歩みを止めたが、またすぐに進みだして黒ずくめの男の前で跪くと、その黒いマントに包まれながら抱き上げられた。


「復讐を諦めるときはいつでも言え、その時がこの契約が終わる時だ」


 男は真っ直ぐに少女の白く濁った目を見た。少女もまた、男の黒目を真っ直ぐに見つめていた。


 どうやら、少女に諦めつもりはないようだ。これから続くであろう年月の果てに、そう決断する時が来るかも知れない。

 だがしかし、それまでは自らを魔王だと名乗った男と、名も知らぬ無表情の少女との契約は続いていく。


「ではまず……お前に名を与えよう、何がいいだろうか?」


 男はいくつかの名を口にしながら、不意に一つの名を思いつく――。


「ヒルダ」


 その響きに、男を真っ直ぐに見つめ続ける少女の白く濁った目が、僅かな光と共に青みを取り戻していくのが見えた。


「決まりだな」




 これは、五〇〇年の長きに渡って君臨し続けた最強の魔王と、その右腕となった女魔族との出会いの物語。

 やがて魔王が滅ぶその日まで――忠義を尽くし、その後も共に歩んだ物語の序文である。

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最強魔王の前日譚 地雷原 @JIRAIGEN

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